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翡翠の姫

十六夜に会いましょう/2

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 リョウカの言葉が何ひとつ忘れることなく、脳裏を流れてゆく。そして、あの高く澄んだ歌声にたどり着いた。

 まぶたから解放された茶色の瞳は背後にある窓へ振り返って、レースのカーテンはさっと勢いよく開けられた。青白い明かりが人影のない大学構内を照らし出す。

「……月」

 満月のように見えたが、よく気をつけてみると、少しだけかけていた。

「十六夜に会いましょう……」

 約束だった。しかし、それは守られることのない約束――嘘。だがそれでも、信じてみたいのだ。いつか守られる日がくると。生まれ変わりがあると。

 レースのカーテンはそのままに、作業用のライトをそっと消す。手の中にある勾玉の蛍火のような明かりと、月影が斜めに差し込む床を歩いてゆく。

 開けたままにしていた引き出しに、翡翠を忘れ形見のように大切にしまう。あの白の巫女からの贈り物を、世界にただひとつしかない宝物として、鍵をかけて。

 上着とネクタイを無造作につかんで、カバンを持ち、貴増参は教授室の入口へとゆっくりと歩いていき、破壊されたドアの代わりの、白い幕を手で払って出て行った。

 引き出しの隙間から差していた、青緑の光は呼吸をするように強くなったり弱くなったりを繰り返していた。

    *
 
 陽はだいぶ西に傾き、あと半刻もすれば、夕暮れが夜へと移りゆくだろう。

 一番星とともに、昼の太陽に隠れて南の高い位置へとすでに登っていた月が、美しい銀色を地上に降り注がせるのももうすぐだ。

 銀杏の葉の黄色はアスファルトを寒々と染めて、枝だけになった並木の前で、長いジーパンの足を持つ男の筋肉質な太い腕に、紫のニットコートを着た女がしがみついていた。

「明! 今日こそは約束だからね!」

 ごつい指先が、女の指一本一本をはがすように取っていこうとする。

「からよ、手え離せや」

 大学の赤レンガの門の前で、また揉めている男女。学生たちがふたりを見て、こそこそと話をして、ニヤニヤしながら通り過ぎてゆく。

 だが、そんなことはどうでもいいのである。ブラウンの長い髪を持つ女にとっては。鋭いアッシュグレーの眼光に負けないくらい、きっとにらみ返してやった。

「一ヶ月前みたいに、置いてくんでしょ?」

 あの日の悔しさと言ったら、一生涯にそうそうないのである。未だ腕組みするみたいにしがみついている女に、明引呼はしゃがれた声でこんなことを聞く。

「てめえ、一体いってえいくつになったんだよ?」
「二十八っ!」

 即行返ってきた回答。空いている方の手の甲で、女の肩をパシンと軽く叩いた。

「普通に答えてんじゃねえよ。置いていかねえから離せよ」

 大きな手で振り払われて、女はむすっとした顔で思いっきりうなる。

「む~!」

 この男は動きが早いのである。手を離したら、どうなるか目に見えている。だが、手の拘束は一方的に解かれ、明引呼は程よい厚みのある唇の端を歪ませると、

「ふっ!」

 短距離走のスタートでも切ったように、パッと駆け出して、貴金属類の音をチャラチャラと響かせながら、門の奥へと消え去っていこうとする。

 女は大声を上げて、バイオレンスな言葉を秋空にとどろかせた。

「あっ、もう! 追いかけてって、飛び蹴りしてやる~~っっ!!」

 ヒールなしの黒のロングブーツは猛ダッシュで、ガタイがよく背の高い男に走り寄り、

「とりゃっ!」

 本当に飛び蹴りを放った。慣れた感じで、明引呼は背後からの攻撃にも関わらずさっとよけて交わす。

「足が早えな」

 自分よりも三十七センチも背が低いのに、よく追いかけてきたと感心していると、シュタッとアスファルトに無事着地した、女からこう返ってくるのである。

「腐ってないわっ!」

 足が早い――腐りやすい。

 この女はいつもこうなのだ。言葉というパンチを食らわしてきたが、カウンターで即座に返してやった。

「逆で、売れ残ってんだろ」

 足が早い――売れ行きがよい。

 その反対。二十八の独身女に言う言葉としては、失礼も甚だしい。

「違うわっ!」

 今にも噛みつきそうな勢いの女を、明引呼は置いていき気味に歩いてゆく。

 誰がどう見ても仲のいいカップルのふざけ合いに、まわりの学生たちの目には映っていた。
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