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最後の恋は神さまとでした

光を失ったピアニスト/3

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 怪我もない、病気もない世界で、今日の主役が床の上に倒れるという光景に、まわりで演奏を聞いていたスタッフたちは、不思議そうな顔をした。

「どうしました?」
「光命さん?」

 あっという間に人垣ができて、

「光命さん?」
「眠ってる?」

 一人事情を知っている弁財天は驚いて、慌ててステージ上を走っていった。スタッフをかき分けて、神経質な頬に紺の髪がもつれ絡みついているのを見つけ、弁財天は白いカットソーの肩を揺さぶった。

「光? 光?」

 ビューラーで巻いたみたいに綺麗なまつ毛は一ミリも動くことなく、腕がだらりと体の脇から床へ落ちた。

(気を失ってる……。気絶が起きてしまった)

 危惧していたことが現実になってしまった。弁財天はそれでも取り乱すことはなく、すぐそばにいたスタッフに指示を出す。

「病院、病院に連絡して!」

 場所の名前は聞いたことがあるが、利用する人など皆無に等しい世界で、スタッフたちは何が何だかよくわからず、全員目を丸くして驚き声をとどろかせた。

「えぇっ!?」
「いいから病院よ!」

 それから数時間後、会場の入り口周辺では、チケットの払い戻しの案内が何度も繰り返されていた――

    *

 首都の中心街にある、ガラス張りの高層ビル。吹き抜けのエントランスから、二階の回路へと登る階段。

 龍が最上階へエレベータも使わず、まっすぐ上へと登ってゆく様は雄大だが、人々は慣れたもので、それぞれ忙しそうにフロアを歩いていた。

 個性的な服装をした猫が二足歩行で、反対側からくる人の横を通り過ぎようとすると、

「お疲れ様です!」
「あぁ、この間の音源ありますか?」

 資料を抱えていた人間の男が急に立ち止まり、勢いよく振り返った。かぎ爪のついた手のひらが向けられると、瞬間移動で四角いものが現れた。

「携帯電話に入ってますよ」
「ちょっとエフェクターをいじりたいので、データいただけますか?」
「いいですよ」

 ネットを経由するのではなく、弓形ゆみなりの鋭い瞳が画面を見つめると、必要なファイルが空中に半透明で浮かび上がり、そのまま人間のスタッフがポケットから取り出した携帯電話に吸収されるように消え去った。

 意識化で操作できるそれは、データの送受信は視線の動きでできる。便利な時代を神々は、人間として生きていた。

 そんなやり取りをしている廊下の一番奥にあるのは、自社ビルを持つ恩富隊の社長室。窓の外には今日も太陽がなくても綺麗な青空が広がる。

 ブラインドカーテンからの隙間から入り込む日差しは、デスクに飾られた花々を通り越して、床へと伸びていた。

 秘書もいない人払いされた応接セットのソファーに、部屋のあるじである弁財天が座り、ひどく残念そうにため息をついた。

「そう。ツアーは全て中止でいいのね?」

 念を押すように聞き返された、向かいの席に座る光命は、冷静な水色の瞳を曇らせていたが、あくまでも平常心をたもったまま、「えぇ」と優雅にうなずき、

「倒れないという可能性がゼロになるまでは、行うことはできません。先日のように、楽しみにしていらっしゃった方々の気持ちを傷つけることはしたくありません」

 ツアーの初日、ピアノを弾いている途中で切れてしまった記憶は、次は病院の天井からだった。

 開演時刻どころか、日付は翌日になっていて、後悔してもし切れず、思わず硬く閉じたまぶたの感触は今でも忘れない。

 弁財天は何度も説得してみたが、他人優先の光命が一番したくなかったことが起きてしまい、誰の言葉も彼には届かなかった。

 やり直しから帰ってきて、少し様子がおかしいと思っていた。

 何か力になれることはないかと、弁財天も聞こうと努力をしてみたが、光命は硬く心を閉ざし、のらりくらりと交わすだけで、決して口を開こうとはしなかった。結局防ぐことはできず、こんな形になってしまった。

 ツアーは中止すると言った、ひどく疲れた様子の光命を、弁財天は優しく微笑んで心配する。

「そう、わかったわ。CDはどうするの?」
「今の体調のままでは、レコーディングのスケジュールも決められません。ですから、そちらもしばらくお休みにします」

 耳にかけていた後毛が落ちると、細い指先ですぐにかけ直すのに、それもしない。光命が必死に何かを耐えながら話しているのは、長く生きている弁財天には痛いほどわかった。

「そう。光がそう言うなら仕方がないわね」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 激情という獣を、冷静な頭脳という盾で飼い慣らし、光命は事務的に話を終えて、スプリングコートを手にして帰るような仕草を見せた。
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