彼女と私の事情

岩崎みずは

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彼女と私の事情

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 私と真雪(まゆき)が幼馴染みなのは事実だけれど、それは単に双方の親の都合だっただけ。たまたま社宅のお向かいに住んでいて、同じ幼稚園に通っていたからに過ぎない。
 体が弱いのに性格がきつくて、言いたいことをずけずけ言う真雪は、きっと病弱だからこそ、子供の頃から両親に甘やかされ続けてあんな我儘で無神経な女の子に育ってしまったのだろう。
 見た目だけは、人形のように綺麗な綺麗な真雪。名前の通り、透き通るような白い肌、陽にも透けないくらいの真っ黒い長い髪。確かハシバミ色、というのだったか、金色に赤味を混ぜたような神秘的な瞳は潤んで物憂げで。どうしたって、人目をひかずにおかない。
 同年代の誰よりも整った容姿の真雪の隣を歩くことを苦痛に感じるようになったのは、中学三年のときだった。
 その当時、クラスに気になる男の子がいた。小学生のときだって男子とまともに喋ることも出来ずにいた内気な私に積極的に話しかけ、冗談を言っては笑わせてくれた子。バスケが得意で明るくてクラスのムードメーカーだった人気者。
 その年のバレンタインデー、同じクラスの女子たちに背中を押されたこともあり、一世一代の覚悟でチョコレートを渡そうとした。あのときの彼の戸惑い困り果てた顔が今でも忘れられない。
 彼は、隣のクラスだった真雪に想いを寄せていて、いつも真雪と登下校を共にしていた私を通して彼女に近づきたかっただけなのだ。
 彼に悪気が無いことは分かっていたけれど、家に帰りベッドに潜り込んで、私は泣いた。口惜しさと恥ずかしさと情けなさが綯い交ぜになって、死んでしまいたいくらいだった。
 程なく彼は父親の仕事の都合で転校していった。真雪は表情一つ変えなかった。というより、彼の存在なんか眼中になかったのだろう。私が特別に想っていた人さえ、真雪にとっては道端の石ころ同然なのだ。一ヶ月近く眠れず食事も喉を通らず憔悴しきった私に対しても、真雪は、いたわりの言葉一つかけてくれることはなかった。
 そのときから、私は真雪が嫌いになった。というより、真雪に対してひどい劣等感を覚える自分自身が嫌いになった。美しい真雪の横に立ちたくなかった、惨めな引き立て役になるだけだから。
 真雪に対してそんな感情を抱くことになるなんてそれまで想像もしなかった。綺麗なだけでなく毒舌だけど怜悧な真雪は私の理想で憧れの存在でもあったのに。五年生の林間学校では、お揃いのお土産を買って交換し合うくらい仲が良かったのに。
 それでも、大学に入学したこの年まで真雪との繋がりを断たなかったのは、私にとって彼女以外に友人と呼べる存在が居なかったからだ。胸の裡で真雪への暗い感情を密かに育てながら、私は生きて来た。


 大都会なら、8階建ての建物なんて、珍しくもないどころか周りの高層ビルに埋もれてしまうちっぽけなものでしかないだろうが、片田舎のこのK総合病院は、ちょっとした高台に建っていることもあり、屋上に登れば自分が住んでいる町を一望出来る。
 夏の終わりを告げる少しだけ冷たい風が、私の頬に触れては離れて行く。まだ空は昼間の名残で明るいが、もう少ししたら陽が傾く時刻だ。
 ポケットからスマホを取り出し時間を確認する。さっき同じ動作をしてからまだ5分しか経っていない。
 呼び出したのは真雪のほうなのに。
 苦い気持ちが込み上げてくる。
 本当は、突然の一方的なメールに応える義理などなかった。先約の飲み会を優先したって良かったのだ。でも、母親にこう諭された。家族ぐるみの昔からの付き合いなのだからお見舞いは当然だし、真雪ちゃんが会いたがっているなら、予定を変更してでも行くべきでしょう、と。
 高校卒業の時期くらいから意図的に、真雪と少しずつ距離を置くようにしていたので、真雪が先月からK病院に入院しているなんてことも私は知らなかったけれど、母親は真雪のお母さんと頻繁に連絡を取り合っているため、私よりも情報が早い。
 私に会いたがっている。あの、真雪が。
 そんなことを言われたって、心はぴくりとも動きはしなかった。私はもう小学生のときのように、真雪に呼ばれたからって、尻尾を振って彼女の元に走って行く仔犬じゃあない。
 腹立たしく思いながら、それでも私はサークルの飲み会幹事に断りのメールを入れた。
 真雪の見舞いに行くことを決めたのは母親の言葉に従ったからではない、ちょっと意地悪な趣向が頭をもたげたからだ。真雪は高校を卒業してから進学も就職もせず、いわゆる「家事手伝い」として自宅で過ごしていた。かたや、私は女子大生だ。ステータスは今や私が上。念入りに化粧をし、取って置きのワンピースとパンプスで着飾って出掛けてやろう。そんな私を前にしたら、病室でなんのお洒落も出来ない真雪はどんな顔をするだろう。今度は、彼女が私の引き立て役になる番だ。
 ところが、病院に着いたら着いたでまたしても驚かされた。真雪の個室のドアをノックしたら、中から出て来たいかつい顔の看護師女性に、屋上で待つように指示されたのだ。真雪がそう言っている、と。
 呼びつけておいて部屋にも入れず、今度は屋上に行けってか。
 一体、何様のつもりなのよ。小指一本で他人を自由に動かせるとでも思っているの。
「相変わらずブスな顔ね、美鈴」
 声に振り向くと、そこに真雪が立っていた。 
「あ、失礼。訂正するわ。ぶすくれた顔ね、って言いたかったの」
 真雪と顔を合わせるのは、実に半年ぶりだ。
 私の予想を、いや、期待を裏切って、真雪は、変わっていなかった。
 病院お仕着せのピンクのパジャマに白いカーディガンを羽織ったダサイ格好で、口紅一つつけていないのに、それでも息を呑むくらい綺麗だった。
 長期入院患者とは思えない薔薇色の頬、記憶にあるのと同じ艶やかな黒髪。最上階のレストランフロアに通じる赤錆びた鉄の扉を背にして普通に立っているだけなのに、そこだけスポットライトが当たっているみたいに輝いて見えた。
 女王様然とした真雪の姿に気圧されそうになりながらも、私はなんとか踏みとどまった。
「久し振り。あの、私に会いたいって聞いて」
 ダメだ。口惜しい。やっぱり真雪の前だとどうしても委縮してしまう癖が抜けていない。
 カフェでお茶するとき当然のように上座に座る真雪。私のお気に入りの持ち物にあれこれ難癖をつける真雪。文句を言ってやりたいのに、反論してやりたいのに、いつも言葉がうまく出て来ない。
「会いたい?私があんたに?ふふん、まあ、そうね」
 完全に私を見下した口調で、真雪が嗤う。
「実は、あんたに頼みがあったのよ」
 真雪が一歩足を踏み出す。無意識に同じ歩幅を後退ってしまった。
 なんだろう、この威圧感。いつもとどこか違う。
「ひッ」
 足元に落とした目線を上げた次の瞬間、私は声を上げそうになった。どうやって距離を詰めたのか、真雪が目の前に立って、私の顔を覗き込んでいたからだ。
「ねえ、美鈴。あんたさ、そんなんじゃ生きててちっとも楽しくないでしょう」
 金色に朱を散らした真雪の双眸が真っ赤に燃えているみたいに見えた。紅を差しているわけでもないのに赤い唇が三日月形に吊り上がる。
「え、あの。真雪、いったい何を言って」
 後退るうち、私は屋上のフェンス際にまで追い詰められていた。もう、後がない。
 なに。これ、なんなの?
 なんの冗談?
 怖い。悲鳴をあげたいのに、大声で助けを求めたいのに、声が出ない。
「だからあ、無駄にするんなら私に頂戴。あんたの寿命」
 真雪の、いや、真雪の姿をした別の何かの手が私の首にかかった。そして華奢な白い指が信じられない力で、首を絞め上げにかかる。息が詰まった。
 イヤ。苦しい。やめて。
 死にたくない。
 そりゃ、私は冴えないけど。人と付き合うことが苦手な、本ばかり読んでいる根暗で猫背の女の子だけど。でも、せっかく入った大学でもっともっと勉強したい。世の中を知りたい。恋愛っていうのもしてみたい。バイトとかもしたい。知らない土地に旅行に行ったり、ブログを始めたり、自分がこの世に存在しているっていうことを証明してみたい。
 でも、それもこれも何も出来ないまま、こんなところで怪物に殺されるの?
 涙が転がり落ちた。
 と、不意に喉の圧迫が消えた。遮断されていた空気がどっと肺に流れ込んでくる。
 真雪が、手を離したのだ。
「ごめんごめん。冗談が過ぎたわ」
 私はむせ返り、真雪の言葉を半分くらいしか理解することが出来ない。まだ耳鳴りがする。心臓が脳に移動したかと思うくらい大音量で脈打っている。
「だって、久々に会えたって言うのに相変わらずヒネた顔しているんだもの」
 可愛い顔が台無しだゾ、と言って、私の鼻を指先でつつく。
「なにが冗談よ。本当に死ぬかと思ったんだから」
 白磁のような真雪の頬が、片方だけ花が咲いたように朱く染まる。私が殴った痕だ。私の右手は、真雪の頬を思い切り引っ叩いていた。叩かれた真雪よりも、私のほうが唖然とした。
 まだ信じられない。私が、ひとを、それも真雪を殴ったなんて。
「そうそう、それでいいのよ」
 頬が真っ赤になるくらい殴られたというのに、真雪は平然としていた。
「本気で腹が立ったら、そうやって怒らなくちゃ。昔から美鈴は自分を抑え過ぎるの。我慢し過ぎるの」
 そんなんじゃ、生きていたって楽しいことも半減しちゃうでしょ。そう言いながら、ポケットから淡いクリーム色のハンカチを取り出して私に手渡す。何故だろう、見覚えがある気がする。
「ほら、涙と鼻水拭きなさいよ、顔、ぐちゃぐちゃじゃない」
 涙も鼻水も、あんたが私の首を絞めたせいでしょ、という言葉を私は呑み込んだ。隅にイニシャルが刺繍されたクリーム色のハンカチは、五年生のとき林間学校で訪れた蓼科高原の土産屋で真雪とお揃いで買ったものだ。
 須藤真雪のM・S。
 笹倉美鈴のM・S。
 偶然にも同じイニシャルを持つ私たちは、お互いのカラーをイメージした色違いのハンカチを購入し、交換した。真雪がくれたのは薄曇りの空の色のようなパステルブルーで、私は柔らかいクリーム色のハンカチを真雪に贈った。
 あのブルーのハンカチをいつの間にか私は失くしてしまったけれど、真雪はずっと持っていてくれたのか。
 どうして?
「ったく。バカだよね、美鈴は」
 相変わらず、真雪は毒舌だ。
「昔から私なんかに引け目感じちゃってさ。健康で未来があるあんたの人生のほうが、私の何十倍も価値があるってのに、そんなことにも気づかないで。勝手に卑屈になって」 
 真雪が芝居がかった溜め息をつく。
「そんなあんたのことがほんと、ムカついてたのよ」
「なによ、それ。ムカついてたってことは、やっぱり私のことを嫌いだったんでしょ」
 必死の反撃のつもりだった。でもその言葉に、真雪は微笑んだ。淡雪のような、すぐにも消えてしまいそうな儚い笑み。真雪って、こんな優しい顔もするんだ。いままで見てきた真雪のどの表情よりも綺麗だ、と思った。
「当たり前じゃない。私の大事な美鈴を過小評価して貶め続けてきた美鈴なんて大ッ嫌い」
 その美鈴もこの美鈴も同じ私なんだけど、と少し笑ってしまった。
 笑っているのにどういうわけか新しい涙が溢れて来て、ハンカチで拭おうとした。でも、そこで手を止めた。なにやら黒いものが視界に入ったからだ。汚れ?いや、違う。
 薄い布を広げて見ると、なにか書いてある。数字だ。
「ねえ、覚えてる?伊東くんのこと」
 いきなりそれまでと違う次元の話を振られ、正直戸惑った。
「私さ、三ヶ月くらい前、街で偶然に伊東くんを見かけたんだよね。後をつけて、声かけたの。こっちの大学に進学したんだって」
 伊東くん。
 忘れる筈がない。中学生の私の、淡い初恋の相手。
「まったく、理性ってもんが多少でも残ってなかったら、ぶん殴ってたわよ。美鈴をあんなに傷つけといて、黙って転校だなんて、ふざけてるにも程があるわよね」
 思春期の甘酸っぱい想いと、胸に受けた今も消えない傷。
 真雪は、気づいてくれていた。気づきながら、何も言わず黙って見守っていてくれたのか。
「伊東くんも、あんたのこと気にしてた。ずっと謝りたかった、って」
 え、じゃあ。この数字は。
「番号、ゲットしといたから。絶対かけなさいよ。そんで何か高いものでも奢ってもらうのよ」
 真雪は楽しそうに続けた。
「想像してたより良いヤツだね、彼。私に惚れてたらしいから、女を見てくれでしか判断しないクズヤローかと思いきや、あんたの美点にもちゃんと気づいてた。委員会の仕事を一回もサボらず一人で黙々とやってた、とか、時々写させてくれたノートの字が、クラスで誰よりもキレイだったとか」
 真雪が軽く私の肩を小突く。
 上手くやんなよ。耳元で、小さく呟きながら。
 気がつくと、空は金色に染まっていた。遠くに目をやると、稜線を飾る真っ赤な夕焼け。武骨なコンクリートの壁も、錆びたフェンスも、柔らかな色彩に沈んでゆく。
「あー、気持ちいい」
 真雪が空に向かって両手を上げ、伸びをした。逆光のなか、真雪のハシバミ色の瞳だけが夕陽の色と混ざるみたいに輝いて、私はそれに見惚れていた。
 いままでありがとね、美鈴。大好きだよ。
 そんな言葉が聞こえたような気がした。
 それほど長い時間ではなかったと思う。我に返ったとき、私は薄闇の中、病院の屋上に取り残されていた。たった一人で。
 鉄の扉が軋みながら開いた。誰かが走り寄って来て、私の腕を掴む。
「笹倉さん、良かった、まだここに居たのね。急いで来てください」
 真雪の病室にいた年配の看護師さんだ。
 看護師さんの後について階段を駆け降りる。病室の前で、見知った中年の男女が互いを支え合うようにして啜り泣いていた。真雪の両親だ。
「真雪ちゃん、うわ言みたいに何度もあなたの名前を呼んでいたの」
 喰い縛った歯の間から絞り出すように看護師さんが呟く。まるで、泣きだしたいのを必死に堪えているみたいに。
 真雪は昨夜、二度の昏睡状態に陥ったらしい。なんとか意識を取り戻したものの、もう、スマホを操作する力も残されていなかった。代わりに私にメールを入れてくれたのは、この看護師さんだった。
「ずっと会いたがっていたあなたが来てくれたっていうのに、真雪ちゃん、やっぱりこんなやつれた姿を見せる決心がつかないって。少しだけ屋上で待ってもらって、って。そう言った」
 薬の副作用で自慢の髪が抜け落ち、頬の肉が削げた姿なんかではなく、いちばん綺麗で元気なときのままの姿で美鈴に会いたい。そう言って、照れくさそうに微笑んだという。そして、そのまま。
 なにそれ。どこまで見栄っ張りなのよ、真雪。
 笑おうとしたのに笑えなかった。私はただ肩を震わせながら、手の中のハンカチを握りしめていた。
 ちゃんと、伝えれば良かった。
「私のほうこそ」
 大好き、真雪。これまでも、これからも。


 二人だけで過ごした最後の時間。彼女の瞳の色が、夕陽に静かに溶けて煌めきながら消えていくのを見届けたあの日。
 その日が、真雪の命日になった。

                 《Fin》


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