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赫眼の客 ≪第二章・ロイアードの明けぬ夜の物語≫
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見晴らしのよい高台に建つ古城。その円錐型の塔の一室を、ロイアードは書斎として使っていた。
ペンをインク壺に浸し、羊皮紙の上に滑らせる。考えが纏まらないまま数枚を無駄にし、幾度目かの溜め息をつく。幼少の頃より興味を持ち、数年前から取り組んでいる研究の編纂は、完成までにまだしばらくかかりそうだ。
ふと、背中に這い上がる寒気を覚え、ペンを置き、両手で己れの体を掻き抱く。冷たく湿った石畳の部屋に澱む空気は、知らず知らずのうちに体を冒している。部屋の隅に脱ぎ捨てたままだった長衣に袖を通すと、ロイアードは窓辺に立った。
雲の彼方に目を凝らすと、城壁の先、遠く重なった稜線の向こうに、かの町の中核を為すサハラ寺院の不規則な尖塔をようやく見つけ出すことが出来た。
その足元には、厳めしい城壁に囲まれた古い町並みが、浅い眠りから目覚める時刻を静かに待っている。
サハラ寺院の大伽藍は、美しかった。
何も知らぬ者が見れば、そしてそれが多少なりとも絵心の有る者であれば、間違いなくあの建物を、こう表現したことだろう。あれこそは選ばれし者のみが住まう天上の城。目映いばかりの黄金に彩られた、天使の住処だ、と。
僅かな光を捉えて輝く無数の色硝子を嵌め込んだ高い窓。見るも鮮やかな、絹のタペストリー。目を見張るほど細かな彫刻を施したヴァルコニー。この世のものとは思えない壮麗さをサハラ寺院は誇っていた。
しかし。
哀しいかな、その真実の姿は、天国などとはおよそ遠い。あの大伽藍を目にするとき、ロイアードの胸には、苦い記憶しか湧いてこない。
幼い頃、寺院へ出向いたことが幾度かあった。だがそれは、神に祈りを捧げるためではなく、施しを受けに行ったのだ。日の出前から、厳めしい、分厚い門の前に列をなす貧しい人々。互いに言葉を交わす力すらなく、ただ欠けた茶碗や皿をそれぞれ手に、皆、煌めくステンドグラスに虚ろな目線を向けていた。
ようやく自分の順番が巡ってきたとき、慌てて差し出した素焼きの碗に、薄いスープとパンの一切れを取り分けてくれた若い修道士が、さり気ない素振りで顔を背けたのを、ロイアードは昨日のことのように覚えている。まるで、足元に立つ幼いロイアードを見ることで、いつも神の像を見つめている自身の目が穢れることを厭うように、真新しい絹の僧服を身につけたその男は、視線を逸らせたのだ。
腹は立たなかった。幼いながら自分の身の置き場を理解していたからだ。
自分は土を耕し、汗水を流して、労働を提供する者。王侯貴族や富裕な商人たちからは家畜のように扱われ、足蹴にされて、それでようやく日々の糧を得ている者。下賎と呼ばれる身分。
ロイアードの両親は、村の庄屋から猫の額ほどの土地を借りて小作を営んでいた。日がな一日、城壁の外の痩せた畑を耕しても収穫は僅か一握りほどの麦。家族七人が食べていける筈もなかった。
ある年、疫病が村を襲った。
すぐ下の妹が命を落とした後は、それはもう、あっという間だった。兄が死に、姉が死に、両親は自分たちの衣服も食糧も全て子供達の薬代に替え、最後は餓えて木乃伊のようになって絶命した。火の気すらない小屋に、ロイアードと、エルザだけが取り残された。
一番下の妹、ロイアードにいちばんよく懐いていた幼いエルザ。
当時、エルザはまだ七つになったばかり。碌な玩具も与えられぬエルザは、自身の抜けた乳歯を小さな壺に入れ、時折それを振って乾いた音をたてさせては独り遊んでいた。名前を呼ぶと振り返って微笑む、その仕草が堪らなく愛おしかった。
何があろうと、エルザだけは守ると決めた。幼い胸に誓った通り、ロイアードは形振(なりふ)り構わずにこれまで生きて来た。
豪商の家に下男として奉公し、昼も夜もなく追い使われた。襤褸を纏い、与えられるのは家畜の餌以下の食事。どころか、それすら口に出来ない日もあった。命じられれば、どんなことでも臆せずやった。少年と言える年齢から脱してからは、有閑夫人たちの夜毎の慰み物にもなった。
十八のとき、僅かな金を元手に、自分で商売を始めた。エルザに少しでも良い暮らしをさせるため、エルザを守るためだ。それ以来、地道にコツコツと事業を広げ、ロイアードは成功者の道を歩み始めた。そして遂に二年前、セルドナに隣接する村の、この古城を買い取ったのだ。エルザを、城に住まう姫君にしてやるために。
今やロイアードは近隣の町の名士の一人だ。かれの前に立ち、顔を背ける者など誰もいない。かれがサロンに出向けば、貴族の娘たちは薔薇色の頬で笑いかけ、妖艶な商人の後家は胸の大きく開いたドレスで科(シナ)をつくり、自らの肉体の豊満さを見せつけてくる。
だが、ロイアードは、意味ありげな秋波を送って寄越す女たちと深い関係を結ぶつもりはなかった。胸に棲むのは、如何なるときでも、ただ一人。
美しく、聡明で純粋。そして、ひたすらなまで一途に兄の自分を慕ってくれる可憐なエルザ。エルザに匹敵する女など、何処にいるという?
無性に、エルザの顔が見たくなった。
螺旋状の階段を降り、城の奥のエルザの寝室へと向かう。華麗な彫刻を施した重厚な扉を押し開けて、ロイアードは部屋のなかへ身体を滑り込ませた。
エルザは、ベッドで規則正しい寝息をたてている。エルザが眠る四柱式の寝台は、ロイアードが特別に誂えさせた、贅を極めたものだ。
ロイアードは足音を忍ばせて近寄ると、絹の上掛けにすっぽり潜り込むようにして眠りこけているエルザの額に、そっと口づけた。
愛しいエルザ。お前も、眠りの中にいるとき、私のことを想っていてくれるかい?
死と眠りは、兄弟だという。
死ねば、魂は常世へ誘(いざな)われる。では眠っている人間の魂は?
神の教義に問えば、教えて貰えるのか。或いは、分厚い聖書の頁を捲ってどこか探せば、その答えは載っているのかもしれない。だが、ロイアードは祈りの言葉など持たず、聖書とも縁がなかった。天国になど行けなくてよい。ただ、この世に在る限り、エルザと共に居られることだけが、望み。
顔を上げたロイアードの目は、そこに意に添わぬものを捉えた。幸福な気持ちに、僅かに影が差す。枕元に置かれた台の上に、燭台と、銀の花瓶。生けてあるのは、赤い薔薇だった。
誰が、赤い薔薇を?
昨日、ロイアードが手ずから花瓶に生けたのは、白い薔薇の筈。使用人の誰かが、知らぬうちに入れ替えたのだろうか。
溜め息をもうひとつ。
エルザは白い薔薇を好む。起き抜けに最初に目に入るのが赤い薔薇とあっては、機嫌を損ねるに違いない。エルザが眼を覚ます前に、なんとかしなくてはならなかった。
来たときと同じほど静かにエルザの寝室を出ると、ロイアードは呼び鈴を鳴らした。すぐさま、召使いの誰かしらが息せき切って走りこんでくることだろう。赤い薔薇を飾った愚かな使用人には、きちんと言い聞かせる必要がありそうだ。
ペンをインク壺に浸し、羊皮紙の上に滑らせる。考えが纏まらないまま数枚を無駄にし、幾度目かの溜め息をつく。幼少の頃より興味を持ち、数年前から取り組んでいる研究の編纂は、完成までにまだしばらくかかりそうだ。
ふと、背中に這い上がる寒気を覚え、ペンを置き、両手で己れの体を掻き抱く。冷たく湿った石畳の部屋に澱む空気は、知らず知らずのうちに体を冒している。部屋の隅に脱ぎ捨てたままだった長衣に袖を通すと、ロイアードは窓辺に立った。
雲の彼方に目を凝らすと、城壁の先、遠く重なった稜線の向こうに、かの町の中核を為すサハラ寺院の不規則な尖塔をようやく見つけ出すことが出来た。
その足元には、厳めしい城壁に囲まれた古い町並みが、浅い眠りから目覚める時刻を静かに待っている。
サハラ寺院の大伽藍は、美しかった。
何も知らぬ者が見れば、そしてそれが多少なりとも絵心の有る者であれば、間違いなくあの建物を、こう表現したことだろう。あれこそは選ばれし者のみが住まう天上の城。目映いばかりの黄金に彩られた、天使の住処だ、と。
僅かな光を捉えて輝く無数の色硝子を嵌め込んだ高い窓。見るも鮮やかな、絹のタペストリー。目を見張るほど細かな彫刻を施したヴァルコニー。この世のものとは思えない壮麗さをサハラ寺院は誇っていた。
しかし。
哀しいかな、その真実の姿は、天国などとはおよそ遠い。あの大伽藍を目にするとき、ロイアードの胸には、苦い記憶しか湧いてこない。
幼い頃、寺院へ出向いたことが幾度かあった。だがそれは、神に祈りを捧げるためではなく、施しを受けに行ったのだ。日の出前から、厳めしい、分厚い門の前に列をなす貧しい人々。互いに言葉を交わす力すらなく、ただ欠けた茶碗や皿をそれぞれ手に、皆、煌めくステンドグラスに虚ろな目線を向けていた。
ようやく自分の順番が巡ってきたとき、慌てて差し出した素焼きの碗に、薄いスープとパンの一切れを取り分けてくれた若い修道士が、さり気ない素振りで顔を背けたのを、ロイアードは昨日のことのように覚えている。まるで、足元に立つ幼いロイアードを見ることで、いつも神の像を見つめている自身の目が穢れることを厭うように、真新しい絹の僧服を身につけたその男は、視線を逸らせたのだ。
腹は立たなかった。幼いながら自分の身の置き場を理解していたからだ。
自分は土を耕し、汗水を流して、労働を提供する者。王侯貴族や富裕な商人たちからは家畜のように扱われ、足蹴にされて、それでようやく日々の糧を得ている者。下賎と呼ばれる身分。
ロイアードの両親は、村の庄屋から猫の額ほどの土地を借りて小作を営んでいた。日がな一日、城壁の外の痩せた畑を耕しても収穫は僅か一握りほどの麦。家族七人が食べていける筈もなかった。
ある年、疫病が村を襲った。
すぐ下の妹が命を落とした後は、それはもう、あっという間だった。兄が死に、姉が死に、両親は自分たちの衣服も食糧も全て子供達の薬代に替え、最後は餓えて木乃伊のようになって絶命した。火の気すらない小屋に、ロイアードと、エルザだけが取り残された。
一番下の妹、ロイアードにいちばんよく懐いていた幼いエルザ。
当時、エルザはまだ七つになったばかり。碌な玩具も与えられぬエルザは、自身の抜けた乳歯を小さな壺に入れ、時折それを振って乾いた音をたてさせては独り遊んでいた。名前を呼ぶと振り返って微笑む、その仕草が堪らなく愛おしかった。
何があろうと、エルザだけは守ると決めた。幼い胸に誓った通り、ロイアードは形振(なりふ)り構わずにこれまで生きて来た。
豪商の家に下男として奉公し、昼も夜もなく追い使われた。襤褸を纏い、与えられるのは家畜の餌以下の食事。どころか、それすら口に出来ない日もあった。命じられれば、どんなことでも臆せずやった。少年と言える年齢から脱してからは、有閑夫人たちの夜毎の慰み物にもなった。
十八のとき、僅かな金を元手に、自分で商売を始めた。エルザに少しでも良い暮らしをさせるため、エルザを守るためだ。それ以来、地道にコツコツと事業を広げ、ロイアードは成功者の道を歩み始めた。そして遂に二年前、セルドナに隣接する村の、この古城を買い取ったのだ。エルザを、城に住まう姫君にしてやるために。
今やロイアードは近隣の町の名士の一人だ。かれの前に立ち、顔を背ける者など誰もいない。かれがサロンに出向けば、貴族の娘たちは薔薇色の頬で笑いかけ、妖艶な商人の後家は胸の大きく開いたドレスで科(シナ)をつくり、自らの肉体の豊満さを見せつけてくる。
だが、ロイアードは、意味ありげな秋波を送って寄越す女たちと深い関係を結ぶつもりはなかった。胸に棲むのは、如何なるときでも、ただ一人。
美しく、聡明で純粋。そして、ひたすらなまで一途に兄の自分を慕ってくれる可憐なエルザ。エルザに匹敵する女など、何処にいるという?
無性に、エルザの顔が見たくなった。
螺旋状の階段を降り、城の奥のエルザの寝室へと向かう。華麗な彫刻を施した重厚な扉を押し開けて、ロイアードは部屋のなかへ身体を滑り込ませた。
エルザは、ベッドで規則正しい寝息をたてている。エルザが眠る四柱式の寝台は、ロイアードが特別に誂えさせた、贅を極めたものだ。
ロイアードは足音を忍ばせて近寄ると、絹の上掛けにすっぽり潜り込むようにして眠りこけているエルザの額に、そっと口づけた。
愛しいエルザ。お前も、眠りの中にいるとき、私のことを想っていてくれるかい?
死と眠りは、兄弟だという。
死ねば、魂は常世へ誘(いざな)われる。では眠っている人間の魂は?
神の教義に問えば、教えて貰えるのか。或いは、分厚い聖書の頁を捲ってどこか探せば、その答えは載っているのかもしれない。だが、ロイアードは祈りの言葉など持たず、聖書とも縁がなかった。天国になど行けなくてよい。ただ、この世に在る限り、エルザと共に居られることだけが、望み。
顔を上げたロイアードの目は、そこに意に添わぬものを捉えた。幸福な気持ちに、僅かに影が差す。枕元に置かれた台の上に、燭台と、銀の花瓶。生けてあるのは、赤い薔薇だった。
誰が、赤い薔薇を?
昨日、ロイアードが手ずから花瓶に生けたのは、白い薔薇の筈。使用人の誰かが、知らぬうちに入れ替えたのだろうか。
溜め息をもうひとつ。
エルザは白い薔薇を好む。起き抜けに最初に目に入るのが赤い薔薇とあっては、機嫌を損ねるに違いない。エルザが眼を覚ます前に、なんとかしなくてはならなかった。
来たときと同じほど静かにエルザの寝室を出ると、ロイアードは呼び鈴を鳴らした。すぐさま、召使いの誰かしらが息せき切って走りこんでくることだろう。赤い薔薇を飾った愚かな使用人には、きちんと言い聞かせる必要がありそうだ。
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