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19.
世界でいちばん最後の
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紅茶とシフォンケーキと互いの近況報告。それが済んでしまえば、女子会でもあるまいし、話すことなどそうそうあるものではない。30分もしないうちに、匡平は尻がむず痒くなってきた。決してこの家が居心地が悪いというわけではないのだが、沙都子と啓樹が一緒に居る空間というのが何となく落ち着かない。沙都子と啓樹は当り障りのない会話を和やかに交わしているだけなのに、匡平は、自分が、元カノとイマカノが目の前で、互いの素性を知らないまま親密になりかけているのを冷や冷やしながら眺めている優柔不断男でもあるかのような、奇妙な錯覚についつい陥りかけるのだ。
「そういえば、おじさんは?」
匡平にはまったくついていけない、ナントカ賞を取ったナントカいう人気の新刊とやらに関する話題が一区切りついたのだろう、思い出したように啓樹が匡平の耳に囁いた。そういえば父親の姿を見ていない。
成果物を納品した得意先で不具合が発生し、社員総出で前夜からメンテナンス作業をしている、と沙都子は答えた(匡平の父親は元プログラマーで、いまは独立し小さな会社を経営している)。今日の匡平たちの訪問をそれは楽しみにしていたので、急な仕事が入ったことに意気消沈していた、との沙都子の言葉に、匡平は安堵の苦笑を漏らした。少なくとも、生まれたばかりの赤ん坊にデレデレの自分の父親の姿を啓樹の目に晒すことは免れたのだ。
「俺たち、そんな長居するつもりで来たんじゃないんで」
沙都子を疲れさせたくなくて匡平が切り出すと、赤ちゃんの顔を見せて頂いたら、すぐ帰ります、と啓樹が引き取った。こちらの意図を汲み損ねる程無粋ではない沙都子は、そんなことを言わずにゆっくりしていらしてください、などと引き止める振りなどしない。
「そうですね、では、二階へ行きましょうか」
先に立つ沙都子の後ろへピタリと貼り付くようにして、匡平と啓樹も階段を昇る。匡平たちが到着する少し前にミルクを済ませて寝付いた、というから、下手な物音などたてるわけにはいかない。ところが、そう思えば思うほど上手くはいかないもので、匡平は階段の縁(へり)に爪先を厭と言うほどぶつけ、思わず、痛えッと呻いてしまった。即座に啓樹がトーンを落とした、だが慌てた声で
「匡平、うるさい」
とたしなめる。
沙都子が振り返って笑った。
「大丈夫ですよ。ちょっとくらいの物音で目を覚ますほど、繊細じゃありませんから」
思わず互いの顔を見合わせた匡平と啓樹を、沙都子は階段を上がってすぐの洋室へと導いた。
赤ん坊のいる部屋は、独特な匂いがする。ミルクと、ベビーパウダーだろうか。甘ったるいような、そして懐かしいような。
広くはないが、日当たりの良さそうな部屋。そこかしこに配置された、柔らかそうな動物やキャラクターの縫いぐるみ。天井から吊るされた、色鮮やかなモビール。軽やかに回る鳥や飛行機の真下、白いベビーベッドのなかに、赤ん坊が眠っていた。
『無垢』『あどけない』『天使のよう』赤子を形容する在り来りな言葉なら幾つでも並べたてることが出来る。しかし、初めて目にする兄弟を前に、そんな言葉は浮かんでこなかった。可愛い、という感想すらも。正直、目の前の赤ん坊は別段、可愛くもなかった。赤ん坊など皆そうだろうが、髪の毛はほとんど無いし、歯だって生え揃ってなどいない。顔の造形にしたところで、彫りの深さなど望むべくもない。
だが。
「へえ」
思わず、声が漏れた。
ってか、馬鹿か、俺は。半分とはいえ血の繋がった弟と初めて会って、最初に発した言葉が「へえ」ってか。啓樹はと見れば、まるで催眠術でもかけられたかのように赤ん坊に見入っている。
そのとき、眠っている筈の赤ん坊が、「ひく」でも「えぐ」でもない、小さな唸り声を出した。
こんなに小さいのに、生きてるんだ。当たり前のことなのに、とても不思議なことのような気がした。無意識に赤ん坊の頬に伸ばした匡平の手を、啓樹が止めた。
「ダメだろ、触っちゃ。消毒もしてない手で」
慌てた素振り。まるで、啓樹がこの子供の母親のようだ。
「うっせーな、いいんだよ。口挟むんじゃねーよ。俺の弟なんだから」
そう言いながらも、確かに消毒していない手で触っては不味いのかも、と伸ばした指先を止める。声を殺した匡平と啓樹の遣り取りがコミカルなものに映ったのだろう、沙都子が小さな声で笑った。
「大丈夫ですって。ここは無菌室じゃありませんし」
母親になって僅か三ヶ月ほどだというのに、沙都子は堂に入った落ち着き振りだ。
「抱いてみますか?」
言われて、匡平は即座に首を横に振った。触ってみたいけれど、触るのが怖い。自分がこれまで知っている世界に存在するものとは余りにも違いすぎる生きもの。
「俺、抱いてみたいです」
啓樹が発した台詞に、匡平はギョッとして顔を上げた。啓樹も啓樹で、思い切った発言に自分自身が驚いたように頬を赤らめている。そんな、齢相応というか、幼く見える程に生き生きとした啓樹の表情を見るのは匡平にとって新鮮だった。
沙都子は慣れた手つきで赤ん坊をベッドから掬いあげると、啓樹にそうっと託した。右手はこうで、左手はこの位置で首の後ろを支えて。細やかに啓樹に指示を出す沙都子と、女教師に教わる一年生のように慌てふためきながらそれに従おうとする啓樹の様子が見ていて妙に微笑ましくて、匡平の口許は自然と緩む。
「名前、なんていうんですか」
口調は少し不安気に、それでもしっかりと腕に抱いた赤ん坊を優しく揺すりながら、啓樹が尋ねる。柔らかな目線を赤ん坊の顔に落としたまま、穏やかな笑みを浮かべて。匡平は驚いていた。血の繋がった、弟の名前。本来ならば、啓樹ではなく匡平が、沙都子に真っ先に訊くべきだった筈だ。
「虹太、っていいます」
「コータ?」
沙都子が微笑む。匡平と初めて会った日、匡平が最初に惹かれた、穏やかな、飛び切り優しい表情で。
「空にかかる虹が好きなんです。それに」
沙都子は、一呼吸置いて、少し照れたように続けた。
「匡平さんとの絆の名前ですから」
コータ。虹太。その名前を、喉の奥で幾度も反芻し続ける。
挨拶もそこそこに沙都子の家を後にしバス停への道程を急ぎながら、匡平は、啓樹に同行して貰った礼を言うことすら忘れていた。
自分との絆の名前。沙都子に言われるまで、すっかり忘れていた。というより、もう、ここ何年も思い出しもしなかった。
「匡平、訊いてもいい?」
匡平から数歩遅れ、匡平と同じように押し黙って歩いていた啓樹が、沈黙に耐えられなくなったのか、声をかけてきた。
「あの赤ちゃんの名前、何かあるの?名前を聞いてから、匡平、一言も喋らなくなっちゃって」
自分は、さもムッツリと塞ぎこんでいるようにでも見えていたのだろうか。決してそんなことはない。それに、隠さなければいけない秘密があるわけでもない。
「ああ、わりい。気い遣わせたよな」
信号待ちで立ち止まった匡平は、啓樹の肩が自分と並ぶのを待って、口を開いた。
「俺が産まれたときにさ、親父とお袋が、なんて名前にするか迷ったんだって。最終候補を二つまで絞ったんだけど、なかなか決められなかった、って」
へえ、そうだったんだ、と啓樹が相槌を打つ。
「最終候補の一つは、匡平だよね。もう一つって、ひょっとしたら」
匡平は頷いた。啓樹は、話の勘所を見逃さない。
「コータ。もしかしたら、匡平は、神崎匡平じゃなくて、神崎コータだったかもしれない、ってことだ」
再び、頷く。十七年前、もしも自分がコータと名付けられていたら、今日初めて出会った弟が匡平と名付けられたかも知れないのだ。
「なんか、俺、ヘンに感動しちゃってさ。別に、そんな大したことじゃないって分かってるのに」
沙都子は、別に、匡平の両親に気を遣って点数稼ぎに赤ん坊の名前を付けたわけではない。沙都子は、こう話してくれた。
生まれてくる子に何て名前をつけようか、って夫婦で相談しているときに、匡平さんのときは、匡平とコータどちらにするか迷いに迷った、ってあのひと(沙都子の夫=匡平の父親)が呟いて。そのコータ、っていう響きを聞いた瞬間に、お腹の子の名前はそれしかない、って思ったんです。まるで、啓示みたいに。
大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。
「最初は、何にも期待してなかった。かーちゃんにせっつかれて赤ん坊見て来い、って言われて。メンドくせーくらいに思ってた」
「でも、行って良かった、だよね」
匡平は、大きく頷いた。
「俺、今日のこと、多分、一生忘れない」
啓樹が微笑む。一瞬、それは何処か寂しそうな笑顔に見えたが、匡平は気のせいだと思った。だから、続けた。胸の裡に秘めておこうと思ったことを言葉にした。
「ヘンなんだけどさ。最初、コータを見たときに、俺、思ったんだ」
自分の両親にも、勿論、沙都子にも死ぬまで決して言わないだろう台詞。
「どうして、俺の子じゃないんだろう、って」
言ってしまってから、急に恥ずかしくなった。バカなことを口走って、笑われる、と。それと同時に、啓樹の気持ちを少しでも癒すために計画した今回の遠出だというのに、啓樹そっちのけで自分がコータに夢中になっていたことを、匡平は改めて気づかされた。
が、啓樹は、笑いも、匡平の言葉を茶化しもしなかった。
「分かるよ」
静かな口調で、啓樹は続ける。
「匡平がすっごく感動したってこと、って、俺にも分かる。匡平は、昔からそうだよね」
映画を観た帰り、その映画に感動して好きで気に入っていると、何にも喋らなくなる。反対に、詰まらない、気に入らない内容だと、ヘンに饒舌になるものね。
そう言われて、匡平は驚き、まじまじと啓樹を見つめた。
連れだって映画に行った帰り。その映画が面白くて気に入れば、匡平は自分のなかで何度も好きなシーンを反芻する。繰り返して感動に浸ることに忙しく、啓樹がそこにいないように扱うのが常だった。逆に、詰まらない筋立てだったら、脈絡もないことを延々と喋り散らした。
自分自身ですら気づいていなかったのに、まさかそれを言い当てられるとは。
そのとき突然に、匡平は理解した。こいつだけだ、と。
匡平を、誰よりも理解してくれているのは、啓樹なのだ。欠点も、悪い癖も知りながら、それでも決して見捨てない。離れていかない。匡平が思っているよりもずっと深く、辛抱強く、匡平を観察し、全てを許し、寄り添ってくれる。
おまえ、どんだけ俺のこと好きなんだよ。零れそうになった台詞を飲みこむ。こんな不完全な自分などが、どうすれば、啓樹の想いに報いることが出来るのだろう。
啓樹に触れたい、と思った。触れて、今すぐ抱き締めたい。自分も、どれ程に啓樹を大切に想っているか、行動で示したい。
啓樹の頬に、手を延ばそうとしたときだった。
「あ」
不意に啓樹が首元に手をやり、困ったように匡平の顔を覗き込んだ。
「俺、マフラー忘れてきたみたいだ。戻って、取って来る」
確かに、来るときに啓樹の襟元にまかれていたバーバリーが見当たらない。
「だったら、わざわざ戻らなくても」
どうせ、近々親父に会うだろうし。そんとき持って来て貰うから。そう提案した匡平に、啓樹は首を横に振った。
「預かって貰って、おまけに、わざわざおじさんに持って来て貰うほうが先方に迷惑かけるよ。大丈夫、サクっと戻って回収してくるから」
それ以上、匡平には何も言わせず、啓樹は、くるりと踵を返すと、いま来た道を足早に戻って行った。待てよ、俺も付き合うよ、と匡平が言葉を投げる暇もなかった。
おかしな奴だ、と思ったが、啓樹は楽しそうで、足取りは軽かった。
コータに会わせたことで、啓樹のなかでもなにかが吹っ切れたのかもしれない。そうであってくれれば、それ以上に嬉しいことはない。
その場で、匡平は啓樹を待った。だが、10分、20分が過ぎても、啓樹は姿を現さない。もしかしたら、沙都子に請われ、リビングに引っ張りあげられて、話の続きでもしているのかもしれない。あの二人はどちらもインテリだし読書家で、話が合う。沙都子にしたって、いまは専業主婦で日がな一日赤ん坊と家に二人きりなのだ。毎日それでは気が滅入るだろう。時々は夫以外の雑談相手だって欲しい筈だ。
これ以上、道の真ん中で突っ立っているのもどうかと思い、帰ることにした。来るときと同じ時間を、今度は一人でバスに揺られ、最寄り駅に車が滑り込んだタイミングだった。
匡平の携帯が鳴った。電話をかけてきたのは、父親だった。
「はい、俺。なんだよ、とーちゃん。今日、突発の仕事だったんだって?」
匡平の軽口は、予想だにしなかった父親の重く鋭い口調に砕かれた。
父親は、こう言ったのだ。
虹太がいなくなった。
おそらくは、啓樹が連れ去った、と。
「そういえば、おじさんは?」
匡平にはまったくついていけない、ナントカ賞を取ったナントカいう人気の新刊とやらに関する話題が一区切りついたのだろう、思い出したように啓樹が匡平の耳に囁いた。そういえば父親の姿を見ていない。
成果物を納品した得意先で不具合が発生し、社員総出で前夜からメンテナンス作業をしている、と沙都子は答えた(匡平の父親は元プログラマーで、いまは独立し小さな会社を経営している)。今日の匡平たちの訪問をそれは楽しみにしていたので、急な仕事が入ったことに意気消沈していた、との沙都子の言葉に、匡平は安堵の苦笑を漏らした。少なくとも、生まれたばかりの赤ん坊にデレデレの自分の父親の姿を啓樹の目に晒すことは免れたのだ。
「俺たち、そんな長居するつもりで来たんじゃないんで」
沙都子を疲れさせたくなくて匡平が切り出すと、赤ちゃんの顔を見せて頂いたら、すぐ帰ります、と啓樹が引き取った。こちらの意図を汲み損ねる程無粋ではない沙都子は、そんなことを言わずにゆっくりしていらしてください、などと引き止める振りなどしない。
「そうですね、では、二階へ行きましょうか」
先に立つ沙都子の後ろへピタリと貼り付くようにして、匡平と啓樹も階段を昇る。匡平たちが到着する少し前にミルクを済ませて寝付いた、というから、下手な物音などたてるわけにはいかない。ところが、そう思えば思うほど上手くはいかないもので、匡平は階段の縁(へり)に爪先を厭と言うほどぶつけ、思わず、痛えッと呻いてしまった。即座に啓樹がトーンを落とした、だが慌てた声で
「匡平、うるさい」
とたしなめる。
沙都子が振り返って笑った。
「大丈夫ですよ。ちょっとくらいの物音で目を覚ますほど、繊細じゃありませんから」
思わず互いの顔を見合わせた匡平と啓樹を、沙都子は階段を上がってすぐの洋室へと導いた。
赤ん坊のいる部屋は、独特な匂いがする。ミルクと、ベビーパウダーだろうか。甘ったるいような、そして懐かしいような。
広くはないが、日当たりの良さそうな部屋。そこかしこに配置された、柔らかそうな動物やキャラクターの縫いぐるみ。天井から吊るされた、色鮮やかなモビール。軽やかに回る鳥や飛行機の真下、白いベビーベッドのなかに、赤ん坊が眠っていた。
『無垢』『あどけない』『天使のよう』赤子を形容する在り来りな言葉なら幾つでも並べたてることが出来る。しかし、初めて目にする兄弟を前に、そんな言葉は浮かんでこなかった。可愛い、という感想すらも。正直、目の前の赤ん坊は別段、可愛くもなかった。赤ん坊など皆そうだろうが、髪の毛はほとんど無いし、歯だって生え揃ってなどいない。顔の造形にしたところで、彫りの深さなど望むべくもない。
だが。
「へえ」
思わず、声が漏れた。
ってか、馬鹿か、俺は。半分とはいえ血の繋がった弟と初めて会って、最初に発した言葉が「へえ」ってか。啓樹はと見れば、まるで催眠術でもかけられたかのように赤ん坊に見入っている。
そのとき、眠っている筈の赤ん坊が、「ひく」でも「えぐ」でもない、小さな唸り声を出した。
こんなに小さいのに、生きてるんだ。当たり前のことなのに、とても不思議なことのような気がした。無意識に赤ん坊の頬に伸ばした匡平の手を、啓樹が止めた。
「ダメだろ、触っちゃ。消毒もしてない手で」
慌てた素振り。まるで、啓樹がこの子供の母親のようだ。
「うっせーな、いいんだよ。口挟むんじゃねーよ。俺の弟なんだから」
そう言いながらも、確かに消毒していない手で触っては不味いのかも、と伸ばした指先を止める。声を殺した匡平と啓樹の遣り取りがコミカルなものに映ったのだろう、沙都子が小さな声で笑った。
「大丈夫ですって。ここは無菌室じゃありませんし」
母親になって僅か三ヶ月ほどだというのに、沙都子は堂に入った落ち着き振りだ。
「抱いてみますか?」
言われて、匡平は即座に首を横に振った。触ってみたいけれど、触るのが怖い。自分がこれまで知っている世界に存在するものとは余りにも違いすぎる生きもの。
「俺、抱いてみたいです」
啓樹が発した台詞に、匡平はギョッとして顔を上げた。啓樹も啓樹で、思い切った発言に自分自身が驚いたように頬を赤らめている。そんな、齢相応というか、幼く見える程に生き生きとした啓樹の表情を見るのは匡平にとって新鮮だった。
沙都子は慣れた手つきで赤ん坊をベッドから掬いあげると、啓樹にそうっと託した。右手はこうで、左手はこの位置で首の後ろを支えて。細やかに啓樹に指示を出す沙都子と、女教師に教わる一年生のように慌てふためきながらそれに従おうとする啓樹の様子が見ていて妙に微笑ましくて、匡平の口許は自然と緩む。
「名前、なんていうんですか」
口調は少し不安気に、それでもしっかりと腕に抱いた赤ん坊を優しく揺すりながら、啓樹が尋ねる。柔らかな目線を赤ん坊の顔に落としたまま、穏やかな笑みを浮かべて。匡平は驚いていた。血の繋がった、弟の名前。本来ならば、啓樹ではなく匡平が、沙都子に真っ先に訊くべきだった筈だ。
「虹太、っていいます」
「コータ?」
沙都子が微笑む。匡平と初めて会った日、匡平が最初に惹かれた、穏やかな、飛び切り優しい表情で。
「空にかかる虹が好きなんです。それに」
沙都子は、一呼吸置いて、少し照れたように続けた。
「匡平さんとの絆の名前ですから」
コータ。虹太。その名前を、喉の奥で幾度も反芻し続ける。
挨拶もそこそこに沙都子の家を後にしバス停への道程を急ぎながら、匡平は、啓樹に同行して貰った礼を言うことすら忘れていた。
自分との絆の名前。沙都子に言われるまで、すっかり忘れていた。というより、もう、ここ何年も思い出しもしなかった。
「匡平、訊いてもいい?」
匡平から数歩遅れ、匡平と同じように押し黙って歩いていた啓樹が、沈黙に耐えられなくなったのか、声をかけてきた。
「あの赤ちゃんの名前、何かあるの?名前を聞いてから、匡平、一言も喋らなくなっちゃって」
自分は、さもムッツリと塞ぎこんでいるようにでも見えていたのだろうか。決してそんなことはない。それに、隠さなければいけない秘密があるわけでもない。
「ああ、わりい。気い遣わせたよな」
信号待ちで立ち止まった匡平は、啓樹の肩が自分と並ぶのを待って、口を開いた。
「俺が産まれたときにさ、親父とお袋が、なんて名前にするか迷ったんだって。最終候補を二つまで絞ったんだけど、なかなか決められなかった、って」
へえ、そうだったんだ、と啓樹が相槌を打つ。
「最終候補の一つは、匡平だよね。もう一つって、ひょっとしたら」
匡平は頷いた。啓樹は、話の勘所を見逃さない。
「コータ。もしかしたら、匡平は、神崎匡平じゃなくて、神崎コータだったかもしれない、ってことだ」
再び、頷く。十七年前、もしも自分がコータと名付けられていたら、今日初めて出会った弟が匡平と名付けられたかも知れないのだ。
「なんか、俺、ヘンに感動しちゃってさ。別に、そんな大したことじゃないって分かってるのに」
沙都子は、別に、匡平の両親に気を遣って点数稼ぎに赤ん坊の名前を付けたわけではない。沙都子は、こう話してくれた。
生まれてくる子に何て名前をつけようか、って夫婦で相談しているときに、匡平さんのときは、匡平とコータどちらにするか迷いに迷った、ってあのひと(沙都子の夫=匡平の父親)が呟いて。そのコータ、っていう響きを聞いた瞬間に、お腹の子の名前はそれしかない、って思ったんです。まるで、啓示みたいに。
大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。
「最初は、何にも期待してなかった。かーちゃんにせっつかれて赤ん坊見て来い、って言われて。メンドくせーくらいに思ってた」
「でも、行って良かった、だよね」
匡平は、大きく頷いた。
「俺、今日のこと、多分、一生忘れない」
啓樹が微笑む。一瞬、それは何処か寂しそうな笑顔に見えたが、匡平は気のせいだと思った。だから、続けた。胸の裡に秘めておこうと思ったことを言葉にした。
「ヘンなんだけどさ。最初、コータを見たときに、俺、思ったんだ」
自分の両親にも、勿論、沙都子にも死ぬまで決して言わないだろう台詞。
「どうして、俺の子じゃないんだろう、って」
言ってしまってから、急に恥ずかしくなった。バカなことを口走って、笑われる、と。それと同時に、啓樹の気持ちを少しでも癒すために計画した今回の遠出だというのに、啓樹そっちのけで自分がコータに夢中になっていたことを、匡平は改めて気づかされた。
が、啓樹は、笑いも、匡平の言葉を茶化しもしなかった。
「分かるよ」
静かな口調で、啓樹は続ける。
「匡平がすっごく感動したってこと、って、俺にも分かる。匡平は、昔からそうだよね」
映画を観た帰り、その映画に感動して好きで気に入っていると、何にも喋らなくなる。反対に、詰まらない、気に入らない内容だと、ヘンに饒舌になるものね。
そう言われて、匡平は驚き、まじまじと啓樹を見つめた。
連れだって映画に行った帰り。その映画が面白くて気に入れば、匡平は自分のなかで何度も好きなシーンを反芻する。繰り返して感動に浸ることに忙しく、啓樹がそこにいないように扱うのが常だった。逆に、詰まらない筋立てだったら、脈絡もないことを延々と喋り散らした。
自分自身ですら気づいていなかったのに、まさかそれを言い当てられるとは。
そのとき突然に、匡平は理解した。こいつだけだ、と。
匡平を、誰よりも理解してくれているのは、啓樹なのだ。欠点も、悪い癖も知りながら、それでも決して見捨てない。離れていかない。匡平が思っているよりもずっと深く、辛抱強く、匡平を観察し、全てを許し、寄り添ってくれる。
おまえ、どんだけ俺のこと好きなんだよ。零れそうになった台詞を飲みこむ。こんな不完全な自分などが、どうすれば、啓樹の想いに報いることが出来るのだろう。
啓樹に触れたい、と思った。触れて、今すぐ抱き締めたい。自分も、どれ程に啓樹を大切に想っているか、行動で示したい。
啓樹の頬に、手を延ばそうとしたときだった。
「あ」
不意に啓樹が首元に手をやり、困ったように匡平の顔を覗き込んだ。
「俺、マフラー忘れてきたみたいだ。戻って、取って来る」
確かに、来るときに啓樹の襟元にまかれていたバーバリーが見当たらない。
「だったら、わざわざ戻らなくても」
どうせ、近々親父に会うだろうし。そんとき持って来て貰うから。そう提案した匡平に、啓樹は首を横に振った。
「預かって貰って、おまけに、わざわざおじさんに持って来て貰うほうが先方に迷惑かけるよ。大丈夫、サクっと戻って回収してくるから」
それ以上、匡平には何も言わせず、啓樹は、くるりと踵を返すと、いま来た道を足早に戻って行った。待てよ、俺も付き合うよ、と匡平が言葉を投げる暇もなかった。
おかしな奴だ、と思ったが、啓樹は楽しそうで、足取りは軽かった。
コータに会わせたことで、啓樹のなかでもなにかが吹っ切れたのかもしれない。そうであってくれれば、それ以上に嬉しいことはない。
その場で、匡平は啓樹を待った。だが、10分、20分が過ぎても、啓樹は姿を現さない。もしかしたら、沙都子に請われ、リビングに引っ張りあげられて、話の続きでもしているのかもしれない。あの二人はどちらもインテリだし読書家で、話が合う。沙都子にしたって、いまは専業主婦で日がな一日赤ん坊と家に二人きりなのだ。毎日それでは気が滅入るだろう。時々は夫以外の雑談相手だって欲しい筈だ。
これ以上、道の真ん中で突っ立っているのもどうかと思い、帰ることにした。来るときと同じ時間を、今度は一人でバスに揺られ、最寄り駅に車が滑り込んだタイミングだった。
匡平の携帯が鳴った。電話をかけてきたのは、父親だった。
「はい、俺。なんだよ、とーちゃん。今日、突発の仕事だったんだって?」
匡平の軽口は、予想だにしなかった父親の重く鋭い口調に砕かれた。
父親は、こう言ったのだ。
虹太がいなくなった。
おそらくは、啓樹が連れ去った、と。
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