世界でいちばん最後の

岩崎みずは

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16.

世界でいちばん最後の

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 向かう先は、無論、啓樹の部屋だ。
 啓樹のマンションを訪ねるのは、これが二度目だ。前回は、啓樹が不在ならいいとどこかで思っていたが、今度は違う。万が一留守ででもあったら、その場で叫び出しそうだ。
 インターフォン越しに名乗った途端に門前払いでもされるのではないかとオートロックドアの前で暫く躊躇していたが、丁度、中学生くらいの女の子がマンションに入るところだったので、続いて体を滑り込ませた。部外者が住人と共にオートロックを潜(くぐ)るのは、確か、共連れとかいう不法侵入すれすれの行為で、その少女からは不信感丸出しの目で睨みつけられたが、構っている余裕はない。流石に同じエレベーターに乗るのは憚られ、啓樹の住む十二階まで階段を駆け上った。息を切らせながら目指す部屋の前に辿り着き、チャイムを鳴らす。気が付けばストーカーよろしく、ドアチャイムを思い切り連打していた。
「はい?」
 五分以上も経っただろうか。根負けしたように、反応があった。ドアチェーンの向こうから、少し困ったような啓樹の顔が覗く。咄嗟にドアの隙間に差し入れたスニーカーの靴先に目線を落とし、啓樹が苦笑する。
「足、どけて。ドア開けるから」
 二ヶ月振りに会う啓樹は、少し痩せたように見えたが、やつれている、という印象はなかった。ちゃんと食って寝て、普段と変わりなく生活しているのか、と一旦は安心したものの、遮光カーテンが引かれた真っ暗なリビングに通され、匡平は顔を顰めた。啓樹が壁を探ってライトを点ける。冬場とはいえ、よく晴れた今日、外はまだ十分に明るいというのに。
「で、どうしたの?わざわざ」
 啓樹の口調は穏やかだが、お世辞にも歓迎されているとは思えない。比喩表現ではなく、部屋の空気が澱んで重い。このリビングルームに涼やかな風が、暖かい陽光が入ったのは、どれ程前のことなのか。
「窓、開けるぞ」
 せめて換気をとカーテンに手をかけた匡平を、啓樹が強い口調で制した。
「駄目だ。そのままにしておいて」
 言われて、匡平はハッとした。このリビングの、この十二階の部屋のバルコニーから、啓樹の母親、藤代霜子は、身を躍らせたのだ。
 悪かった。口のなかで呟き、そのまま黙り込む。啓樹もリビングには居たくないのだろう、結局、どちらから言い出すともなく、啓樹の部屋に移動した。啓樹の匂いのする部屋。ようやく息をつける気がした。
「親父さんは?まだ、仕事だよな。何時頃に帰ってくんの」
 匡平はフローリングの床に直に腰を降ろした。ベッドに腰掛けた啓樹に、差し入れにと途中で買って来た飲み物とスナック菓子の入ったコンビニの袋を手渡すと、啓樹は小さく礼を言い、顔も上げずに応えた。
「知らない。仕事には行ってるだろうけど、ここには帰ってこない。もう何年も前から愛人さんと一緒に違うとこに住んでる。この部屋は、お袋の両親が、生前贈与の形でお袋に買い与えたもので、親父のものじゃないから」
 ビニル袋から取り出したペットボトルの蓋を回し開けるも、飲み物に口をつけるわけではなく、小さなプラスチックキャップをただ指で弄びながら、啓樹は淡々と続ける。
 いまは俺のもの、っていうことになるんだろうな。俺一人には4LDKは広すぎるな。でも、今どき売りに出したって二束三文だよ。第一、自殺者が出た部屋なんて、どこの物好きが買うんだ。知ってる?こういう集合住宅って自殺者が出ると、両隣の資産価値にまで影響するんだよ。さだめし、うちは恨まれてるんだろうなあ。
 匡平は、黙って聞いていた。自嘲気味の口調は、心が疲弊している証だ。 
「ひろ、学校やめたんだって?」
 啓樹が物憂げに目線を上げる。要約すると、別に興味はないけど、どこで情報仕入れて来たんだ、とでも言うところか。
「さっき、お前の学校のツレに会ったんだ。心配してるって。連絡してほしいって」
 渡されたときは丸めて床に叩きつけてやろうかと思った、ひょろ長い男のメアドが書きつけられたカフェのナプキンをジャケットのポケットから取り出して、啓樹に示す。アドレスを見ただけで啓樹は相手が誰だか分かったらしかった。
「ほかに、何か言ってた?」
「いや、大した話はしてない。こっちも女連れだったし」
 あいつね。ガタイ大きい割に、雌鶏みたいな心配性なんだよ。そう呟いて、細い指でそれを裂く。薄い紙ナプキンは、粉雪のように部屋に舞った。
「なんで?リハビリの仕事するんだろ?ナントカ療法士ってのになるんじゃねえの?あっさり学校やめたって、んな、バイトじゃねえんだから」
「匡平が俺に、説教するの?」
 微笑と共に、質問を質問で返され、その静かな口調に、言葉に詰まる。
「別に、説教なんかするつもりはねーよ」
 自分より頭のいい相手に何を語ったところで理詰めで返される。だが、啓樹が並べているのは所詮、屁理屈だ。それが分かっているのに、匡平はこんな場面で相応しい言葉を持たない。
「説教はしねえけど、なんで二ヶ月もシカトぶっこいてたんだよ。おかしいだろ?俺たち、付き合ってんじゃねえのかよ」
 啓樹が顔を上げ、今日、初めて、匡平の顔をまともに見た。
「付き合ってるって、誰と誰が?」
 はああ?なんつった、いま。
 いきなり横ツラを張られたようなショックだった。皮肉でも当て擦りでもない、本当に驚いたように、啓樹はその言葉を口にしたのだ。
「嘘。匡平、俺と付き合ってるって思ってくれてたの?へえ、意外。びっくりした」
 啓樹が笑う。少し照れくさそうに。だが、いまのこの部屋のなかで、この状況で、その啓樹の微笑だけが妙に白々しく浮いている。だから、匡平はこう返すしかなかった。
「ああ、そう。付き合ってると思ってたのは俺だけだったんだ。俺は単純でおバカだからな、互いに好きってコクって、キスまでしたから、てっきり、もうそういう仲なんだって思い込んでたよ。俺の勘違いだったみたいで、悪かったな」
「そんなの、いつ約束した?大体、匡平、さっきまで女の子と一緒だったんだろう。相変わらず外で楽しくやってるみたいで、良かったじゃない」
 普段の啓樹からは考えられない、突き放したような、皮肉な口調。考えなしに、女連れだった、などと言ってしまった自分を、激しく呪った。しかし、もう遅い。匡平の内部(なか)で、後悔の念は、瞬時に苛立ちにすり替わる。
「んだと、この。ヒトの言葉の端っこ捕まえやがって」
 思わず立ち上がっていた。掴みかかりたい衝動を抑えるのにかなりの自制が必要だった。もう、これで黙るべきなのだ。いま自分が取るべき最善の行動は、これ以上何も言わず、黙ってこの部屋を出ることだ。さもなければ、言うべきではないことまで言ってしまう。分かっているのに、気持ちの暴走は、尖った言葉にさらに拍車をかけそうになる。
 俺は、お前のために及川と別れたんだ。あんないい女を振り飛ばしてまでお前を選んだってのに。そのお返しが、それかよ。ざけんじゃねーよ。
 寸でのところで、喉元からその言葉を出さずに堪えた。そんなことを言うのはフェアじゃない。涼子と別れて自分を選んでくれだなどと、啓樹は一言も匡平に頼んではいない。おまけに、よく考えてみれば、匡平は啓樹に付き合ってくれ、と申し込んだわけでもない。でも、こんなことを言い合っていること自体、絶対におかしい。
 捨て台詞を投げて踵を返す代わりに、匡平は、少し乱暴に啓樹の隣に腰を降ろした。啓樹はじっとしていた。
「やめよう、こういうの」
 啓樹の友人に嫉妬して、それでも啓樹が心配で、啓樹の疲弊に悲しくなって、その言動に腹を立てて。結局、傷つけるための言葉をわざと選んでぶつけ、意趣返ししようとしている。
 こんなんじゃ、俺は、幼稚園の頃から何にも成長してないことになる。
「ひろが好きだから。俺がちゃんと言ってなかったのが悪かったんだとしたら、改めていま言う。俺と付き合ってください」
 啓樹はなにも答えない。匡平は不安になって、啓樹の肩を掴むと、顔を覗き込んだ。匡平の視線を避けるように啓樹が顔を背ける。掴み締めた匡平の手の下で、啓樹の薄い肩が微かだが、緊張に張り詰めていくのが分かる。
 突然込み上げて来た愛おしさと、それと同じ程の情動に突き動かされ、強く抱き締めて唇を奪った。そのままゆっくり覆いかぶさるように、ベッドの上に啓樹を押さえつける。啓樹を抱きたい。そう思い続けて来た。今日がその日なのだ、とも思った。
 啓樹の緊張を解きほぐすように、軽いキスを何度も繰り返す。好きだ、と呟きながら。その間も、匡平の両手は啓樹の身体を夢中でまさぐっていた。その感触の全てを指と手の平に記憶させるように。
 耳に舌を挿し入れ、首筋に唇を押し当てる。匡平にそうされている間、啓樹は一言も発せず、抵抗もしなかった。かといって、匡平に縋り付いてくるわけでもない、シーツの上に投げ出された両の手はピクリとも動かない。
 啓樹が抵抗しないのなら、この行為は合意だ。啓樹の身体を組み敷いたまま、匡平はジャケットを脱ぎ、着ていたTシャツを2枚重ねて首から引き抜いた。布越しなどではなく、直に肌に触れたい。片手で啓樹のダンガリーシャツのボタンを外そうとするも巧くいかず、焦れて裾から手を差し入れる。シャツの生地を引き裂きたい衝動に駆られたが、さすがにそれは憚られた。裾をゆっくりと捲りあげながら、潜り込ませた手を泳がせる。想像していた通りの、或いはそれ以上の質感。少しずつ露わになっていく白い肌を目と指とで存分に愉しみながら、匡平は理性の箍(たが)が外れていくのを感じていた。
 脇腹の薄い皮膚のうえを、肋骨をなぞるようにゆっくり指を這わせると、それまで無反応だった啓樹が、初めて鋭い息をついた。体が震えた。匡平の指の動きに、啓樹が感じている。
 脇腹から胸元へと手をすべらせると硬くなめらかな胸を探り、両方の頂点の周りに円を描くように親指を這わせた。自分自身を焦らすように興奮を抑えながら、淡い肉色の突起をひとつずつ唇に含んで舌で刺激し、さらに唾液で濡らした指先で弄る。
 微かに喘ぐような声が聞こえた気がした瞬間、身体の中心から、疼痛に似た感覚が全身を奔り抜けた。必死に歯を喰い縛っていなければ、触れただけで達してしまいそうだ。
 啓樹が欲しい。もっと、完全に手に入れたい。
 病的な熱に浮かされたまま、匡平は啓樹の両足の間に、深く手を挿し入れようとした。その手を、いきなり掴まれ、静かに、しかし毅然と払いのけられた。匡平は戸惑い、目線をあげた。
 その瞬間、匡平は凍りついた。啓樹の瞳が、真っ直ぐに匡平を見つめている。
「やめて、匡平」
 匡平は動けなかった。啓樹も同じ気持ちだとばかり思っていたのだ。それとも、そう思い込もうとしていただけなのか。
「俺には出来ないよ。ごめん、匡平。そういうのは、無理だ」
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