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世界でいちばん最後の
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確か秋霖(しゅうりん)、と言うのだったか。今日も朝から執念深く雨が降っている。
夏休みが終わり新学期が始まっても、匡平は相変わらずパッとしない日々を過ごしている。
とは言え、ここ数か月間、匡平の身辺に全く何も起こらなかった、というわけではない。
夏の間、特定の彼女無しで暮らしてきたが、流石に修道士生活にも限界があるもので、ほんの二週間程前から及川涼子と付き合い始めた。
涼子は匡平のクラスメイトの従妹で、元カノの元友人でもある。可愛いというより少し冷たい感じの美人タイプで、プロポーションの良さでいうなら匡平の歴代彼女の中でもトップクラスだろう。
まだセックスには至っていないが、二度目のデートでキスは交わした。別れ際に、ほんの軽くではあったが。
キスか。
啓樹とのキス。最初で最後の触れ合い。あれは、何だったのだろう。
涼子の唇に触れたとき、匡平の脳裏にあったのは啓樹のことだった。
涼子の傍らでその体温を感じても、あのとき程の熱は匡平の裡に生まれてはこなかった。熱さも親近感も、そして切なさも。
あの後、匡平は何度も啓樹の夢を見た。夢のなかで啓樹を抱いた。だが、匡平の身体の下で喘ぐ相手はいつも、いつの間にか見知らぬ女に変わってしまう。啓樹を抱いているつもりで、顔のない女を責め続ける。そして、嫌な汗に背中を濡らし目を覚ますのだ。
だって、俺はホモじゃねえし。ひろだってゲイじゃないって分かったし。
あのとき啓樹に欲望を感じたのは、寂しかったからだ。孤独な自分を、空っぽになった一部分を埋める何かが欲しかっただけだ。もしも啓樹が匡平の求めに応じていたとしても、男同士のセックスなど二人ともやり方を知らないのだ、互いに苦笑いと後悔で終わっただけだったろう。
だから結局、二人の間には何も起きなかった。というより最初から起きようがなかった。だって、仕方ないじゃないか、物事は成るようにしかならないのだから。
違う、そうじゃない。
匡平は、拳を強く握り締めた。
ゲイでなかろうと経験がなかろうと啓樹は応じたに違いない、匡平のなかに、ほんのひと欠片(かけら)でも啓樹に対する思慕の情があったならば。
俺は、またやっちまった。また、啓樹を傷つけた。
啓樹には、分かっていたのだ。
匡平が求めたのが、啓樹ではなく、ただ人肌の温もりであったことを。そして匡平もまた理解した。
もう二度と啓樹から連絡はないのだということを。
匡平が学校から帰ると、珍しく母親のほうが先に帰宅していた。
「なに、今日、早いじゃん。もしや仕事クビになったの?」
言ってからしまった、と思った。何時ぞやの大失敗以来、出来る限り虎の尾を踏まないように気をつけていたつもりだったのに、油断するとつい軽口を叩いてしまう。もっとも、あんたはホントに一言多いわね、そのうち背中刺されるわよ、などと呟きながら狭い台所で動き回っている母親は、それ程機嫌が悪いわけではないようだ。
「さっさと着替えて、手を洗って。お皿並べるのくらい手伝いなさい」
から返事をし、台所に漂う醤油と味醂の甘い匂いを嗅ぐ。ここしばらく母親の帰宅時間が遅く、食事はレトルトやカップ麺で済ませていたから、手料理は久し振りだ。
「さっき佐藤さんに会ってきてさ」
大皿から取り分けた炒め物を頬張りながら、沙都子からの伝言を母親に伝えようとするも、口のなかのものを飲み込んでから喋りなさい、と醒めた台詞で制される。
「佐藤さんて、どこの佐藤さんよ」
日本中に何人佐藤さんが居ると思ってんのよ、人口の約1・7%は佐藤さんだわよ、と母親が、不機嫌丸出しで嘯(うそぶ)く。
少し前に匡平の父親と入籍した沙都子は、既に佐藤さんではないが、矢口さんというのは変だし(何せ母親と匡平が数年前まで矢口さんだったのだ)、母親の前で沙都子さん、とファーストネームでいうのも気恥ずかしくて、親父の嫁さん、というのもなんだかなあ、と考えた結果、母親の前でのみ匡平は沙都子を旧姓で呼ぶことにしていた。
「図書館の佐藤さん」
ああ、あの地味でサエない司書さんね。あの子がどうしたって?
素っ気ない振りをしているが、実は母親が沙都子をそこそこ気に入っていることを匡平は知っている。ベッドの下に、まるで男子中学生がエロ本を隠すようにして、何冊ものベビー用品のギフトカタログを貯め込んでいることも。元祖・ツンデレ。
「ちょい早目だけど、来週から産休に入るって。母ちゃんにヨロシクって言われた」
一時期は毎日のように沙都子とメールで連絡を取り合っていたが、父親の恋人だと知ってからは、匡平は沙都子にメールするのを遠慮していた。あの日以来、顔を合わせたのも今日が初めてで、涼子が図書館に行きたいと言ったので付き合ったのだ。カウンターのなかで沙都子は多忙そうで、挨拶を交わした程度だった。
まだそれ程目立った感じではなかったが、沙都子の腹の膨らみの下に自分と血の繋がった命が宿り、日々成長しているのだ。と考えて、生命の神秘性に打たれ落涙する、などということは別にない。感動したり、可愛いとか、猿みてえ、とか、目元が誰それに似ている、とかそんなことを思うのは、産まれてきた自分の弟か妹を実際に見て、手で触れてからの話だろう。
「なんで、私によろしく、なのよ。関係ないじゃない」
さあ、図書館の常連さんだからじゃねーの、と軽く受け流して匡平は母親の次の言葉を待った。
産休って、ちょっとどころか、早過ぎるわよ。予定日なんて年明けでしょう。普通、ぎりぎりまで仕事するものよ。お父さんの差し金よね、匡平のときもそうだったけど、あの人、異常な心配性なんだから。
仇敵(カタキ)のように皿の上のナスを突つきながら、一頻り低い声で不満らしきものをぶちまけたあと、母親は匡平にチラリと目線を投げた。
「それで、ちゃんと訊いたの?」
「訊くって、なにを?」
わざと空とぼけてみせ、質問に質問で返すと、母親は明らかにムッとした顔をした。
「赤ちゃんが男か女か、それとなく聞き出しておいて、って頼んだでしょう。まったく、使えない子ね、あんたって」
苦虫を噛み潰したような、という形容詞を当て嵌めて欲しいと言わんばかりの顔。
お義理で出産祝いを考えるのも大変なのよ。性別くらい分からないと、選びようがないじゃないの。
ツンデレモード炸裂。匡平は笑いを堪えるのに必死だ。本当に義理だというなら、手堅く商品券でも贈ればいいだけの話なのに。
本心は単純に、沙都子の子供の性別が知りたくて仕方ないくせに。きっと、匡平の父親と沙都子の親族の次に赤ん坊の誕生を心待ちにしているのは匡平の母親に違いない。沙都子と顔を合わせでもしたら「子育てで悩むようなことがあったら相談に乗ってあげてもいいし、時々なら赤ちゃん預かってあげてもいいわ」くらい言いそうだ。毒舌で捌けた性格だが、匡平の母親は面倒見がよく、意外に子供好きなのだ。
「そんなことより、匡平」
夕食を終え、久し振りにインスタントでないコーヒーでも淹れようと台所でフィルターを漁っていた匡平は、母親の一言で、手にしていたものを危うく全て取り落としそうになった。
「最近、啓樹くんに会った?」
啓樹のことを吹っ切れてなどいない。名前を聞く度に動揺するのが、いい証拠だ。
「いや。会ってない、けど」
会っていないどころか、連絡も取り合っていないし、取るつもりもない。だが、そんなことを母親に言う必要はない。
「ここしばらく霜子さんと、連絡が取れないのよ」
霜子さん、とは啓樹の母親で、社宅住まいの頃から母親同士は仲がいい。
「電話しても出ないし。お家の留守電に伝言ばかり入れるのも、ちょっとね」
そういえば、啓樹の母親は携帯を持っていないらしい。
「たまたま、旅行にでも行ってて、留守だったんじゃねえの?」
藤代家に関する話題を終わらせたくて、匡平は母親の台詞を遮った。
「別に、ガキじゃねえんだから、心配するこたねーだろ。そんなに気になるんだったら、家まで行ってみれば?」
顔を上げた母親の目が輝いた。地雷を踏んだ、と察したときは遅かった。
「あんた、行って来てくれない?」
はあ?なんでそういう展開になるんだよ。
「霜子さんが心配なのよ。もともと体が丈夫じゃない女性(ひと)だし、病気がぶり返してしまってるかも知れないって思うと」
確か、カラオケボックスで、啓樹もそんなことを呟いていた。お袋さんには何か持病があって、それが再発したとかしないとか。あのときはそれ程詳しく聞かなかったが、生死に係わるような、かなり深刻な病なのだろうか?
「私が直接お宅に訪問すると、大ごとみたいだし、何より本人に気を遣わせるわ。あんた、啓樹くんに勉強でも教わりに行くっていう口実で、それとなく様子を窺ってきてよ」
母親の気持ちも分からないではない。でも、それとこれとは話が別だ。
「いや、無理。俺、ひろんちのマンション知らないし」
子供じみた台詞だとは分かっている。でも、行きたくなかった。
「それに、この週末は彼女と先約があるし」
それも嘘だ。ただ、啓樹に会うのが怖い。愛情ではなく欲望から求めたのだと知っていてなお、匡平を責めることもせず、穏やかに微笑んだ相手の前に、どのツラを下げて立てばいい?
「さては、また啓樹くんと喧嘩でもした?だったらなおさらよ、謝りに行きなさい」
どうせ、また、あんたが何か悪さをしたんでしょう。
匡平は何も言えずに俯いた。啓樹に対して悪さをした。それは、事実だったからだ。
またひろお兄ちゃんと喧嘩したの?仕方ない子ね。お母さん、一緒に謝りに行ってあげるから。ちゃんと、御免なさいしなさい。
喧嘩じゃないもん。ひろ兄ちゃんが悪いんだもん。
子供の頃、母親と匡平の間で、こんなふうなやり取りが何度繰り返されたことだろう。でも、本当は啓樹と喧嘩したことなんかないし、啓樹が悪かったことだって、匡平の記憶している限り、一度もない。
ゲームをしていて負け続けの匡平が癇癪を起こし一方的に啓樹を罵ったり、同じ社宅内とはいえ、裕福な家庭の子供である啓樹の持ち物が羨ましくて、ラジコンやプラレールをわざと乱暴に扱って壊してしまっていただけだ。
一度、啓樹の部屋の棚に飾られていたピカピカのボディの赤いミニカーがどうしても欲しくて、黙って持って帰ってきてしまったことがあった。両親に見つかれば叱られるのは当然分かっていたので、こっそり箪笥の陰に隠した。でも、やっぱり見つかって、無言のままの母親にいきなり二発、頬を張られた。父親は手を挙げることこそなかったが、匡平の顔をじっと見つめて深い溜め息をついた姿が、殴られた頬の痛みより鮮明に記憶に焼きついている。
その夜、両親は匡平を引き摺るようにして啓樹の家に謝りに行った。啓樹の両親はたまたま不在だったが、出迎えた玄関口で、啓樹は口篭りもせずこう言ってのけた。僕が匡平くんにあげたんだ、と。
これは随分と後になって知った話だが、ミニカーは啓樹の叔父のヨーロッパ出張土産の高価なコレクションアイテムで、子供同士であげるあげないなどと取引していいような品ではなかった。
あの赤いミニカー、俺はどこへやったっけ。両親が離婚し、社宅からいまのアパートへ転居する際、なくしてしまった。
高価なミニカーだけではない。惜しみない笑顔を、愛情を与え続けてくれた啓樹。
俺は、啓樹に会いたい。
あいつが、俺を軽蔑して、二度と顔も見たくないって思っているとしても。それでも、会って確かめたい。俺自身の、本当の気持ちを。
匡平は、初めてそう強く思った。
夏休みが終わり新学期が始まっても、匡平は相変わらずパッとしない日々を過ごしている。
とは言え、ここ数か月間、匡平の身辺に全く何も起こらなかった、というわけではない。
夏の間、特定の彼女無しで暮らしてきたが、流石に修道士生活にも限界があるもので、ほんの二週間程前から及川涼子と付き合い始めた。
涼子は匡平のクラスメイトの従妹で、元カノの元友人でもある。可愛いというより少し冷たい感じの美人タイプで、プロポーションの良さでいうなら匡平の歴代彼女の中でもトップクラスだろう。
まだセックスには至っていないが、二度目のデートでキスは交わした。別れ際に、ほんの軽くではあったが。
キスか。
啓樹とのキス。最初で最後の触れ合い。あれは、何だったのだろう。
涼子の唇に触れたとき、匡平の脳裏にあったのは啓樹のことだった。
涼子の傍らでその体温を感じても、あのとき程の熱は匡平の裡に生まれてはこなかった。熱さも親近感も、そして切なさも。
あの後、匡平は何度も啓樹の夢を見た。夢のなかで啓樹を抱いた。だが、匡平の身体の下で喘ぐ相手はいつも、いつの間にか見知らぬ女に変わってしまう。啓樹を抱いているつもりで、顔のない女を責め続ける。そして、嫌な汗に背中を濡らし目を覚ますのだ。
だって、俺はホモじゃねえし。ひろだってゲイじゃないって分かったし。
あのとき啓樹に欲望を感じたのは、寂しかったからだ。孤独な自分を、空っぽになった一部分を埋める何かが欲しかっただけだ。もしも啓樹が匡平の求めに応じていたとしても、男同士のセックスなど二人ともやり方を知らないのだ、互いに苦笑いと後悔で終わっただけだったろう。
だから結局、二人の間には何も起きなかった。というより最初から起きようがなかった。だって、仕方ないじゃないか、物事は成るようにしかならないのだから。
違う、そうじゃない。
匡平は、拳を強く握り締めた。
ゲイでなかろうと経験がなかろうと啓樹は応じたに違いない、匡平のなかに、ほんのひと欠片(かけら)でも啓樹に対する思慕の情があったならば。
俺は、またやっちまった。また、啓樹を傷つけた。
啓樹には、分かっていたのだ。
匡平が求めたのが、啓樹ではなく、ただ人肌の温もりであったことを。そして匡平もまた理解した。
もう二度と啓樹から連絡はないのだということを。
匡平が学校から帰ると、珍しく母親のほうが先に帰宅していた。
「なに、今日、早いじゃん。もしや仕事クビになったの?」
言ってからしまった、と思った。何時ぞやの大失敗以来、出来る限り虎の尾を踏まないように気をつけていたつもりだったのに、油断するとつい軽口を叩いてしまう。もっとも、あんたはホントに一言多いわね、そのうち背中刺されるわよ、などと呟きながら狭い台所で動き回っている母親は、それ程機嫌が悪いわけではないようだ。
「さっさと着替えて、手を洗って。お皿並べるのくらい手伝いなさい」
から返事をし、台所に漂う醤油と味醂の甘い匂いを嗅ぐ。ここしばらく母親の帰宅時間が遅く、食事はレトルトやカップ麺で済ませていたから、手料理は久し振りだ。
「さっき佐藤さんに会ってきてさ」
大皿から取り分けた炒め物を頬張りながら、沙都子からの伝言を母親に伝えようとするも、口のなかのものを飲み込んでから喋りなさい、と醒めた台詞で制される。
「佐藤さんて、どこの佐藤さんよ」
日本中に何人佐藤さんが居ると思ってんのよ、人口の約1・7%は佐藤さんだわよ、と母親が、不機嫌丸出しで嘯(うそぶ)く。
少し前に匡平の父親と入籍した沙都子は、既に佐藤さんではないが、矢口さんというのは変だし(何せ母親と匡平が数年前まで矢口さんだったのだ)、母親の前で沙都子さん、とファーストネームでいうのも気恥ずかしくて、親父の嫁さん、というのもなんだかなあ、と考えた結果、母親の前でのみ匡平は沙都子を旧姓で呼ぶことにしていた。
「図書館の佐藤さん」
ああ、あの地味でサエない司書さんね。あの子がどうしたって?
素っ気ない振りをしているが、実は母親が沙都子をそこそこ気に入っていることを匡平は知っている。ベッドの下に、まるで男子中学生がエロ本を隠すようにして、何冊ものベビー用品のギフトカタログを貯め込んでいることも。元祖・ツンデレ。
「ちょい早目だけど、来週から産休に入るって。母ちゃんにヨロシクって言われた」
一時期は毎日のように沙都子とメールで連絡を取り合っていたが、父親の恋人だと知ってからは、匡平は沙都子にメールするのを遠慮していた。あの日以来、顔を合わせたのも今日が初めてで、涼子が図書館に行きたいと言ったので付き合ったのだ。カウンターのなかで沙都子は多忙そうで、挨拶を交わした程度だった。
まだそれ程目立った感じではなかったが、沙都子の腹の膨らみの下に自分と血の繋がった命が宿り、日々成長しているのだ。と考えて、生命の神秘性に打たれ落涙する、などということは別にない。感動したり、可愛いとか、猿みてえ、とか、目元が誰それに似ている、とかそんなことを思うのは、産まれてきた自分の弟か妹を実際に見て、手で触れてからの話だろう。
「なんで、私によろしく、なのよ。関係ないじゃない」
さあ、図書館の常連さんだからじゃねーの、と軽く受け流して匡平は母親の次の言葉を待った。
産休って、ちょっとどころか、早過ぎるわよ。予定日なんて年明けでしょう。普通、ぎりぎりまで仕事するものよ。お父さんの差し金よね、匡平のときもそうだったけど、あの人、異常な心配性なんだから。
仇敵(カタキ)のように皿の上のナスを突つきながら、一頻り低い声で不満らしきものをぶちまけたあと、母親は匡平にチラリと目線を投げた。
「それで、ちゃんと訊いたの?」
「訊くって、なにを?」
わざと空とぼけてみせ、質問に質問で返すと、母親は明らかにムッとした顔をした。
「赤ちゃんが男か女か、それとなく聞き出しておいて、って頼んだでしょう。まったく、使えない子ね、あんたって」
苦虫を噛み潰したような、という形容詞を当て嵌めて欲しいと言わんばかりの顔。
お義理で出産祝いを考えるのも大変なのよ。性別くらい分からないと、選びようがないじゃないの。
ツンデレモード炸裂。匡平は笑いを堪えるのに必死だ。本当に義理だというなら、手堅く商品券でも贈ればいいだけの話なのに。
本心は単純に、沙都子の子供の性別が知りたくて仕方ないくせに。きっと、匡平の父親と沙都子の親族の次に赤ん坊の誕生を心待ちにしているのは匡平の母親に違いない。沙都子と顔を合わせでもしたら「子育てで悩むようなことがあったら相談に乗ってあげてもいいし、時々なら赤ちゃん預かってあげてもいいわ」くらい言いそうだ。毒舌で捌けた性格だが、匡平の母親は面倒見がよく、意外に子供好きなのだ。
「そんなことより、匡平」
夕食を終え、久し振りにインスタントでないコーヒーでも淹れようと台所でフィルターを漁っていた匡平は、母親の一言で、手にしていたものを危うく全て取り落としそうになった。
「最近、啓樹くんに会った?」
啓樹のことを吹っ切れてなどいない。名前を聞く度に動揺するのが、いい証拠だ。
「いや。会ってない、けど」
会っていないどころか、連絡も取り合っていないし、取るつもりもない。だが、そんなことを母親に言う必要はない。
「ここしばらく霜子さんと、連絡が取れないのよ」
霜子さん、とは啓樹の母親で、社宅住まいの頃から母親同士は仲がいい。
「電話しても出ないし。お家の留守電に伝言ばかり入れるのも、ちょっとね」
そういえば、啓樹の母親は携帯を持っていないらしい。
「たまたま、旅行にでも行ってて、留守だったんじゃねえの?」
藤代家に関する話題を終わらせたくて、匡平は母親の台詞を遮った。
「別に、ガキじゃねえんだから、心配するこたねーだろ。そんなに気になるんだったら、家まで行ってみれば?」
顔を上げた母親の目が輝いた。地雷を踏んだ、と察したときは遅かった。
「あんた、行って来てくれない?」
はあ?なんでそういう展開になるんだよ。
「霜子さんが心配なのよ。もともと体が丈夫じゃない女性(ひと)だし、病気がぶり返してしまってるかも知れないって思うと」
確か、カラオケボックスで、啓樹もそんなことを呟いていた。お袋さんには何か持病があって、それが再発したとかしないとか。あのときはそれ程詳しく聞かなかったが、生死に係わるような、かなり深刻な病なのだろうか?
「私が直接お宅に訪問すると、大ごとみたいだし、何より本人に気を遣わせるわ。あんた、啓樹くんに勉強でも教わりに行くっていう口実で、それとなく様子を窺ってきてよ」
母親の気持ちも分からないではない。でも、それとこれとは話が別だ。
「いや、無理。俺、ひろんちのマンション知らないし」
子供じみた台詞だとは分かっている。でも、行きたくなかった。
「それに、この週末は彼女と先約があるし」
それも嘘だ。ただ、啓樹に会うのが怖い。愛情ではなく欲望から求めたのだと知っていてなお、匡平を責めることもせず、穏やかに微笑んだ相手の前に、どのツラを下げて立てばいい?
「さては、また啓樹くんと喧嘩でもした?だったらなおさらよ、謝りに行きなさい」
どうせ、また、あんたが何か悪さをしたんでしょう。
匡平は何も言えずに俯いた。啓樹に対して悪さをした。それは、事実だったからだ。
またひろお兄ちゃんと喧嘩したの?仕方ない子ね。お母さん、一緒に謝りに行ってあげるから。ちゃんと、御免なさいしなさい。
喧嘩じゃないもん。ひろ兄ちゃんが悪いんだもん。
子供の頃、母親と匡平の間で、こんなふうなやり取りが何度繰り返されたことだろう。でも、本当は啓樹と喧嘩したことなんかないし、啓樹が悪かったことだって、匡平の記憶している限り、一度もない。
ゲームをしていて負け続けの匡平が癇癪を起こし一方的に啓樹を罵ったり、同じ社宅内とはいえ、裕福な家庭の子供である啓樹の持ち物が羨ましくて、ラジコンやプラレールをわざと乱暴に扱って壊してしまっていただけだ。
一度、啓樹の部屋の棚に飾られていたピカピカのボディの赤いミニカーがどうしても欲しくて、黙って持って帰ってきてしまったことがあった。両親に見つかれば叱られるのは当然分かっていたので、こっそり箪笥の陰に隠した。でも、やっぱり見つかって、無言のままの母親にいきなり二発、頬を張られた。父親は手を挙げることこそなかったが、匡平の顔をじっと見つめて深い溜め息をついた姿が、殴られた頬の痛みより鮮明に記憶に焼きついている。
その夜、両親は匡平を引き摺るようにして啓樹の家に謝りに行った。啓樹の両親はたまたま不在だったが、出迎えた玄関口で、啓樹は口篭りもせずこう言ってのけた。僕が匡平くんにあげたんだ、と。
これは随分と後になって知った話だが、ミニカーは啓樹の叔父のヨーロッパ出張土産の高価なコレクションアイテムで、子供同士であげるあげないなどと取引していいような品ではなかった。
あの赤いミニカー、俺はどこへやったっけ。両親が離婚し、社宅からいまのアパートへ転居する際、なくしてしまった。
高価なミニカーだけではない。惜しみない笑顔を、愛情を与え続けてくれた啓樹。
俺は、啓樹に会いたい。
あいつが、俺を軽蔑して、二度と顔も見たくないって思っているとしても。それでも、会って確かめたい。俺自身の、本当の気持ちを。
匡平は、初めてそう強く思った。
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