世界でいちばん最後の

岩崎みずは

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世界でいちばん最後の

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 どうせ俺はろくでなしだ。でも、共感能力を欠いたコミュ障なんざ、このご時世、石を蹴りさえすればぶつかる。
「俺がネトゲ廃人とかヒキニートにならねえだけマシだろが」
 そう呟きながらも、母親に投げられた言葉が、禽の嘴のように、繰り返し胸を突く。
 幸せになれない、か。
 シンプルな言葉なのに、どんな悪口や暴言より、結構堪えるものだ。キリスト教徒が、『お前など天国に行けない』と言われたら、こんな気分になるんだろうか、などと脈絡無いことを考える。
 あれだけ高揚していた気分もペシャンコに潰れ、ソリッド感に拘(こだわ)ったヘアスタイルも、ここぞのときしか履かないデザイナーズジーンズも、へたれ気味の匡平の心を引き立てる役にはたっていない。
 勿論、母親の所為にするのは筋違いなのも分かっている。要らぬ無駄口を叩いた自分自身の間抜けさ加減が情けないのだ。
 どうやら俺は、啓樹の名前に過剰反応を示してしまう傾向にあるらしい。
 その理由が何処から来るのか、分からないし分かりたくもなかった。
 藪を突ついて蛇に咬まれ、その痛みにのたうち回っていては世話はない。
 今夜の唯一の拠り所は、左手に持った小さな紙袋の中身だった。
 ほんの数十分前に購入したばかりの一点物の髪飾り(ベレッタではなくバレッタだと匡平は初めて知った)は、高校生にとってはちょっと背伸びしないといけない金額ではあったが、手に持って灯りに翳すとラインストーンが煌めきながら柔らかな光を反射させ、とても綺麗だった。
 若い女店員は、彼女さんにですか、などとお決まりの言葉をかけてきたが、匡平が軽く肯いたきり何も応えないので、早々に会話のキャッチボールを諦めたらしい。それでも薄紙に包んでセピア色の巾着に入れ、リボンを結んだ口のところに可憐な造花まであしらってくれた。
 沙都子は喜んでくれるだろうか。きっと喜んでくれるに違いない。出来たら、目の前で髪に着けて欲しい。
 そんなことを思い巡らせながら、目的の店の前に到着した。約束の時間よりも十五分以上早いというのに沙都子は既にそこに居て、テラス席で文庫本のページを捲っている。大正辺りの時代物ドラマに出てくる真面目な女学生のようで、微笑ましい。
「ちわ、す」
 自分の影が沙都子に被さらないように気を遣い、テーブルを迂回するようにして声をかけた。本を読んでいる沙都子の姿をもう少し眺めていたいとも思ったが、何より早く傍に行きたい気持ちが勝った。
「今晩は」
 顔を上げて、沙都子が微笑む。匡平も席に着き、猫のように足音を立てず近づいてきた若いウェイターがメニューを渡そうとする前に、コーヒーを注文した。自分がもう少し大人だったら食前酒でも頼みたいところだ。
 今日の沙都子は、綺麗だ。薄くだが化粧をしている。服装も、仕事のときとは違う、シックなパンツスーツを着て、柔らかそうな素材のショールを肩にかけている。髪は、アップにしてはいないが、おそらく素人の手によるものではない凝った編み込みがなされていて、艶やかに輝いている。ここに来る前に美容院に行って来たのだろう。
 どうやっても垢抜けすぎないところが、沙都子の魅力の一つだ、などと、心中でけしからんことを考える。
 何か気の利いた褒め言葉が言えるといいのに。こんなときに役に立たないというのなら、過去に観てきた膨大な映画やドラマなどなんの役にたつんだ?と憤りを覚えかけたが、スクリーンのなかでニヒルに笑うヒーローの顔が大映しで浮かぶだけで、何の台詞も湧いてはこなかった。おまけに、運ばれてきたコーヒーに口をつけた途端、思わぬ熱さに舌を火傷しかけ、匡平は激しく噎(む)せた。
「大丈夫ですか?」
 そう言われたら、無論、大丈夫です、と答える以外ない。
 おいおい、どうしたんだよ、ちと落ち着け、俺。カッコわりい。自分に言い聞かせ、深呼吸する。
 沙都子のスーツは薄いピンクで、目の前にあるガラスのティーカップに注がれているものも、同じくらい透明なピンク色の液体だった。仄かに甘酸っぱい匂いが鼻を擽(くすぐ)る。何を飲んでいるのだろう。
「ハーブティーです。ローズヒップ」
 匡平の視線に気づいたのだろう、沙都子が教えてくれた。ハーブティーと言われても、お洒落っぽくて美容だか健康に良いらしいもの、という程度しか匡平には分からない。
 カップに反射した光を透かして同じ桜色に染まった指先に目を奪われていたせいで、沙都子の言葉をうっかり聞き逃すところだった。
「ドリップしたてのコーヒー、やっぱりいい香りですね。我慢していても、ときどき無性に飲みたくなります」
 愛おしそうに、匡平を、ではなく、匡平が手にしたカップの中身を見つめる。つられて匡平も視線を落とす。どうということはない、なんの変哲もないブレンドだ。
「でも、今は控えないといけないのでそれがちょっと辛いです」
 何やら共犯者めいた目配せを送られ、匡平は面喰らった。
 控えないといけない?コーヒーくらい飲みたければ飲めばいいのに。
 何の謎かけだ、これは。
 本来コーヒー好きな女がそれを控えねばならない理由など、匡平には一つしか思い浮かばない。
 不意に、沙都子が立ち上がった。
「すごい。時間通りですね」
 嬉しそうに沙都子が声をかけたのは、匡平の背後からテラス席のテーブルに歩いて来る、予期せぬ人物だった。

 これって、俺の淡い初恋物語だったりとかしたのか。いや、そんな筈がない。これは、こんなのは、勘違いと誤解からなる単なる三流コントだ。
 そうとでも思わなければ匡平は、惚れかけていた女と自分の父親が目の前で仲睦まじく寄り添っているのを眺めながら、運ばれてきた前菜のテリーヌをフォークで無意味に掻き回している、この状況の意味が分からない。
「いやあ、それにしても、俺が紹介する前に沙都ちゃんと匡平が仲良くなってたなんてなあ。匡平は、母さんから沙都ちゃんのことを聞いてたのか?」
 父親が近いうち機会を作って紹介すると言っていた『彼女』こそが、沙都子だった。
 実は、沙都ちゃんと知り合ったのも、母さんが借りてた本を又借りして返すのをずっと忘れていて、半年も経ってから気付いて謝りに行ったんだよ。そのときに怒られたのなんのって。
 鼻の下伸ばして、なあにが『沙都ちゃん』だ。くそ親父め。沙都子も沙都子だ。こんな草臥(くたび)れた中年オヤジのどこがいいんだ?
「ああ、うん。かーちゃんから聞いてた。それとなくだけど」
 大嘘だった。だが、この嘘を通さなければならなかった。
 そりゃ、名乗ってなくても、俺のファーストネームを知ってる筈だわ。もはや苦笑いしかない。
 匡平がなんとか嚥下した話の流れは、こういうことになる。
 母親が頻繁に利用している図書館の司書に、離婚後間もない父親が偶然出会い、そして惚れた。
 父親に口説き落された図書館司書・沙都子は、当然ながら交際相手の元妻の顔と名前も把握していた。無論、利用者と係員というだけの間柄で、親しく口をきくような仲ではないが(匡平の母親を沙都子は『自分とは正反対の華やかで綺麗な女性』と評したが、その言葉の裏に、どうやら嫁が姑に抱くのに似た苦手意識を持っているらしいのも察せられた)。
 匡平が本を返却に訪れた日、どうして若い男が交際相手の元妻の図書カードを持っているのか不思議だった。そのときの沙都子は、まさか匡平が、自分の夫になる男の実の息子だとは思わなかったらしい。当然、交際相手に高校生の子供が一人いることは聞き知ってはいたが、私服の匡平が実年齢よりもかなり年上に見えたというのが理由だった。
 だが、その疑問は、交際相手に確認することで簡単に解決した。人相風体を伝えれば、すぐそれと分かるからだ。
 椅子を運ぶ手伝いをしたとき、沙都子が初めから匡平に気を許す素振りを見せていたのが腑に落ちなかったが、蓋を開ければ簡単な話で、沙都子はとっくに匡平が自分たち(沙都子と父親)の関係を聞かされているものと思いこんでいたのだ。だから、突然の手助けの申し出も、妊婦と知っていて気遣ってくれる身内の親切として、何の疑問も持たずにすんなりと受け入れた。
 仲良くしたい、匡平のことをもっと知りたい、という台詞も、匡平が期待したような意図と沿うものではなかった。父親と籍を入れても沙都子に取って匡平は義理の息子にはならないが、これから生まれてくる子供の血の繋がった兄になるのだ。新しい家族の一員として、匡平とも姉と弟のように親しく付き合っていきたい。沙都子はそう言いたかったのだ。
 ついでながら、匡平の母親も沙都子と父親の仲を知っていた。元妻が相手でも、父親は、隠し事が出来るような性分ではない。
 こうなってしまうともう、ただ笑うしかなかった。蚊帳の外に置かれていたのは、匡平だけだったとは。おまけに、勝手に思い込んで、一人相撲の疑似恋愛に、片足どころか両足の膝裏辺りまで浸かりかけていた。
 前菜を終え、海老の料理が運ばれてきても、手を付ける気にもなれなかった。この状況で食欲を出せと言われても無理な話だ。
 ハブられていたのは不愉快には違いないが、癇癪をおこすような話ではない。こちらは扶養されている身だから、一票を投じる権利をくれ、などと言うつもりはないし、親には親の事情がある。それはそれで勝手にやってくれ、といったところだ。再婚?妊娠?結構じゃないか、力一杯祝福してやる。
 ただ、一気に疲れたような気がした。じわじわ、ひたひたと足元に忍び寄って来ていたものが、突如高波と化して襲い掛かってきたような。
 匡平はパっと見、ワルそうに見えるけど、根は純情でホントに良い子なんだよ、ほらルックスも、俺に似てイケメンだろう、などと何故か沙都子に息子を売り込んでいる父親が、ようやく匡平が運ばれてきた皿に手を付けずにいるのに気が付いたらしく、怪訝そうに声をかけてきた。
「匡平、どうした?腹でも痛いのか」
 匡平は無意識に一度肯き、慌てて首を横に振った。てか、気づくのおせーよ。色ボケやがって。
「や、そういうことじゃないんだけど」
 一刻も早くこの場を去りたい。腹が痛い?料理が口に合わない?どんな言い訳が妥当だろうか。
「わり。俺、ツレと先約あったの、キレイに忘れてて。もう行かねえと」
 態と携帯をチラつかせ、着信があったように装う。
「マジごめん、また次のときはちゃんとするから」
 父親と沙都子が口を開く前に、匡平は椅子を蹴って立ち上がっていた。不作法だなどと、百も承知だ。
「これ」
 薄いオレンジ色の紙袋を、沙都子の手に押し付ける。
「詰まらないもんだけど、なんていうか、お祝いです」
 要らなかったら捨ててください。それだけを絞るように言うと、匡平は店を飛び出した。
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