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Perfume2.過去への疑問と子供の感情。

14. 待ってるよ。

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 タクミがカワムラの病室へ移動するのに付き添った後、ヒカルは診察に戻った。
 患者は絶えずいつでも訪れる。
セラピスト2人、看護師1人では足りないほどの患者が。
 待合室では少女の静かな泣き声が響いていた。
静かで、ある種不思議な空気が漂う待合室では彼女の涙は目立つ。
クリニック内の人々が注目する先には、腹をぎゅっと押さえて汗ばむ女性と、その女性と寄り添って泣く高校生くらいの少女がいた。

「新井《あらい》明美《あけみ》さーん、第一診療室へどうぞ」

 その女性は娘を連れてヒカルのいる診療室に入った。

「今日はどうなさいました?」
「今朝からひどくお腹が痛くて……普段はお腹弱いタイプではないですし、思い当たる節もなくて」

 ヒカルはカルテを書きながら鼻をくんくんと動かす。
そして女性特有のバニラの香りが少し薄くなっていることに気が付いた。

「女性ホルモンの減少が原因かもしれません。最近何か強いストレスを感じることはありましたか?」

 アケミの表情があからさまに曇る。
隣に座る娘の頭をそっと撫でてゆっくりと口を開いた。

「先日、夫が亡くなったんです。ずっと癌を患っていて」

 言いづらいことを聞いてしまったと謝ると、アケミは「気にしないでください」と言った。
それを聞いてから見ると、彼女の目は赤く腫れていた。
この数日泣き続けていたのだろう。

「では精神安定に効果のあるラベンダーの香りと、腹痛に効果のあるフェンネルの香りを出しますね」
「フェンネル?」
「かつては魚料理の香り付けにも使われていた香草です。特徴的な強い甘い香りがするんですよ」

 嗅覚が奪われてからは“香草”という概念そのものがなくなったので、今はすっかりセラピーにのみ用いられている植物になっている。
セラピスト以外の人々は植物にとても疎かった。
やはり人間が花畑に行く目的のうちには、良い香りに癒される要素も大きかったのであろう。
 植物の説明をしているとき、窓の外に大きな鳥が羽ばたくのが見えた。
灰色の翼で空を掻き進み、その白い身を速く弾丸のように動かしていた。

 アケミたちを治療する部屋に移動させ、イノウエに指示を出していると、マコトが焦って走って来た。

「外に大きい鳥が止まってる! どうしよう」

 マコトは鳥が苦手だということをすっかり忘れていた。
きっと先ほど見えた鳥だろう。
ヒカルはあれに見覚えがあった。

「あの鳥は手紙を持たされていると思うんだ。俺今治療の用意しないといけないから取ってきて欲しい」
「ええ、でもすごく大きいんだぞ」
「大丈夫、あれはミカゲさんが飼ってるハヤブサだよ」

 ここでヒカルは、ミカゲはモモンガではなくハヤブサを連絡用に使える能力を持っていることを説明した。
十分にしつけられている賢いハヤブサだと言ったが、マコトはずっと「いやでも」と繰り返している。
普段何に対しても堂々としているマコトもこうやって取り乱すことがあるのかと思い、ヒカルは少し声を出して笑った。

「ごめん、頼んだ!」

 ヒカルは必要な香りを吸収させたマスクを持って治療室へと入って行った。

 治療室内のベッドにアケミが横たわっていた。
未だに腹を押さえ、苦しそうに身を縮めている。
マスクを着けてやると、

「少し痛くなくなって来たかも……」

 と言って寝息を立て始めた。
ラベンダーには安眠効果もあるので、それがすぐに効いたのかもしれない。
 治療室にはアケミの娘と2人きりになった。
沈黙が気まずく、ヒカルは作業する手を速めた。
娘が静かに口を開き、彼は何となくそれを感じ取り次に発せられる言葉に備えて身構える。

「私、綾乃《あやの》って言います。今は高校3年生ですが、卒業したらここで働きたい、って今思いました」

 可愛らしい声と丸い目を持ったその少女は、はっきりと言った。
そのときは可愛らしいというよりも凛とした女性という雰囲気が漂っていて、ヒカルは圧倒される。

「君は……セラピストなの?」

 アヤノは瞳に悲しそうな影を落として首を振った。

「いいえ。でも、卒業したらまたここに来て良いですか?」
「もちろん。待ってるよ」
「ありがとうございます!」

 アヤノはヒカルの右手を両手でぎゅっと掴んだ。
 ここで自分や身近な人を治療されてクリニックで働きたがる少年少女は多い。
今までにも何人かヒカルに「またここに来る」と約束した子はいたが、実際に来たことはない。
 この子とまた会うことはあるのだろうか?
 そう思いながらも、ヒカルは待ってるよと言って微笑んだのだった。
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