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餓狼の章
方舟~アーク~ 2
しおりを挟む「開けるわよ」
遺伝子チェッカーにミカが手を翳し、更に横の壁のコンソールに暗証番号を入力して、重い扉はやっと開いた。
目の前に広がったのは、意外にも広い空間。
やや薄暗く、天井の高い半円形のホールのようなその場所は閑散としていて静かだ。
壁の一部がステンドグラスになっていて、床に虹色の影を落とすその空間は、教会の大聖堂のようなと言おうか、厳粛な空気が漂っているように思えた。
奥には扉が七つ並んでいる。真ん中の大きな扉の脇に小さな扉が三つづつ。
ホールを進みながら、ミカが静かに俺に告げる。
「ここは『アーク』と呼ばれている場所」
「アーク……方舟?」
「その意味は見ればわかるわ」
ミカは中央の扉を開け、俺を中に導く。
そこには目を疑うような光景が広がっていた。
何だ……これは。これは一体何なんだ?
細長い、奥行きすらもわからなほど長い部屋……というより通路だ。
その両方、床から高い天井まで、壁面すべてがガラスかアクリルの水槽になっている。数え切れないほどに小分けにされた水槽。
一言で言えば、雰囲気は熱帯魚の店に一番近いかもしれない。ただ、その数は半端なものではない。おそらく数万、いや数百万あるかもしれない。
その大きさも様々で、鯨や象が入るほどものすごく大きなものもあれば、掌ほど小さいものもある。そして、中に入っているのは熱帯魚じゃない。いや、魚もいるけど……。
入っているのは、ありとあらゆる種の動物達。鳥類、哺乳類、両生類、爬虫類、魚類に節足動物まで。昆虫もいる。中に何がいるのかもわからない、色の違う水槽はバクテリアや微生物なのだろうか。
「みんな生きているのよ。ちゃんと全部つがいでいるわ」
なるほど、ミカが言うように、単細胞生物など以外は雌雄揃っていそうだ。
「羊水に近い特殊な液体の中で、これらは皆生きた状態でここにいる」
「……生きた遺伝子のストックヤードか」
データやデジタル化された映像ではなく、ここまでの規模で生体を集めている施設は絶対に無いだろう。もし昔の俺が見たら、ある意味夢のような場所と言えなくもない。
とはいえ、これを造ったのが闇市場だとわかっている以上、これらが生かされている理由は、ただ種の保存や研究のためだけではないのもわかる。
アーク。確かにここは方舟だ。大洪水から逃れるためでなく、目的が狂っているがな。
「これらの遺伝子をA・Hに組み込むために?」
「それもある。でも遺伝子だけでは無いわ。よく見て、一部欠けているものもいるでしょう?」
言われてみれば、虎の片目が無い。羽根も無い白鳥も、前足の無いライオンもいる。それでも彼等は生きている。
「……ひょっとしてH・K用に?」
「そう。隣に並んでいた部屋では、ここの素材を使い、客の好みに合わせて余所から連れてきた者やここで生まれたA・Hの改造手術をしているわ」
ここで生まれたって……さっきのルーといたあの子達か?
いかん、またキレそうになってきた。このままだとミカを襲ってしまいかねない。
俺はぐっと堪えて、水槽の通路を進み続けた。
長い長い通路。前方にやっと果てが見えた頃、ミカが重い口調で言う。
「もう一つのアークを見せてあげるわ。カレンさんもそれを見た。開放する前にここの記憶を消したから、彼女は覚えて無かったでしょうけど」
「……」
ここだけでもかなりなものだぞ? なのにまだ更にあるのか? ヤバイぞ……。
水槽の間を歩くうち、両側から視線を感じた。
皆、生きているのだ。部品の欠けた動物の、恨みさえ籠っていそうな視線を受けながら、俺は懸命に理性を保った。
突き当たりのドアの前でミカの足は止まった。
「……私もここには入りたくない」
「そんなに恐ろしい場所なのか?」
「見る前に言っておくわ。少しくらいは落ち着いていられるように。カレンさん……Dr.ザグウエルも当時、あなたと並ぶくらいの学者だった。勿論レイは誘ったわ。でも彼女は拒み続けた。あなたのために。だからこの中の一員に加えられるはずだったのよ。見かねて私が逃がしたけど……私もあなたも、このままだと恐らくはこの中で永遠に生きる事になる。私の嫌いなあの男と一緒に、アークの一員として」
「永遠に……?」
正直、さっぱり意味がわからない。でももう覚悟は決めている。
ここより酷いんだろ? 恐怖のあまりカレンの髪が白くなったほど。待っているのは地獄しかない。
「君はここにいろ。見たくないなら俺が一人で確かめてくる」
ミカにそう言って、俺がドアに手を掛けた時だった。
『ウォレス博士、困りますね。勝手に見学してもらっては』
何処からとも無く、レイの声が聞こえた。
『ミカさんまで雄狼の色香に惑わされるとは。これだから女性は。まあいい、すぐに人が行きます。その前に自分達の数時間後の姿を見ていらっしゃい。知識の方舟をね』
言われるまでも無い。監視されているのは承知の上だったんだ。
俺は思い切ってドアを開けた。
「……」
そこは円形のそう広くはない部屋だった。
海の底のように青く薄暗いその空間は静かだった。いや、音はする。こぽこぽ……水が泡立つみたいな音。微かにぶーんと低く響いているのは、モーターの音?
ここにも、さっきの通路よりは圧倒的に数は少ないが、幾つかの水槽がある。
円筒形の水槽が遺跡の円柱のように並んでいる。
その中身は……動物じゃない。
これがもう一つのアーク? 知識の方舟だと?
俺もミカもこの中に? カレンも入れられそうになった?
「ハッ……」
もう、恐怖とかそういうのを通り越して可笑しかった。俺は本当に笑っていたかもしれない。
水槽に入っているのは人間の脳だ。それだけじゃない、首から上全部入っている者もいる。無数のチューブと電極に繋がれているそれらは、さっきの動物と同じで全部生きている。動いている。
首だけの顔の目が俺を見て、何か言いたげに口を動かした瞬間、吐き気がした。
水槽には、ご丁寧にネームプレートまでついていやがる。どれも有名な科学者の名前ばかりだ。数年前に失踪したと言われていた学者もいるな。
その中に信じられない名前を見た。
「リューゾー・キリシマ……だと?」
脳だけの入った水槽。まさか、あのキリシマ博士なのか?
レイの声が再び聞こえる。
『キリシマ博士は、例の情報漏洩の件で、あなたが再び自分を改造して全てを捨ててでも行動に出るだろうと予測していました。だからそれを止めるため、あなたに会いに当時あなたがいた大学に行く途中でした。不慮の事故? いいえ、私の優秀な部下がちょっと乗り物に細工をしまして。絶命される寸前に、脳だけ頂いて来たのです。この六年間、ここの最高の頭脳として働いていただいております』
「な……」
キリシマ博士が目の前に変わり果てた姿でいる事よりも、俺に会いに来る途中だったという事の方がショックだった。俺を止めようとしていた?
あれさえなければ、まだ博士は体も生きていたかもしれないという事か?
俺がキリシマ博士をこんな姿にした原因なのか?
そんな――――。
麻痺したように、叫ぶことも動くことも出来ない俺に、レイの声が語り掛ける。
『奥の壁を御覧なさい。カプセルの中で今命が誕生しようとしています。あなたの遺伝子を受け入れた卵子も間もなく分割を始めます。それらの管理は全てそこにいる、今世紀最高レベルの頭脳達が行っているのです。人の手では難しい微妙なA・Hの遺伝子の組み換えも、彼等にかかれば造作も無い。そしてあなたも、ここで憧れの博士達と共に、永遠に新しい命を生み出す手伝いをなさい。自分の子供を育てなさい。その女を惑わす素敵なお顔ごと残して差し上げますから』
足音がきこえる。大勢の。
だめだ……もう……もう限界だ。
意識が……無くなりそうだ。
ぐるるる……ああ、俺、唸ってる。牙が、爪が疼いてる……。
何かが……恐ろしく狂った何かが目覚めてしまう……。
「大人しくしろ」
武器を持った人間十数人に囲まれた。
「やめて!」
ミカの声。
遠吠えの声が聞こえる。
そして――――目の前が真っ白になった。
もう何もわからない。
「もういい、もういいのよ」
気がつくと俺はミカに抱きしめられていた。
いつの間にか眼鏡が無いが、ぼんやりと見える自分の手が真っ赤に染まっていることぐらいわかった。着ている白衣も、足元の床も。
「もういいから……」
「……い……たい」
抱きしめられている背中が鈍く痛む。肩も。腕も。
「刃物で何箇所か刺されてる。立てそう?」
「……大丈夫……みたい」
ミカが眼鏡を渡してくれても、自分がやった事をはっきり見たくないからすぐには掛けなかった。
自分の周りに、かなりの数の人間が倒れている事はぼんやりでも見える。
濃い血や臓物のニオイが辺りに充満してるのもわかる。鼓動の聞こえる者もまだいるが、それもわずかだということも……
口の中は血の味がする。気持ち悪くなるほど濃い味……。
ステンドグラスの虹色の光が床に差しているところを見ると、今いるのは入り口の半円のホールみたいだ。
自分でここまで来たのか、連れて来られたかさえも覚えてはいないが、アークの中では暴れてないようだ。
博士や動物達、これから生まれようとしている子供達に、こんなに恐ろしいものを見せずに済んでよかった……でも、ミカは全部見ていたのだ。
「これ、俺……一人で?」
「安心して。私も少し手伝った。知ってるでしょ? 猛禽だって」
そう言ったミカの声はひどく震えている。視覚と聴覚以外は普通だって言ってただろ。こんな鉤爪もない柔らかな手で何が……。
「こんな体でもレイのところに行く?」
「ああ……」
鋼鉄のドアを潜って、俺は再び上の階を目指す。
レイの声が聞こえる。
『まったく……とんだ化け物ですね。ここまで獰猛な獣は初めて見ました。だが、私はますますあなたが欲しくなりました。その頭脳は勿体無いですが、諦めて、純粋にその獣の力がね』
「狼は人に飼われるのは嫌いなんだよ」
『G・A・N・Pには飼われていたじゃないですか。尤も、殺しを良しとしないあそこでは真の力は発揮できなかったでしょうがね』
「……まあな」
その通りだな。反論の余地もないよ。だが、一つ忘れてる。
「飼われてたんじゃない。狼は群れで生きるんだ。きっちりした秩序のある……だから居心地はいいんだ、あそこは」
『その群れに帰れるとでも?』
「帰る……帰ってみせる。どうしても守らなきゃいけない約束が残ってるんだ」
俺はもう一度フェイに会うんだ。この迷宮を抜け出して。
そして謝るんだ。ごめんって。
カレンには果たせなかったけど、もう後悔はしたくないから。
『約束ですか。いいでしょう。もう邪魔はしません。一人でここでお待ちしてます』
俺はもう誰も殺したくない。
ここを何とかしようなんて、そんな大それた事も思いはしない。
だがあいつだけは……レイにだけは絶対に噛み付いてやるんだ。この牙で。
そして帰るんだ。フェイのところに……その想いだけで歩き続けた。
正直、もうボロボロで、体中が悲鳴をあげている。ナイフか何か知らないが、あちこち刺されているから、歩いた後を振り返ると廊下に点々と血痕が残っていた。
レイが強いのかどうかは知らないが、まともに戦えるかもわからない。眼鏡もちょっとヒビが入っている。
途中、新入りの部屋に寄って、ミカに檻の鍵を開けてもらった。
勝手に逃げても捕まる。後で必ず送り返すとミカが約束してくれたから、子猫ちゃんや他の皆はそのまま部屋で待っている。
水もやっと飲ませてもらえた。やっぱり吐いたけど……。
口の中の人間の血の味だけは、いくら漱いでも残ったままだ。ムカムカして気持ち悪い。
もう邪魔はしないといった通り、本当に何の妨害も無かった。ミカが言ってたがレイはそのあたりは紳士らしい。
ストックヤードを抜け、エレベーターに乗って上の階に行っても誰にも会わない。
真っ白な廊下。
ルーと幼い子供達のいた部屋の前も通り過ぎる。
赤い木の実をひとつ
黄色い実もひとつ
おいでおいでかわいい小鳥……
遠くでルーの唄う声が聞こえる。
初めて森で出会った時にも唄っていた歌。狼よけの歌……。
わかったよ、ルー。消えるから安心しな。
狼は甘酸っぱい匂いのする子供を襲わないんだよ。
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