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餓狼の章
ハルピュイアの告白 1
しおりを挟む昔々、クレタ島のミーノス王は、海神ポセイドンに後で生贄に捧げる約束で、白い雄牛を授かった。その雄牛があまりに美しく、生贄に出すのが勿体無くなった王は、約束を破って別の雄牛を生贄にした。海神を騙せるはずも無く、怒ったポセイドンは王の后パーシバエに白い雄牛を愛するようにとの呪いをかけた。そして后はミノタウロスを産んだ。成長して段々乱暴になってゆくミノタウロスに困った王は、ダイダロスに命じて迷宮を造らせ、そこにミノタウロスを閉じ込めた。戦争で勝った王は隣国から七人の少年と七人の少女を生贄に出すよう約束させ、人々を恐れさせていた。英雄テーセウスは三度目の生贄の一団に混じって迷宮に忍び込み、ミノタウロスを討ち果たす。脱出不可能といわれた迷宮から出るために、彼は賢く美しい姫、アリアドネに手渡された糸を入り口に結びつけ、それを手繰って見事脱出を果たしたとさ……めでたしめでたし。
めでたくないな。俺は英雄じゃない。姫君に糸ももらっていない。
うう……頭が痛い。喉がカラカラ。体中あちこち痛い。
そんなに大した怪我などしていなかったはずなのに……それに何だ? このちょっと経験のあるスッキリ感と虚脱感。
それより、胸の辺りを誰かにすりすり撫でられているのだが……くすぐったいぞ。
「……おや、お目覚めですかな」
予想外に男の声がして、俺は目を開けた。
ぼやけているのは眼鏡を掛ければ……そういつもの寝起きの調子で、枕もとに手を伸ばそうとしても手が動かなかった。手どころか、全身まったく動かせない。
そうだ、思い出した。俺はデカイ蜂に刺されたんだったな。
でも普通に息も出来るし、心臓もちゃんと動いている。それに辛うじて首から上だけはほんの少しだけ動くぞ。
声は出るかな?
「……ここ、どこ?」
すごく掠れてはいても声は出た。そして返答がある。
「地下の迷宮の奥深く……かな?」
「で、ミノタウロスの正体はあんたか?」
「そういうことですね」
はあ……面白くない状況だな。この声、この香水の匂い。あの男だ。
闇市場の親玉。
確かに俺も会いたいとは思っていた。しかし今、噛み付くどころか、俺はまな板の上の鯉だぞ。しかもなぜか敵に撫でられてるし。皮膚感から察するに、どうも俺は手術台みたいなところに素っ裸で寝かされているっぽいし……。
「……男に触られるのは好きじゃないのだが」
やんわり苦言を呈すると、男がやっと撫でるのをやめた。
「これは失礼。触り心地が良かったもので。若くて綺麗な肌ですから」
「……」
そういや、この男の香水の名前は背徳者だったな。ひょっとしてそっちのケがある?
ひん剥かれているあたり、何をされていたかわかったもんじゃないから、考えるのはよそう……今すぐ死にたくなる。
「心配しなくてもいいですよ。私は男を抱く趣味は無い。何もしていません」
考えが俺の顔に出ていたのだろうか。男に先回りで言われて、ホッとしている自分もどうかしている。
男は律儀に俺の腰のあたりにシーツをかけてくれた。隠してくれてどうもありがとう。
「三日近く仮死状態だったので、意識がちゃんと戻るか不安がありましたが、問題無いようですね。一部だけ解毒処理してみました。触った感触もわかったようですし、ではこれは?」
男がほんの少し嬉し気な声で言った直後、思いっきり俺の足の甲に何か刺しやがった。一瞬目の前が白くなったくらい痛い。
「……っつ!」
「うちで開発したこの毒の面白いところは、体がまったく動かないのに、表層部の痛みや快感などの感覚が倍以上になることです。素敵でしょう?」
針でも刺されたかと思ったのは、爪の先で突かれただけだったらしい。
「最悪……」
ああ、もういっそレディに首をはねられておいた方が楽だった気がしてきた。
この状況で、俺にとって唯一救いなのは眼鏡が無い事だろう。ぼやけていて相手の表情が見えない分、こちらの感情も抑えられる。
闇市場の男は動けない俺に言う。
「面白い話をしてあげましょう」
「……どうせ嫌な話だろ?」
聞きたくなくても、力ずくで口を塞ぐどころか自分の耳も塞げないから聞くしかない。
「先程、あなたの遺伝子をいただきましたよ」
「遺伝子って?」
「精子です」
「え……」
やっぱり何かよからぬ事をしていたんじゃないかぁ! 殺せ! 今すぐ殺してくれっ!
「私でなくて女性の手で採取させましたからご安心を」
「……あんた、読心術でも使うのか?」
顔に出てたんだろうな。多分俺、情けない顔をしていたと思う。
それよりも! 女だろうが誰だろうが関係ない。ってか余計恥ずかしいぞ!
そういえばこの妙にスッキリしている感じは何度か頑張った後の……良かった、意識が無くて……いやいや良くないって!
「申し上げたとおり、毒のおかげで感度が上がっていますので、とても早く終わりましたよ」
そんな説明はいい。もう聞きたくない。しかも丁寧な口調で。
「ちょっと実験してみたいことがありましてね。博士に父親になってもらおうと思いまして。もう既に人工授精に入っています」
「……相手……卵子提供者は誰だよ」
「あなたもよく知っている娘ですよ。若くて可愛いらしい女の子です」
ものすごく嫌な予感がする。というか、他に考えられない。
「彼女の能力とあなたの頭脳を持った子供が出来れば素晴らしいと思いませんか?」
「逆もありえるぞ」
「それもいいでしょう。血に飢えた牙をもった無垢な天使。素敵ではないですか」
こいつ、狂ってる。そんなものを生み出したら……。
「一つ言っとくが、二種の異種合成だけでも九割の確立で正常な容姿は望めない。その上にまだ僅かでも他の要素が入れば、確実に化け物が生まれるぞ」
「イヌとオオカミはDNA的には同じでしょう」
「イヌ同士の交配をするわけじゃないだろ? A・Hも人間なんだぞ。しかもイルカもいるし」
正論を言っても無駄だとわかっていつつも、つい語ってしまう。勿論相手は聞いてはいない。
「しかし本人が望んでいます。どんな子が出来るか、まあ楽しみにお待ちください」
「……俺はものすごく望んでいないし、見たくも無い。認知もしないぞ」
身動き一つ取れない状態で心情を述べてみても意味は無いけどな。実際にするわけじゃなくても、十歳も下の子供相手に子供を作るなんて、それこそこっちが背徳者だ。
「あともう一つ」
「……もう何でもいいから、早くとどめを刺して殺してくれよ」
「いけませんね。そんなに自暴自棄になっては。希望を持って生きていただかないと」
これで希望を持てる方がどうかしてるぞ? というか絶望の原因に言われたくない。
どうでもいいから、生きていて欲しいなら水をくれ……干からびそうだ。
「前にもお誘いした通り、私の元で働いてくださるなら、すぐにでも動けるようにして差し上げますが?」
やっぱりな事を言われて、もう返事をするのも嫌になって来た。
「……前にもお断りした通り、それだけは絶対無理。死んだほうがマシ」
「この状況で断れるとは、結構お馬鹿さんですね」
「そんなお馬鹿さんの頭脳など欲しくないだろ?」
適当に軽口で返すと、さすがに少し頭に来たのか、男は俺の肩の辺りに爪を立てた。
チカチカと瞼の裏に光が飛ぶほどの痛みが襲う。
「ぐっ!」
「ふふ、痛いでしょう? 泣きながら懇願するまで痛めつけてあげてもいいのですよ」
「……やってみろ。その前に舌を噛んで死んでやる」
男はふぅ、と大きなため息をついた。
「まあいい。そういうのは趣味ではないので。他にも手はあります。いっそ首から上だけもらうのがいいでしょう。私が欲しいのは、あなたの学者としての頭脳だけですから。うちの外科医のH・K技術は素晴らしいですよ。最近色々と練習もしていますし」
「へぇ……」
クレタのあれは練習かよ。酷いものだ。技術はともかくセンスが無さ過ぎる。
第一、ちまちまと痛めつけるのは趣味じゃないが、人をバラしたり継ぎ接ぎにするのはOKなんだな。変な奴だ……。
「体の方にも素敵な頭をつけてあげましょう。なかなか元気で良いものをお持ちですし、捨てるには勿体無いですから。以後も沢山優秀な遺伝子を供給してくれそうです。なんなら私が頂きましょうか?」
「頼むからサメにでもくれてやって」
別に愛着があるわけでもないけどさ、恥かしい事を言ってくれるじゃないか。ましてやおっさんの頭とすげ替えられるなんざ考えたくも無い。俺の知らないところでおイタされるくらいなら、跡形も無くしてくれ。
「可愛いレディを噛み殺して頂いた礼もしないといけませんしね。あなたがあそこまで残酷だとは思いませんでした。彼女を育てるのに私がどれだけの時間と愛情を注いだが」
「それはご愁傷様。こっちも命がけだったもんでね」
ああ……喉が渇いた。もう唾液も出ないし、頭がガンガンする。たぶん、どうにかされる前に、このまま放っておかれたら数時間で脱水で死ぬかもな。毒のせいで舌を噛むのも痛そうだから、それもいいか。
俺がそう思い始めた時。
遠くで囁く声が聞こえた。小さな小さな声。
『もう少しだけ我慢して。今行くわ。動けるようにしてあげる』
あの声だ……味方なのか?
俺が耳を澄ましたのがわかったのだろうか。ぼやけて見える男が首を傾げた。
「どうかしましたか?」
男にはあの声が聞えて無かったらしい。こいつはノーマルタイプみたいだな。
「別に。動けたらあんたも可愛いレディの所に、すぐに行かせてやれるのにと思っただけ」
「残念でしたね」
部屋の外でワゴンを押すような、かたかた……という音が近づいてくる。
それと一緒に足音。かつかつ……そこそこヒールのある靴の音だ。あの女かな。あ、足音が部屋の前で止まった。
コンコン。ノックの音。
「レイ、入ってもいいかしら?」
「どうぞ」
女の声と、返事をする男の声。
へえ、この男はレイっていうんだ。女の声はさっきの声と同じだ。
やっと顔が見られる……。
ドアが開く音の後、女の声がレイとやらに話しかける。
「ウォレス博士に栄養剤を点滴するわ。それから、ルーがお茶の用意をしてレイを探していたわよ。一緒に遊んでやる約束をしていたのでしょう?」
「そうでしたね。新しいドールハウスを取り寄せたのですよ」
……おっさんと子供を欲しがる娘がお人形でままごと遊び……想像もしたくない。
「では博士、また後ほど。時間を差し上げますのでよくお考えになることです」
出てけ、出てけ。
「……やっと行った……」
廊下を遠ざかっていくレイの足音を確かめてから、入って来た女が訊く。
「お待たせ。約束だったわね。私の顔、見える?」
覗き込んだその顔はなんとなく美人っぽいが、ぼやけていて細部まではわからない。
「ごめん、はっきり見えない」
「そう言うと思って、これ」
女は俺に眼鏡を掛けてくれた。途端に視界がクリアになる。
「正直、眼鏡を掛けていないあなたのほうが何倍も素敵だけど。勿体無い」
「掛けてないとその綺麗な顔がよく見えなかったから感謝する」
やっと拝めた女は、年の頃は俺と同じくらいか少し上という感じの、目がちょっとキツイが知的な顔の黒髪の美人だった。こういうタイプはかなり好きだ。
「私はミカ」
「素敵な名前。早速で悪いんだけど、ミカさん、水をくれるとありがたい。今ちょっとヤバイ」
「見ただけでわかるわ。真っ青よ。でも飲まないほうがいいわよ、絶対に吐くから」
「う……」
真上しか向けないこの状態で吐くとどうなるか、考えるだけでも怖いので我慢する。
「と言っても、このまま脱水症状で死なれると困るから、時間がかかるけど点滴させて。解毒剤も入れてあるわ」
ありがたいが、点滴って針がついてるよな? 爪でつつかれても痛いのに……。
有無を言わせず、彼女は俺の腕の血管に針を刺す。
「いったぁ……っ!」
やっぱり地獄のように痛くて、思わず声が出た。痛みに強いのが俺の数少ない取り柄なのに。これ、本気で嫌な毒だな。先程のレイってやつの言葉通りに痛めつけられていたら、あっという間にギブアップしていたかもしれない。
くそっ、女性の前で情けない声を……多分俺、涙目になってると思う。
「ごめんね。解毒剤が効いてきたら感覚も通常に戻るわ」
「……なぜ助けてくれる?」
「なんとなくね」
なんとなくで助けてくれるのか……まあもう何でもいい。
とりあえずこのミカは敵では無いようだ。素直に信じていいかは微妙だが、レイの意に反することをやっている地点で彼女はボスに逆らっている。どんな思惑があるのかは今は考えないことにした。
「君は目も耳もとてもいいみたいだけど? ひょっとして何百メートルも先見える?」
「見えるわよ。私は*ハーピィイーグルのA・Hなの。目と耳意外は普通だけど」
「……最強の猛禽か。道理で。色々訊いていいかな?」
「どうぞ」
ではお言葉に甘えまして。今、俺まともに動くのは口だけだからな。
「君、ひょっとしてルーの言うお姉ちゃん?」
「そうよ」
質問には即答で返って来た。
「キリシマ博士の娘?」
「正解。嫌だけど」
これも即答。やっぱり……。
「フェイのこと、知ってる?」
「ええ、勿論よ。あの子のためにルーがどんなに酷い目にあったか、あなた知らないでしょう?」
「別にフェイが悪いわけじゃないだろ?」
「……ある程度はわかっているみたいね。そうね、正確に言うとフェイには何の罪もない。悪いのは全て、地位や名誉を保持するために非道な事をやってのけたあの偽善者ね」
偽善者―――自分が憧れ続け、信じ続けてきた人がそこまで言われると、我が事のように胸に突き刺さる。
だが、真実ならば受け入れるしか無いのか……。
「あまり聞きたくないけど……キリシマ博士がどのような非道を?」
点滴の時間はたっぷりあるから話してあげる、と彼女は語り始めた。
*ハーピィ・イーグル(Harpy Eagle)=オウギワシ
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