Wild in Blood

まりの

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山猫の章

湖畔の小屋 2

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 なんとなくマシになったとはいえ横が急斜面の崖っぷちの道は続いている。そろそろ少し疲れも出てきた頃だった。
「あれ?」
 いつの間にか俺の前を行っていたフェイが足を止めた。その訳は俺にもわかった。
 アランとシンが慌てて追いついて来る。
「どうした?」
「ここでニオイが突然途切れた。これは……」
 俺が考えついたその理由は、アランが先に口に出した。
「まさか、チビ達はここで足でも滑らせて落ちたんじゃないか?!」
「ええっ! た、大変!」
 フェイが崖に身を乗り出して覗き込む。その襟首をアランが慌てて捕まえた。
「バカ! お前も落ちるぞ!」
「でも……!」
 フェイの気持ちもわかるが、アランの言うとおりだ。二次災害は避けたい。とはいえ、確認しようにも―――そう思っていると、今まで黙っていたシンが一歩前に出た。 
「私が見てきましょう」
 言うが早いか、シンは崖からひらっと身を翻した。
「わぁ……すごい」
 フェイが感嘆の声をあげるのもやむなしだ。それは美しい動きだった。
 アランとは正反対に、いつも物静かで物腰も上品なシンは、見た目こそ地味でそう大きくないアジア系の青年だが、この中で一番隊員歴が長い。その活躍も華々しく、こうした山岳地帯や危険な高所での事件事故でその名を聞かない事は無い。その訳がわかった。
 身軽に小さな岩の出っ張りや亀裂に足をかけ、トントンとリズミカルに飛び跳ねる様に崖を降りていくさまは、危なげすら感じさせない。さすがにあまり覗き込むのも怖いので、途中からは信じて待つしかなかったのだが、ずっと見ていたい眺めだった。
 ふと横を見ると、アランが信じ切った表情で相棒を見守っている。彼もあれと同じことをいつもやっているのだなと思うと、尊敬の念すら浮かぶ。
 ものの一分ほどで、下に着いたとシンから連絡が入った。
「どうだ?」
 尋ねたアランにシンの落ち着いた声が返って来る。
「ほんのわずか血痕が残っている。だが姿はどこにも見当たらない」
「……ってことは死んでないか。良かった……」
 いくら幼いとはいえ、身軽な山猫の血を引いている子供達だ。最悪の結末だけは避けられたようではあるものの……。
 そこでアランから以後の提案があった。
「谷川づたいに移動したのかも。オレ達にはニオイを探るなんて真似は出来ないけど、ここで二手に分かれようぜ。オレとシンは川沿いに下をさがす。ディーンとフェイは降りられそうなところまで行ってから合流してくれるか?」
 アランのその言葉に、俺もフェイも勿論異存があるはず無かった。
「んじゃ、行って来るわ。気をつけろよ」
 言い残してアランはぴょんと崖から飛び降りた。
 そっちこそ気をつけろ、と言いたかった言葉は、シン同様すいすい降りていく長身を見て飲み込んだ。ここはまさに彼らのエリアなのだ。まるで水を得た魚のように生き生きとした動きに、こうなる事を予測していたわけではないだろうが、アランを選んでくれたシンディにちょっとだけ感謝した。
「さて、俺達も急ごう」
 いつもの二人っきりに戻った俺とフェイは、さすがにここを走るのも怖いので早足で歩き始めた。
とはいえ、ここまで微かなニオイを探して神経を使っていた仕事が無くなったので、俺達は少し手持ち無沙汰だ。
 しばらく無言で歩いていると、フェイが声を掛けて来た。
「ねえ、ディーン?」
「ん?」
 フェイは俺の顔を覗き込んで言う。
「僕に隠し事あるでしょ?」
「な、何を突然」
 昨日、恋しく思っていた黒い瞳が、今となっては真っ直ぐに見られなかった。
 別に疚しい事があるわけでもないのだが……。
「シンディが心配してたよ。ディーンの様子がおかしかったって」
 ……あの女も空気を読むのが上手いからな……。
 別に、もう俺の正体を知ってるフェイには、山猫のA・Hを産み出した学者の名前を聞いて俺が動揺していた事を話しても良かったのだ。しかし、今はまだその理由まですべて明かすのは辛いし、どう説明したらいいのかもわからない。だからそれ以外をほぼ正直に話した。
「……昨日は休暇取り消しで気乗りしないままこっちに来て、A・Hをペットだと言い切るような女優の毒気にあてられて、簡単な事件のはずが闇市場がからんでる可能性まで出てきて……ってそこまでだけでも散々なのに、その上森や草むらを延々と歩いて、最後には雨にまで降られて、風邪を引いたのかちょっと熱まで出して……これで普通でいられる奴がいたら教えて欲しいぞ? おまけに、その間ずっと女優の香水の匂いで鼻が麻痺してたんだぜ? これがどんなに辛いかお前ならわかるだろ? 鼻摘まんだまま仕事できるか?」
 自分で言っていて悲しくなって来た。昨日の俺って、ホントに悲惨だったんだな……。
 それを聞いたフェイのものすごく同情する顔……。
「うわぁ、涙でそう」
「だろ? で、弱りきってる情けないところをアランに見られて、寝言まで聞かれた。俺も変にプライドの高いところがあるから、恥ずかしかったってわけ」
 くすくす、とフェイが笑う。その声が心地良かった。やっぱりこいつといると落ちつく。
 たぶん、昨夜恋しく思っていたのはこれだったんだ。恋愛感情とかそんな次元では無く、もっと根源的で普遍的な、そう、子供が親に抱く様な、ただ傍にいてくれるだけで護られていると思える、そんな安心感みたいな? 俺の方がよっぽど年上なのに。
「……正直、泣きたい気分の時に、お前がいなくて寂しかったというのもある」
「プライドの高い人の台詞じゃないよね、それ。でもね、ディーンがそう言ってくれると嬉しいよ。泣きたくなったらいつでもどうぞ。頭ナデナデしてあげるからね。約束するよ」
「お願いな」
 その時は軽い冗談のつもりだったんだけどな―――。
「あ、そうそう。もう一つ隠し事があった」
「何?」
「実は高所恐怖症なんだ、俺」
「……それはまったく隠せてなかったよ」

 それから俺達はかなり歩いて山を下り、アラン達と再び合流した。
「こっちは探して回っても姿は無かったよ。でも、これを見つけた」
 アランが差し出したのは、ボロボロに破れた子供用の服だった。二組ある。
 フェイがくんくんとニオイを嗅いで、ぬいぐるみと嗅ぎ比べる。
「間違いないね」
「袖口やボタンの周りが裂けているのをみると、もう着られなくなったんだろうな」
 アランの言葉に焦りが募る。
「やっぱり更に大きくなってるか……」
 そこからは、また警察犬よろしく俺とフェイがニオイを探りながらの追跡が始まった。
 かつての国境も越えて、目前に美しい氷河湖が見えてきた頃……途絶えていた子供達の痕跡をフェイが見つけた。
「まだ新しいニオイだよ。近いね」
「ああ、やっと追いついたみたいだな」
 よく見ると、微かに草や道に何かを引き摺ったような跡も残っている。やはり崖から落ちた際に怪我をしていたのか、足でも引き摺って歩いて来たのだろう。
 そこまでして彼等は進み続けたのだ。
今はどのくらいの大きさになっているかも、実際は何歳なのかもわからない。それでも、まだ幼いはずの子供達が、あの険しい道程をこんなに遠くまで歩いて来たのだと想うと胸が痛くなる。あの写真の可愛い子供達が。『おばあちゃん』の元に帰りたい……その一心で。
「きっと、すごくいい思い出があるんだろうな」
 アランが切ない声で言った。
「そうだな。さあ探そう。怪我もしているみたいだし、早く保護しないと」


 子供達の足跡は湖畔近くの一軒の家屋に続いていた。
 傾き始めた夕日が、湖を金色に染める時間。時折、物悲しい鳥の声と風が草木を揺らす音だけが聞こえる、そんな静かな場所だった。
 およそ近辺には民家も無い一軒家。木造の古びた建物は放置されて久しいように見える。家の脇にある、かつては花や野菜が植えられていたらしい小さな畑に生い茂った雑草がそれを肯定していた。
「この中だ」
「ここが『おばあちゃん』の家なのかな?」
 フェイが小さな声で言った。
 そうであってほしいと思う。あれだけ頑張って歩いて来て、辿り着けなかったのなら切なすぎる。しかし、帰れたのであっても、それはそれで問題もあるだろう。
 おそらく子供達は『おばあちゃん』が知っている姿では無いのだから。とはいえ、この家の様子からして、もうここに人は住んでいないようだ。
 家の中からは何の音も聞こえてこない。それが怖かった。
 いかに子供でも、一応は肉食獣の爪を持っている。気が立っているなら襲ってくる事も予測された。そのため、戦うようには出来ていないアランとシンを下がらせて、まず俺がだけが中に入る事にした。フェイはすぐ後ろに控えている。
 扉に手を掛けると鍵はかかっていなかった。きぃ、と軋んだ音をたてて扉が開く。
 その時、何か頭に閃くものがあった。
『危険!』
 次の瞬間、銀色の軌道が俺の目の前をかすめる。察知していたのでこれは余裕でかわせた。
 もう一度爪の一閃。
 これも紙一重でかわすと、ばりっと音をたててドアに溝が刻まれた。
「おっと、危ないな」
 窓から西日の差し込む室内に、それはふーっと威嚇の音をたてて両手を床につける形で構えていた。
 ぴんと立った冠毛のある耳、銀に黒の斑の体毛、細く長い尻尾、しなやかに反らせた背中。まさにリンクスそのもの。
 牙を剥いた少年の顔以外は。
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