Wild in Blood

まりの

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哀歌の章

クジラの歌 3

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 夢を見ていた。
 森の中で歌っていたあの女の子。
 妖精みたいで、とても可愛い不思議な娘。
 ルー。
 ルーの細い腕に抱きしめられている気がする。
 歌が聞える。
 でもこれはクジラの歌。狼よけの歌じゃない。
 おうおう……ふぉんふぉん……。
 声は全身に染み渡るように優しく包んでくれる。

 気がつくと、何かが俺の口を塞いでいた。
 空気が勢い良く入ってくる。離れてはまた吹き込まれるの繰り返し。誰かが人工呼吸してくれているんだ。
 こんな時だが、唇の感触が柔らかくて気持ちいい。誰だろう? 女の子っぽいな。まさかさっきのは夢じゃなくて、本当にルーだったのかな。
 俺が気がついたのがわかったのか、口が離れて行った。何となく名残惜しいような変な気持ち。
 目を開けると、酷くぼやけてよく見えないものの、やはり夢で見ていた顔だった。
「よかった。気がついた?」
 ……フェイだったのか。
 うわぁ、俺、ぼうっとしていたとはいえ、相棒の人工呼吸に心地よさを覚えていたなんてものすごい自己嫌悪。同じ顔でも女の子じゃないからな。
「ディーン、結構酷く毒回ってるんじゃない? 落ちて来た時は意識があったのに、いきなり溺れるんだもん」
「いや、それは……」
 普通に泳げないだけだ。
 北極圏近くで生まれて、近くに湖があったって、氷河がすぐ傍にあるような所で育ったのもあって、俺は泳げないのだ……無事帰れたら、嫌がらずプールで泳ぐ練習をしようと思う。
 思いの外崖が高かったので、水面に叩きつけられた衝撃は結構なものだった。救いは深くて岩が出っ張っていなかった事と、背中から落ちたので下を見なくて済んだ事か。しかし、ただでさえ息が苦しかった所に苦手な水だから、溺れるのはあっという間だった。
 フェイの人工呼吸のおかげか、随分と体が楽になった。どのくらい時間が経ったかわからないけど、毒の影響はもうほぼ無いみたいだ。無事分解されたのだろう。
 だが眼鏡が無いのでほとんど見えない。突き飛ばされた時に落としてしまったのだろう。
「くそっ、アボットがここまでやるとは思わなかった」
 懸念していたとはいえ、まさか殺しにかかるとは。しかも口封じにと俺達まで……。
 その表情はわからないが、俺の身を起こしてくれながら、フェイが珍しく感情的に言う。
「気持ちはわからなくも無いけどね。僕もさっき、ディーンが目を覚まさなかったとき、本気でアボットさんに殺意を抱いたからね」
「フェイ……」
 まあな。たぶん反対だったとしても、俺もフェイに何かあったら相手を本気で恨むと思う。 
 愛とか友情とか、そういうのじゃない。互いのプライベートに干渉するでもない。秘密はあってもいい。だが、パートナーというのはもう一人の自分と同じ。設立時からG・A・N・P隊員が単独任務を許されず、常に二人一組で行動するよう義務付けられているのは『危険を回避するには、もう一組の目を持て』という、誰かの教えに沿っているという。もう一組の目、つまり相棒だ。一緒に命懸けで行動するうち、自ずと生まれてくる信頼。言葉が無くても相手の事をわかり、背中を任せられる相手でないと相棒は務まらない……以前北米支部にいたときにも、支部長にや前のパートナーに教えられた。今はそれをすごく実感している。
 考えてみたら、俺はフェイのプライベートなんか全く知らない。それでも絶対の信頼はある。もう、それこそ空気みたいなものだ。
 アボットも同じだったと思う。きっともう一人の自分を失って、我慢が出来なかっただろう。
 それでも……そこを乗り越えないといけない時もあると思うのだ。
 そういえば、フェイは一人か? ベラドンナも一緒に落ちたはずだ。
「ベラドンナは?」
 俺が訊くと「大丈夫、逃げないよ」と前置きしてからフェイが答える。
「アリーと一緒にディーンの眼鏡を拾ってくるって」
 ……それは非常に申し訳ない。眼鏡が無いと俺、泳げないわ見えないわ、ただのお荷物でしか無い気がする。
 フェイじゃないが、もうベラドンナは逃げないだろうと俺も思う。恐ろしい殺人犯であっても、根は素直で純粋な娘だ。素直すぎるが故の犯行だったのだから。
 それより、ここはどこかな? かなり薄暗い。下は岩の感触だ。それに海のニオイ。波の音もすぐそこ。
「ここは?」
「崖の下の洞窟。アリーの住処」
 フェイが答える。
「アリーというのに会えたのか? やはりA・Hか?」
「うん。ちょっと変ってるけど、とっても可愛い女の子だよ。どうもパパは女の子だけを集めてたみたいだね」
 ……フェイ、爽やかに言ったけど、それってかなりヘンタ……いやいや。子供に言っても仕方が無いな。
 フェイに訊いてみると、俺達が崖から突き落とされてから、かれこれ一時間以上は経っているという。なのにまだ支部のヘリが来る様子も無いのだそうだ。
「アボットは支部に連絡を入れなかったみたいだな」
「僕もどうしようと思ったけど、少し待ったほうがいいかなと思って。アリー達も一緒に保護した方がいいでしょ? それに……」
 フェイが途中で黙ったと思ったら、近くでざばっという水音が聞えた。
「あったよ」
 ベラドンナの声だ。帰って来たらしい。
 フェイがベラドンナに労いの言葉を掛ける。
「眼鏡みつかったんだ。すごいよ。よく探せたね」
「アリーが、みつけた。いい子いい子、してあげて?」
 殺人蛸娘もご機嫌な声だ。すっかり懐かれてるな、フェイ。
 ぴーぴーというイルカの声が聞こえたのは、フェイが出しているのか?
 とにかく、手渡された眼鏡を掛けて、やっと俺の視界に輪郭が戻ってきたわけだが……。
「えっと……君がアリー?」
「ぴーぴー」
 洞窟の薄暗い中で海面から顔を出しているベラドンナの横に、白い小さな顔が一緒に覗いてる。イルカの鳴き声は彼女が発しているのだと一目見てわかった。
 フェイがアリーのことをとても可愛いと言っていた。確かにとても愛らしいが……。
 顔が人間の顔じゃない。イルカ、それもベルーガのような、口先が短く額の出たユーモラスな顔だ。頭髪は無い。首もくびれが見えないのに、水から覗く手は人間の手だ。なんというか……これは明らかに失敗作として生まれたのだとわかる。
「ありがとう。すごく助かったよ」
 俺が礼を言うと、アリーが、すい、と泳いで近づいて来た。
「ぴきゅきゅきゅ」
 どういたしましてとでも言ったのだろうか。喋れないのだな。だが知能は高そうだ。
 その鼻先を撫でると目を細めてアリーは顔を上下に振った。触り心地はつるつるしていて気持ちがいい。
 確かにこのアリーという娘は、通報が来るほどのものすごい異形だ。しかし、なんとも言いようの無い可愛さだなこれは。この子を欲しがったオーナーの気持ちは少しわかる。癒し系なんだよな。よく見ると下半身も人間のものではない。これでは陸に上がれないな。なぜベラドンナと上で一緒に居なかったのかというのがこれでわかった。
「アリー、お兄さん、気に入ったみたい」
 ベラドンナが無邪気に言うのに、フェイがしれっと答える。
「同じ白い北の生き物だから?」
「……フェイ、それ酷くないか?」
 俺、確かにベルーガと同じ北極近くの生まれだし、色素欠乏症だけどさ。そこまで真っ白じゃないぞ。
 ……と、少し和んだ時間は、次の瞬間に破られた。
 ぴぴっと、通信機から確認音が。
 手首の通信機を開くと、アボットの所在地が動いている。まだかなり離れてはいるが、海の上だ。アボットはどこかでボートを調達して、海側から探しているようだ。
 まだ諦めていなかったのか。そうだな、俺達の生体反応がでている以上、口止めに最後までやらないとと思っているだろう。
「フェイ、通信機を切れ」
 こちらがわかるのだから、向こうにも所在がわかる。通信機を断ってしまうと支部に連絡は入れられなくなるのは、この際仕方が無い。
「待って。ここにいるのがバレる前に、僕がオンにしたまま泳いでここを離れてみる。ディーンのセンサーの方をかして」
 なるほど。フェイも考えているんだな。G・A・N・P隊員が両手に着けているリストバンドは片方が通信、所在座標確認用。片方は生体反応をチェックするためのセンサーだ。任務中に何かあって命を落とすことがあれば、パートナー、本部、もしくは支部のオペレーションルームに知らされる。
 センサーを渡すと、フェイはブーツを脱いで自分の足首に俺の分を装着した。細い足にはぴったりだった。
「じゃあ、僕は行って来る。ベラドンナ、アリー、ここでいい子に待っててね。動いちゃダメだよ」
 そういい残すと、フェイが海に飛び込み、一瞬でその姿は見えなくなった。
「すごく、早いね」
 ベラドンナが驚いている。
「フェイは一番早く泳げるイルカなんだよ」
 だが相手はボートだ。逃げ切れるのか、フェイ。
 確認しようにも通信機が使えないからな―――。
 信じているけど、酷く不安だ。

 おうおう……ぶぉんぶぉん……。

 クジラの歌は背後の岩の向こうから聞える。

 きゅーきゅーぴーぴー。

 アリーが悲しげにそれに答えるように声を上げる。海のカナリアと呼ばれるベルーガの美しい声で。
 こちらはこちらで、ビッグママを外に出す方法を考えなければ。


*ベルーガ(シロイルカ)
鯨偶蹄目イッカク科シロイルカ属
北極圏の冷たい海に生息する。
おでこにメロンと呼ばれる脂肪組織があり、そこを震わせて高音の笛のような音や鈴ににた音を出す。ユーモラスな顔と口笛を吹くような口元が可愛らしくバブルリングなどで遊ぶ様が水族館などでも人気。
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