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 第一話 ここは何処だ?

「………………」

 爽やかな草原の匂い。春を感じさせる陽射しの温かさ。
 空は透き通るように青く、見渡すばかりの低い草原の海の先に、白と赤に塗られた街が見える。
 ……さて、現状把握は出来た。

「……ここは何処だ?」

 我が名は『アンドウミキティヌス=ロマネコンティヌス=ルシウス』——ローマ最強の剣闘士で、現在迷子だ。まったく知らない場所にいる。
 確か、モーニングスター鎖付きトゲ鉄球を操る剣闘士『エドモンドホンダ=ロンドゴメス=ベルサンドリラ』との戦いで負傷した身体を治療する為、ベッドに横になったところまでは覚えている。
 頑丈な全身鎧に油を染み込ませたボロ布を巻き付け、それに火をつけ、俺の武器は素手のみという圧倒的な不利な条件での戦いだった。
 それは仕方ない。俺が最強の剣闘士だからだ。
 飛んできた鉄球を両手で掴み、それに火のついたボロ布を巻きつけて——

 いや、どうやって倒したかは思い出さなくてもいい。
 鎖を引きちぎり奪い取った火だるま鉄球を金槌の代わりに使い、熱せられた鎧を引き剥がしアレを作って、エドモンドの分厚い全身鎧の隙間に突き刺し俺が勝利した。
 多少の火傷を負ってしまったが、火傷程度は馬糞を塗れば治療できる。
 馬車小屋で馬糞を全身に塗りたくり、牢獄のような部屋のベッドで横になった。

 ……そこまでは覚えている。
 そこから先の記憶がまったくない。

「すぅー……ローマの匂いじゃないな」

 空気の匂いを嗅いでみた。爽やかな澄んだ匂いがする。
 ローマは血と裏切り——鉄と油と糞尿の腐った臭いがしていた。

 いや、そもそも俺はベッドに全裸で寝ていた。
 それなのに俺の身体は火傷の跡どころか、馬糞の臭いもしない。
 足には履き慣れた革靴、茶色の腰から膝上までの布ズボンを履いている。
 誰かが俺の身体を綺麗に洗い、服を着せ、街が見える草原まで運んで立たせたとしか思えん。

(こんな面倒くさいことを一体誰が……)

 分からない。何も分からない。
 俺は戦いしか知らない。戦うしか能がない男だ。
 俺は物心が付いた頃にはすでに戦っていた。
 最初は国を襲った敵兵、その後は奴隷商、奴隷仲間、連れて行かれた知らない町の人間達——
 そして、最後は闘技場『コロッセオ』で剣闘士や獣を相手に戦っていた。

 ここにいる理由は分からない……分からないが、俺に出来る事は一つだけだ。
『戦い』だ。俺は戦い以外知らない。今までもこれからもきっとそうなのだろう。
 剣も盾もないが、拳はある。あの街が次の闘技場だというのなら向かうだけだ。

「フッ、いつ以来だろうか」

 草原の中に見つけた、街までのびる土道を進んでいく。
 金はない、水も食料もない。俺の持ち物はこの命と傷だらけの身体だけだ。
 地位も名誉もない最下級の奴隷だった頃に戻った気分だ。

 だが、安らかな時間の流れに「ふぅー」とひと息付いた。
 自分の意思で自由に歩くのは久し振りだ。
 奴隷剣闘士として活躍し、自由市民の栄誉を得たが、俺は戦いしか知らない男だ。
 自由の資格を断り、闘技場で死ぬことを選んだ。

 決して、特権階級の裕福な主人に飼われる人生を選んだわけではない。
 数多の人間と獣を殺したこの血塗れの手で、幸せなど掴めぬと分かっているだけだ。
 俺が向かう先は地獄が相応しい。

 第二話 ローマを超える街

「……何だこの街は!」

 土道を進み、立派な街門が見える石橋までたどり着いた。
 俺はローマが世界一の街だと……そう思っていた。
 それなのに目の前にある美しい街は何だ。
 雲のように真っ白な外壁、紅葉のように鮮やかな屋根。
 これだけでも驚愕なのに、そんな美しい建物が民家のように並んである。
 これだけ立派な街だ。王族だけが住める街に違いない。
 俺のような奴隷身分が入れる街ではない。何処か小さな村でも探すとしよう。

「兄さん、そんな所に突っ立ってないで街に入ったらどうなんだい?」
「なに‼︎ 俺のような者が入ってもいいのか‼︎」

 静かに立ち去ろうしたら、恐ろしいほどに身なりの良い五十代のオヤジが、にこやかに話しかけてきた。
 灰色というよりも銀色に近い、草原のような柔らかな髪。口髭は綺麗に切り揃えられている。

 真っ白な長袖シャツには見たことがない黒色の文字で『イカレてやがる』と書かれ、その上に薄い生地の水色と真っ白な縦縞袖無しシャツを羽織っている。
 下は柔らかな薄緑色のズボン。足は足首まで完全に隠した、足の甲にジグサクにヒモが結ばれている真っ白な布靴を履いている。
 このような色鮮やかな服と靴は一度も見たことがない。
 ローマなら屋敷三軒は買えるはずだ。

「いいと思うが。何だ、あんた。犯罪者なのか?」
「いや、違うが……」

 大富豪のオヤジに聞かれて素直に応えた。
 人殺しではあるが、犯罪者ではない。
 
「だったら入っていいぞ。悪さをしないなら誰でも歓迎だ」

 信じられない。入っていいだと……
 どう見ても場違いだ。上半身裸だぞ。
 仕えていない貴族の屋敷に勝手に入った奴隷がどうなるのか知らないのか。
 もしやこの大富豪……俺を騙して、鞭打ちになるのを見るつもりか。

「ヒヒーン‼︎ ヒヒーン‼︎」
「ん?」

 どうするべきかと悩んでいると、ドカドカと土道をけたたましく打ち鳴らして、二頭引きの荷馬車が向かってきた。
 それにしても下手くそな操縦だ。強盗に襲われて逃げているとしか思えん。

「そこ退いてくれえー‼︎ 馬が暴れて言うこと聞かねえんだぁー‼︎」

 なるほど。そういうことか。
 馬車の御者台に座る男が手綱を片手で握って、もう片方の手を大きく振り回して叫んでいる。

「な、何だって‼︎ おい、皆んな逃げろ‼︎ 暴走馬車だ‼︎ 街に突っ込むぞ‼︎」
「きゃああああ‼︎」「うわああああ‼︎」

 大富豪が大声で叫ぶと、街中にいた大富豪達も悲鳴をあげて、必死の形相で馬車の進路から逃げ出し始めた。
 フンッ。立派な服装だったが、中身はローマの貴族連中と同じらしい。
 剣闘士達の戦いは喜んで見るくせに、自分で戦う勇気のない腰抜け連中だ。
 やれやれ仕方ない。馬なら何度も相手している。
 暴れ馬如き、どうとでもなる。

「な、何やってんだ⁉︎ 轢き殺されるぞ‼︎ 早く逃げろ‼︎」
「馬鹿野朗‼︎ 早く逃げろ‼︎」

 大富豪が逃げろと叫んでいる。御者の男も逃げろと叫んでいる。

(この俺に逃げろだと? このローマ最強の剣闘士アンドウミキティヌス=ロマネコンティヌス=ルシウスに馬如きから逃げろだと?)

 フッ、笑わせてくれる。暴走馬車の前に立ち塞がると両手足に力を込めた。

「来い」
「ヒヒーン‼︎ ヒヒーン‼︎」

 3068戦3068勝0敗——剣闘士に敗北は許されない。
 剣闘士は勝つか死ぬかそれだけだ。逃げれば死ぬ。それが剣闘士の世界だ。

「フンッンンンンン‼︎」
「「ヒ、ヒィ、ヒギィン‼︎」」

 ドシン‼︎ 広げた両腕に二頭の馬の太い首が激突した。
 まるで濁流の中を流れる大木二つを受け止めたような衝撃だ。
 その衝撃に耐えきれずに御者の男が俺の頭を飛んでいく。
 馬車の方は馬達の尻に大激突だ。俺の方は——

「ぐぅぅぅ!」
「し、信じられん‼︎ う、受け止めおった‼︎」

 ズザァアアと石橋に踏ん張っていた両足が三十センチも後退させられた。
 だが、許すのはここまでだ。この先には一ミリも進ませない。
 両腕にさらに力を込めて、前腕と二の腕で二頭の生温かい太い首を絞め上げていく。

「手荒い歓迎だな。少しは落ち着けよ」
「ヒィ……ヒ、ヒヒーィン……」

 首をへし折るのは簡単だ。だが、馬は貴重品だ。殺しはしない。気絶させるだけだ。
 落ち着くようにと二頭の耳元で囁いた。少しずつ暴れる力が弱まっていく。
 そして、完全に絞め落とすと両腕から解放した。二頭の馬がドシンと石畳に崩れ落ちていった。

「あ、あんた一体何者なんだ‼︎ い、い、一体どうやって‼︎」

 三十代手前の御者の男が這いつくばりながらやって来ると興奮気味に訊いてきた。
 俺が何者か知りたいらしい。よかろう、教えてやる。

「我が名はアンドウミキティヌス=ロマネコンティヌス=ルシウス! ローマ最強の剣闘士だ!」
「アン、アンド……」

 仕方ない奴だ。もう一度だけ名乗ろう。

「アンドウミキティヌス=ロマネコンティヌス=ルシウス! ローマ最強の剣闘士だ!」
「アンド……ディヌス、えっと……」

 ……お前、剣闘士だったらもう死んでいるぞ。
 まあ、馬如きもまともに操れないようなら仕方ないな。
 
「ルシウスだ」
「あ、ああ! ルシウスさん! あなたのお陰で助かった! 何か礼をさせてくれ!」
「……礼か」

 別に大したことはしてないが、礼が貰えるなら貰っておこう。

「では、仕事を紹介してくれ。この街に着いたばかりでな。金が無いんだ」
「何だあんた? 冒険者じゃなかったのか?」
「冒険者? それは探検家のようなものか?」
「ああ、そんな感じだ。そうだ! 冒険者ギルドまで送っていくよ! ついでに荷台にある売れ残りの品も好きな物を貰ってくれ。この程度の礼しか出来なくてすまないな」
「いや、助かる。ありがたく貰おう」

 探検家か——確か別大陸を求めて、船で海を渡る連中だったな。
 そこで現地人との交渉が失敗すると、戦争が起こる。
 俺の国はその戦争に負けて、ガキだった俺は捕まって奴隷として売られた。
 そこからは主人と住処を転々と変えていき、やがてローマにたどり着いた。
 もう十年以上も昔のことだ。今ではローマこそが俺の国だ……そう思っていた。
 だが、今度はこの国が俺の国になるらしい。どんな国か見てやるか。
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