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訪問者①

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 決意通り私は健斗との思い出の詰まったアパートを出て、一時的に実家へと身を寄せた。
 彼は私が引っ越したことなど知らないはずだ。

 携帯の番号も変更し、新しいスマホでも健斗の連絡先はブロックしてあるため、彼から連絡が来ることはあり得ない。
 こんな私の行動は、周りから見れば極端で異常だと思われるのだろうか。

 だがこうでもしなければ、十年以上共に過ごしてきた彼のことを記憶から消し去ることなどできなかった。
 恋人としての愛情はこの数日の間に消え失せつつあるが、長年幼馴染としてそばで彼のことを見てきたという情は、そう簡単になくなってはくれないらしい。

 実家と大学をひたすら往復するだけの日々。
 だがこんな日々もあと少しで終わりを告げる。
 大学を卒業すれば、私は新しい街で新しい人間関係を築き、新しい人生を歩み出せるのだから。

 ……そう思っていた私の考えはどうやら甘かったようで。
 

「ねえ沙良……ちょっといいかしら」

 ある日唐突に私の部屋へと母がやってきた。
 母が部屋を訪れるなど、滅多にないことなので思わず身構えてしまう。

「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」

 母は思い詰めたような深刻そうな顔で部屋の中へと足を踏み入れると、私の顔を見つめてこう告げたのだ。

「……健斗くん、今家の前に来てるけど……」
「え……」

 ひゅっと喉が鳴る。
 心臓があり得ない速さで拍動を刻み、うまく息が吸えない。
 だんだんと手足に力が入らなくなり、その場に倒れ込みそうになってしまった私を母が咄嗟のところで支えてくれた。

「沙良に会わせてほしいって言われたけど、断った方が良さそうね」

 とてもではないが正気でいられない私の様子を目にした母は、ため息をついてそう言った。

「あなたは部屋にいて。お母さんがちゃんと話してくるから」
「ごめんなさい……面倒なことさせちゃって……」
「健斗くんのことは昔から知ってるから、大丈夫よ。ただあんな風になっちゃうとは思ってなかったけどね……」

 顔色が悪いから今日はもう早めに布団に入るように、とだけ言い残して母は階下へ降りていった。
 何やら話し声が聞こえるが、何を言っているのかまではわからない。
 その会話すらも耳にしたくなくて、私は母に言われた通り布団をすっぽりと頭から被って耳を塞ぐ。

 (私、全然立ち直れてない……)

 健斗への気持ちが萎み始めたことで安堵していたつもりが、想像以上に心に残された傷跡は深かったらしく。
 もはや彼の存在自体がトラウマになってしまったらしい。

 どこへ行くのか、何時に帰ってくるのか、誰と会うのか、聞きたくても聞けなかったあの時の惨めな気持ちが蘇る。
 健斗に怒られたくなくて、嫌われたくなくて、彼が私の元から離れて他の誰かと並ぶのが許せなくて。

 走馬灯のように辛かった日々の記憶が駆け巡り、再びパニックになってしまいそうになった私は、気持ちを落ち着けるために胸に手を当てて深呼吸する。

 (忘れるんだ、もう健斗とのことはなかったことにするんだ)

 まるで自分自身に暗示をかけるかのように、繰り返し心の中でそう唱えた。
 きっと時間が解決してくれる。
 彼の姿を見なければ、もう大丈夫。

 そう思っていたはずなのに。
 またもや神は私に残酷な試練を与えたようだ。
 

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