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 まるで昨晩の醜態などなかったかのように、あるいは、彼女への気持ちなどもともと存在しなかったかのように……。


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 ディアナの婚約の一件から、イアンはすっかり生きる気力を失っていた。
 自ら命を絶ちたいと願うほどの激しさはないものの、胸の底でずっと絶望が燻って、生に対して半ば投げやりな気持ちが拭えないでいる。
 そんなイアンを心配して、リチャードが新しい本を買ってきたり、巷で評判の甘味を持ってきたりしてくれるのだが、それが心苦しくてならなかった。
 彼の気遣いに応えようと笑みを浮かべてみるが、瞳の虚ろさがかえって際立ち、歪な形で内の悲哀を露呈することになるのだった。
 リチャードとの語らいだけがこの生活で癒しだったはずが、それすらも気まずくぎこちない時間となってしまい、イアンの心の陰りは晴れることなく日に日に濃くなる一方であった。



 そんなある晩、馬の蹄の音が扉を隔てた向こうから近づいてきた。
 ベッドの上でぼんやりと空を見つめていたイアンは、そのおぼろげな表情をたちまち強張らせ、身を固くした。
 馬の足音だけならリチャードだろうと思えたが、馬の足音だけでなく、荷車らしき車輪の音が後からついてきている。
 イアンの行方を探す役人か親衛隊の人間か……。いずれにせよ、リチャード以外の人間がここに近づかれては困る。
 気配を悟られてはならないと、イアンは固唾を飲んで外の不吉な足音が通り過ぎるのを待った。
 しかし、イアンの警戒に反して、扉を叩いたのはリチャードだった。

「イアン、僕だ。入るよ」

 いつもと変わらない声、いや、どこか喜色を滲ませた声で言ってリチャードが扉を開けた。
 イアンはホッと肩で息をついて、ベッドから立ち上がった。
 だが、リチャードの後ろにフードを被った男が控えているのを認め、再び体を固くした。

「リチャード、その人は……?」

 強張った視線をリチャードの背後に向けながらおずおずと訊く。
 リチャードが自分を裏切るとは思えなかったが、それでも警戒せずにはいられなかった。
 
「ああ、ごめん。びっくりしたよね。でも警戒しなくていいよ。彼は我が家に長年仕えているだジェフだ」
「ジェフ・ロートンと申します。はじめまして」

 リチャードに紹介され、男――ジェフ・ロードンはフードの帽子を脱ぎ挨拶をした。
 歳は四十代半ばくらいだろうか。がっしりとした体格だが、顔つきは柔らかで上品さが漂っている。

「聖女強姦の事件について、僕ひとりで調べ上げるのは時間がかかるから、彼にも協力してもらっているんだ。もちろん秘密が漏れる心配はない。彼は先祖代々我が家に仕える優秀な執事だ」
「ええ、ご安心ください。私はブラッドリー家に忠誠を誓っております。たとえ拷問を受けようとも、イアン様がここにいることは吐きません」

 冗談めかした物言いだが、その目は真剣そのもので、リチャードへの忠誠心は確かなものだと分かった。

「あ、ありがとうございます……」

 ジェフが味方であることは分かったものの、ここに来た理由がわからず、リチャードに戸惑いの視線を向ける。
 その視線の意味を察したのか、リチャードはにこりと微笑んで言った。

「今日はいいものを持ってきたんだ。少し準備に時間がかかるから、ベッドの上で待っておいて」

 そう言うと、半ば強引にイアンをベッドに座らせ、ジェフと一緒に外へ出た。そして、しばらくすると二人は人ひとりが入れるほどの大きな木の桶を持って入ってきた。
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