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1巻
1-2
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驚いて肩を跳ねさせた香奈恵が振り向くと、黒のスーツをきっちり着込んだ雅之が立っていた。
「堀江さん」
「ブランシェの多田さんからお電話がありました。この後はずっと事務所にいるので、都合のいい時間にお電話くださいとのことです」
ブランシェの多田とは、挙式でブライダルブーケの発注をかけているフラワーショップのオーナーである。
「ありがとう。あと、バンドのことも助かりました」
そう言って香奈恵は扉の方へ歩き出した。
「演奏、気に入ってもらえたようですね」
式場を出る瞬間、新郎新婦の姿を再度確認して香奈恵が頷く。
「うん。堀江さんのおかげで、すごく喜んでいただけているみたい」
香奈恵に続いて式場を出た雅之も、笑顔の新郎新婦に表情を綻ばせる。
二人の門出を祝福する柔らかな眼差しに心を和ませていると、扉を閉じた雅之の視線が自分に向く。突然真っ直ぐに見つめられて緊張し、その気まずさを誤魔化すべく話題を振った。
「堀江さんに、こんなすごいツテがあるなんて驚きました」
「親がそっち系に強い仕事をしているので」
雅之がそう返した時、一度閉めた扉が再び開き、バンケットスタッフが出入りする。通行の妨げにならないようにと、雅之は香奈恵に体を寄せて通路を空けた。
必要以上に体が密着しないように雅之の胸に手を添えて一定の距離を保った香奈恵は、昨日と似た距離で彼を見上げる。
今日は、式場スタッフらしくシャツのボタンを首元まできっちり留めてネクタイを締めているので、首筋のホクロを確認することはできない。
そんなことはないとわかっていても、つい昨日の彼は幻だったのではないかと疑ってしまう。
「次の仏滅、チーフは午後から休みですよね?」
「ええ。午前中にプチブライダルを利用するお客様の撮影に立ち会うだけだから」
久しぶりのプチブライダルの利用客に、気合が入る。
嬉しさから頬に小さなエクボを作る香奈恵に、雅之が小さく笑って言う。
「私も休みなので、その日の夕方に食事会の予定を入れてもいいですか?」
その言葉に、彼と交わした約束を思い出す。
約束を反故にするつもりはないけれど、明確な予定を告げられると、なんだか尻込みしてしまう。
そんな香奈恵の弱気を見透かしたように、微かに背を屈めた雅之が耳元で囁いてきた。
「逃がしませんよ」
「――っ!」
息が耳に触れるのを感じて、反射的に手で押さえて彼を見上げた。
「逃げません! その日で大丈夫です」
約束は必ず守りますと、真剣な眼差しを向ける。
眼鏡越しに視線を重ねると、雅之がそっと目を細めた。普段あまり意識することはないが、彼は知的な印象の綺麗な切れ長の目をしている。
そしてその瞳の奥に、普段の彼からは感じることのない野生的な光が揺れている気がして、香奈恵は後退りできないのを承知で背後の壁に背中を密着させた。
「……」
昨夜から、二人の間に流れる空気がいつもと微妙に違う。
それを息苦しく感じていると、突如、彼の背後から甘い声が聞こえてきた。
「あ、堀江さぁんっ」
語尾にハートマークでも付きそうな甘ったるい声と共に、晶子がひょっこりと顔を出した。
バンケットスタッフとして駆り出されている晶子が、空になったシャンパングラスを載せたトレイを両手で抱えたまま、雅之との距離を詰めてくる。
そんな彼女と距離を取るべく、雅之が立ち位置をずらした。自然と香奈恵との間にも距離ができて、二人の間に漂っていた密度の高い空気が霧散していく。
それにホッとする中、晶子が大袈裟に眉尻を下げて言う。
「今日のバンド、私のために堀江さんが手配してくれたんですよね」
「私のため」と強調して話す晶子は、その直後、「ごめんなさい」としおらしく肩を落とす。
そしてそのまま、自分は責任を感じていたのだけど、チーフである香奈恵から早く帰るように強く勧められたことで退社するしかなかった、そのせいで昨日はろくに眠れなかった、といったことを言い始める。
そしてその締めくくりとして、甘ったるい声で言った。
「このお礼に、今度食事をご馳走させてください。ちょうど友達に、素敵なイタリアンのお店を教えてもらったんです」
トレイを持っていなければ、ボディータッチをしながら話しかけそうな熱っぽさだ。
そんな晶子に、雅之はそつのない微笑みを添えて返す。
「私が手配できたのは、ただの偶然ですよ。忘れ物を取りにきた際、一人で対策を講じようとしていたチーフから話を聞かなければ、事情を知ることすらなかった。だからお礼は、チーフにしてください」
「チーフ、イタリアンは嫌いです」
雅之の言葉に晶子が即答した。
――いえいえ。イタリアン、好きですよ。
別に晶子にご馳走してもらうために頑張ったわけではないので、ツッコミは心の中に留めておく。
「とりあえず今は、バンケットスタッフの仕事を頑張って」
香奈恵の声なきツッコミが聞こえたわけではないだろうけど、雅之が苦笑を浮かべつつトレイを持つ晶子の肘に手を触れてそう急かす。
すると晶子は、可愛らしくチラリと舌を出してトレイを抱えて小走りにその場を離れていく。
意外と女性のあしらいがうまいなぁと、二人のやり取りを見て感心していると、雅之がからかうような口調で聞いてくる。
「イタリアン、ご馳走しましょうか?」
「この場合、ご馳走するのは、私の方でしょ」
「残念ながら、女性に奢ってもらう習慣はないので。だから私がご馳走しますよ」
雅之は軽く肩をすくめる。そして「西村さんより、いい店を知ってますよ」と、茶目っ気たっぷりに付け足してくるので、香奈恵も肩をすくめた。
「部下に奢らせるわけにはいきませんから」
香奈恵の言葉に、雅之がやれやれといった感じで息を吐く。
これまでの雑談でも、会話の流れでプライベートな時間に食事でも行こうかといったノリになることが何回かあった。だけど部下と上司の関係なだけに、プライベートで会うのは躊躇われ、誘われる度に冗談として受け流してきた。
「今回のお礼は、来週の食事会に付き合っていただくだけで十分です」
すかさずそう返されて、香奈恵は遠ざかっていく晶子の背中へ視線を向けた。
晶子も香奈恵同様、白のノーカラーのブラウスに黒のパンツスーツといったユニフォーム姿に身を包んでいる。それでも明るく染めた髪や、首筋を飾るスカーフの巻き方などで個性を主張する彼女には、人目を引く可愛らしさがあった。
それに比べて……と、香奈恵は壁に設置されている姿見に視線を向ける。身だしなみチェックのために設置されている鏡には、マニュアルどおりにユニフォームを着て、癖のないセミロングの髪をシニヨンにまとめた自分の姿があった。
鼻筋やくっきりとした二重の目が綺麗だと友達に褒められることはあるが、ブライダルスタッフとして無難なメイクを心がけているので特にそれを際立たせるようなことはしていない。
ついでに言うなら、感情表現が苦手なために表情筋が硬い。
同性の目から見ても、確実に可愛いのは晶子の方だ。
「恋人役、西村さんに頼めばよかったのに」
自分のように愛想のない人間に恋人役を頼むより、彼女の方が適任ではないだろうか。なにより晶子は、雅之に好意を持っているのだし。
「こちらにも相手を選ぶ権利があります。彼女にお願いすると、後々面倒そうですから」
「……確かに」
面倒くさそうにため息を吐く雅之の言葉に、香奈恵はそういう考え方もあるかと納得する。
上司と部下として一線を引いた付き合い方を心がける香奈恵とは違い、わかりやすく好意を寄せている晶子にそんなことを頼めば、そのままズルズルと交際を迫られそうではある。
「なんだかその台詞、すごくモテる男感が出てますね」
香奈恵のからかいの言葉に、雅之は気を悪くする様子もなく「失礼な」と笑う。
年齢差があり、立場としては上司と部下という逆転した関係ではあるが、人柄がそうさせるのか、彼といると時々こういうじゃれ合いのような会話を楽しんでしまう。
クスクス笑いながら事務所に戻るべく歩き出すと、香奈恵を探しにきただけの雅之も歩調を合わせてついてきた。
「そういえばチーフ、今回のバンドの件、私が手配したと部長に報告したんですね。黙っておけばいいのに」
隣を歩く雅之が思い出したように言うが、香奈恵はそんなわけにはいかないと首を横に振った。
「当然です。あれは堀江さんの人脈があってのことなんですから」
「でもお客様のためを思って、遅くまで頑張っていたのはチーフです」
香奈恵の言葉に、雅之が困ったように目尻に皺を寄せる。
そんな彼の表情を見て、香奈恵は深く息を吐いた。
雅之は頭の回転が早く機転も利くので、その瞬間、誰がなにを必要としているのかを察する能力に長けている。なので、部署を問わず頼りにされていた。
前職からそういう立ち位置にいたのか、雅之自身も、周囲を支えて人を立てることに慣れている様子で、その分自ら率先して前に出るといった意識に欠けているように思う。
名脇役、縁の下の力持ちといえば聞こえはいいが、香奈恵としては、彼のその性格がもどかしい。
「私はもっと堀江さんに本気になってほしいと思っています。誰かに遠慮することなく、もっと自分のために実力を発揮してほしいんです」
雅之は人を惹きつけ、相手の心を動かす不思議な魅力に溢れている。
晶子のような下心はないが、かくいう香奈恵も、彼の不思議な魅力に背中を押されてこれまで頑張ってこれたのだ。
香奈恵が任されているプチブライダルは、正直、業績が芳しいとは言えない。まだまだチーフとして未熟な香奈恵と、新人教育を兼ねて任されている晶子と、異業種から転職してきたばかりの雅之。そんな心許ないメンバーでもここまで頑張ってこれたのは、雅之のバックアップがあってこそだと思っている。
そのことへの感謝の意味も込めて、香奈恵としては、雅之にもっと前に出て正当な評価を受けてもらいたい。
もしかしたら、雅之には転職してきたばかりという遠慮があるのではないか。……そんな心配もあるので、香奈恵はことあるごとに雅之に前へ出るよう促していた。
「それ、チーフよく言いますよね。『上司だからって遠慮しないでください』『もっと本気でぶつかってきてください』って」
香奈恵の口調を真似る雅之の話し方に、こちらの思いは届いていないのだとがっかりする。
大人気ないとは思いつつ、つい唇を尖らせてしまった。そんな香奈恵に、雅之が挑発的な眼差しを向けてくる。
「それを言うなら、チーフはいつも一人で仕事を抱え込む性格を直してください。人に頼ることも覚えないと、いつか立ち行かなくなりますよ」
昨夜、まさに八方塞がりな状況に追い込まれているところを助けてもらっただけに、耳が痛い。
黙り込む香奈恵の姿に、雅之がため息を吐く。
「そこで黙るってことは、これからも一人で抱え込む気でいますね」
確かに自分の働き方はうまくないと思う。
でも、人に頼ることで相手に迷惑をかけてしまう方が嫌で、ついあれこれ抱え込んでしまうのだ。
とはいえ、曲がりなりにも上司として、そんな背中を部下に見せるのは良くないだろう。
「なるべく、気を付けます」
「そうですね。でないと、私に足を掬われますよ」
渋々といった感じで香奈恵が返すと、軽い口調で忠告される。
「はいはい」
雅之に足を掬われたところで大したことはない。
彼の忠告を軽く受け流しつつ従業員用の廊下を歩いていると、先の扉が開き、上質なスーツに身を包んだ長身の男性が姿を見せた。
見送りで付き添ってきたホテルスタッフと二言三言会話を交わしているのは、この弄月荘の総責任者である真嶋祐一グランドマネージャーだ。
グランドマネージャーというだけでも香奈恵にとっては雲の上の存在なのに、その上、彼はグローバルに観光事業やホテル経営を繰り広げるマシマホールディングスの御曹司なのだ。視界に入るだけでも、つい緊張で背筋が伸びる。
「真嶋マネージャーだ」
――イケメンや王子様という言葉は、彼のような人のためにあるのだろうな。
彼は、今はまだ弄月荘のグランドマネージャーに留まっているが、将来的にはマシマホールディングスを背負って立つのだ。
容姿といい社会的地位といい、晶子が望む結婚相手はきっと彼のような人だろう。
たださすがの晶子も、自社の御曹司にアプローチすることはしていないようだが。
「チーフは、ああいう顔が好みなんですか?」
その言葉にチラリと視線を上げると、雅之はひどく不満げな顔で「付き合うなら、ああいう男が理想ですか?」と付け足す。
「好みっていうか、イケメンを遠目に愛でるのは、普通の感覚でしょう」
別にお近付きになりたいとは思わないが、遠目に眺める分にはマネージャーのイケメンぶりは目の保養になる。
それなのに雅之は、なおも重ねて聞いてくる。
「マネージャーみたいな地位の人との結婚とか、どう思いますか?」
その問いかけに、香奈恵はふるふると首を横に振る。
「そんなのあり得ないでしょ」
お伽話や漫画じゃあるまいし、一般家庭で育った香奈恵が、容姿端麗でどこまでも完璧な御曹司と付き合えるなんて思うはずがなかった。
ましてやそんな人との結婚など、夢想するのもおこがましい。
香奈恵はくだらないと肩をすくめて、扉を閉めた祐一マネージャーに一礼して脇を通り過ぎようとした。だけどその時、祐一マネージャーが「あっ」と声を漏らして手を動かす。
視界の端で捉えた手の動きに反応して足を止めると、祐一マネージャーは、雅之から香奈恵へと視線を向けて口元を手で隠す。
長い指の隙間からチラリと見えた彼の唇は、何故か笑いを噛み殺しているように見えた。
その笑いはなにを意味しているのだろうかと、隣の雅之に視線を向けると、彼は涼しい顔をしている。
「お疲れ様」
口元から手を離して挨拶してくる祐一マネージャーは、綺麗に表情を取り繕っていて、優雅な王子様然としていた。
「真嶋グランドマネージャー、お疲れ様です」
一瞬見えた祐一マネージャーの表情が気になったけれど、掘り下げて質問するほどのことではない。
香奈恵が丁寧な所作で一礼すると、隣で雅之も頭を下げる。
自分たちとすれ違う際、祐一マネージャーが雅之の肩を軽く叩き、「昨日は休みなのに、呼び出して悪かったな。でも助かったよ」と声をかけていった。
――昨日?
昨日、休みなのにオフィスに顔を出した雅之は、忘れ物をしたのだと言っていた。でも今の言い方だと、雅之は祐一マネージャーに呼び出されたらしい。
「あの……」
再び歩き出しながら祐一マネージャーの言葉の意味を尋ねようとした時、その声に被せるように雅之が言う。
「さっきの話ですけど、そろそろ俺も本気を出そうと思います」
「え?」
「もっと本気になれって言ってくれたでしょ。自分に遠慮する必要はないって」
宣戦布告といった感じでニヤリと笑う雅之に驚いて、香奈恵は思わず息を呑んだ。
いつも他人をフォローすることに徹している雅之だが、もっと自分のために仕事をしてほしいとずっと思っていた。そうすることで、きっとこのチームはさらに良くなる。
それで互いの立場が入れ替わったとしても、香奈恵に不満はない。
「受けて立ちます」
オフィスに辿り着き、ドアノブに手を掛けながらそう返す。
上司として期待していますと、挑発的な眼差しを真っ向から受け止める。すると雅之が、ドアノブを掴む香奈恵の手に自分の手を重ねてきた。
思わず見上げた彼の瞳に、妖しげな光が揺れている。重ねられている手の温度に、昨夜の男の色気を纏った彼の姿を思い出して胸がざわついた。
雅之は戸惑いの色を浮かべた香奈恵の顔を真っ直ぐに見つめ、「その言葉、忘れないでくださいね」と不敵な笑みを見せた。そして満足そうに目を細めると、重ねている手に力を加えて扉を開く。
カチャリと金属が擦れ合う微かな音が、やけに耳についた。
「戻りました」
張りのある声でそう告げて重ねていた手を離した雅之は、人畜無害な表情で香奈恵のために扉を押さえてくれる。
いつもの彼らしい気配りに感謝を告げつつオフィスに入った香奈恵は、そのまま自分のデスクへ向かう。
続いて入ってきた雅之は、報告することがあったのか、部長のデスクに歩み寄ってなにか話し込んでいた。
遠目に見る彼は、相変わらず野暮ったい眼鏡がトレードマークのどこにでもいそうな男性社員だ。
それなのに、さっき扉を開けた瞬間、なんだか開けてはいけない扉を一緒に開けてしまったように感じるのは、気のせいだろうか……
受話器を取り上げてブランシェの多田に電話をかけつつ、香奈恵はそんなことを考えていた。
◇ ◇ ◇
雅之との約束の日。
彼の家族との食事会は、平日の午後六時からという一般的な会社勤めの場合だと、なかなか微妙な時間設定だった。
食事会には、彼の両親だけでなく、兄も出席するとのことだ。
わざわざ都合を合わせて家族が休みを調整したのだとしたら、顔を出すのが偽者の恋人というのは、本当に申し訳ない。
微妙に罪悪感を抱えつつ、香奈恵は店のショーウィンドウを鏡代わりにして前髪の乱れを整えた。
食事会の前に少し打ち合わせをしようと雅之に提案されたため、この近くのカフェで待ち合わせをしている。
ショーウィンドウに映る自分は、夏を意識した清涼感のある水色のワンピースに、アクセントとして白を基調としたシンプルなデザインのイヤリングを合わせている。
仕事中はきっちり結い上げている髪も、今日はポニーテールにして毛先を緩くカールさせ、メイクも明るめの色を選びいつもより華やかな印象を心がけた。
恋人の両親に挨拶をする――というコンセプトなので、過剰にかしこまることなく、かといって雅之の面子を潰すことのない、ほどよいお洒落を心がけたつもりである。
――でもこれ、逆に堀江さん的に気合入りすぎって思われないかな?
無難なファッションをセレクトできているとは思うが、恋愛経験がほとんどない香奈恵は、こういう場合の正解に自信が持てない。
香奈恵が無難と思っていても、雅之が恋人役に求める装いとしてはどうなのだろう。
プライベートな時間に顔を合わせるのが初めてなので、待ち合わせの時間が迫ってくるとあれこれ気になってくる。
――こんなことなら、昨日のうちに服装の要望を確認しておけばよかった。
あれこれ悩み、睨むようにウインドウを覗き込んでいると、肩をポンッと叩かれた。
「キャッ」
驚いて飛び跳ねるようにして体の向きを変えると、いつの間にか隣に立っていた見目麗しい男性が目尻に皺を寄せて緩く微笑んでいる。
――誰?
香奈恵は相手から距離を取りつつ、男性の全身に視線を走らせる。
背の高い男性で、すっきりとした鼻筋に、知性が漂う切れ長の目が印象的である。髪をオールバックで固め、フォーマルなスーツを洒落た感じに崩して着こなす姿はファッションモデルのようでブライダル用のフォトモデルを頼みたいくらいだ。
スーツのジャケットを片手にかけ、シャツを第二ボタンまで外し、袖も肘のあたりまで捲っているので、引き締まった体つきをしているのがわかる。
「えっと……」
――まさかとは思うけど……これって、ナンパ?
見知らぬイケメンに親しげに微笑みかけられる状況にそんな言葉が思い浮かぶが、それと同時に、こんなイケメンが自分をナンパするはずはないとも思う。
もしかしたら弄月荘の利用者か、仕事で会ったことのある人かもしれない。
営業用スマイルを浮かべつつ高速で記憶を辿ってみても、思い当たる人がいない。そもそも、これほど存在感のある色男、そうそう忘れるはずはないのだが。
困惑したまま相手の顔を見上げていると、ふと男性の唇の右下にあるホクロに目が留まる。
――唇下のホクロ、色っぽいな……
そこまで考えて、心に閃くものがあった。そんな香奈恵の表情を読み取ったように、相手が口を開く。
「女子っぽいお洒落をしているチーフって、新鮮ですね」
馴れ馴れしい口調で話しかけてくる男性を、香奈恵は呆然とした表情で眺めた。よく見たら、彼の左の首筋にも縦に二つのホクロがある。まさかという思いのまま震える指で相手の顔を指し、口を開いた。
「あな……た……堀っ……さ…………っ」
「恋人なら、今日はその呼び方はやめてくれ」
楽しげな口調で発せられる声は、聞き慣れた雅之のものだった。だけど目の前にいる男性と、香奈恵の知る雅之のイメージが結びつかない。
「今日は、俺のことは名前で呼んでよ。俺もそうするから」
雅之は、中途半端な位置で震えている香奈恵の指をそっと左手で包み、そのまま手を繋いだ。
そして、呆然とする香奈恵の手を引いて歩き出す。
「堀江さん、ですよね?」
思考の処理が追いつかず、手を引かれるまま歩く香奈恵は、恐る恐るといった口調で確認する。
すると雅之は、チラリと視線を向けて大袈裟にため息を吐く。
「他の誰だと?」
こちらに流し目を送ってくる彼は、ため息も含めてどこか芝居じみている。
穏やかでいて、どこか遊び心のある空気感は、間違いなく雅之なのだけど……
「だって、眼鏡してないし」
戸惑いが大きすぎて言い訳がましい口調でもごもごと話すと、雅之は軽快な笑いを零す。
「香奈恵さんにとって俺の印象って、眼鏡だけ?」
ひどいなぁと、非難するふうでもなく雅之が笑う。
「あと、唇の下と首筋にあるホクロ」
「ふぅん」
妙に鼻にかかる甘い声で雅之が首をかしげる。
耳に届いたその声に肌を撫でられたような錯覚に襲われ、思わず耳朶を強く揉んでしまう。
「それに耳の形……」
イヤリングが指先に触れるのを感じながら、そう付け足す。
「それ、俺が入ってすぐの頃にアドバイスしてもらった。女性の顔はメイクや髪型で印象が大きく変わるけど、耳の形は変わらない。だからお客様の顔を覚える時、顔と一緒に耳の形を記憶しておくといいって」
懐かしそうにそんなことを話す彼は、やはり雅之だった。
だけどこれは……どういうことなのだろう。
「堀江さん」
「ブランシェの多田さんからお電話がありました。この後はずっと事務所にいるので、都合のいい時間にお電話くださいとのことです」
ブランシェの多田とは、挙式でブライダルブーケの発注をかけているフラワーショップのオーナーである。
「ありがとう。あと、バンドのことも助かりました」
そう言って香奈恵は扉の方へ歩き出した。
「演奏、気に入ってもらえたようですね」
式場を出る瞬間、新郎新婦の姿を再度確認して香奈恵が頷く。
「うん。堀江さんのおかげで、すごく喜んでいただけているみたい」
香奈恵に続いて式場を出た雅之も、笑顔の新郎新婦に表情を綻ばせる。
二人の門出を祝福する柔らかな眼差しに心を和ませていると、扉を閉じた雅之の視線が自分に向く。突然真っ直ぐに見つめられて緊張し、その気まずさを誤魔化すべく話題を振った。
「堀江さんに、こんなすごいツテがあるなんて驚きました」
「親がそっち系に強い仕事をしているので」
雅之がそう返した時、一度閉めた扉が再び開き、バンケットスタッフが出入りする。通行の妨げにならないようにと、雅之は香奈恵に体を寄せて通路を空けた。
必要以上に体が密着しないように雅之の胸に手を添えて一定の距離を保った香奈恵は、昨日と似た距離で彼を見上げる。
今日は、式場スタッフらしくシャツのボタンを首元まできっちり留めてネクタイを締めているので、首筋のホクロを確認することはできない。
そんなことはないとわかっていても、つい昨日の彼は幻だったのではないかと疑ってしまう。
「次の仏滅、チーフは午後から休みですよね?」
「ええ。午前中にプチブライダルを利用するお客様の撮影に立ち会うだけだから」
久しぶりのプチブライダルの利用客に、気合が入る。
嬉しさから頬に小さなエクボを作る香奈恵に、雅之が小さく笑って言う。
「私も休みなので、その日の夕方に食事会の予定を入れてもいいですか?」
その言葉に、彼と交わした約束を思い出す。
約束を反故にするつもりはないけれど、明確な予定を告げられると、なんだか尻込みしてしまう。
そんな香奈恵の弱気を見透かしたように、微かに背を屈めた雅之が耳元で囁いてきた。
「逃がしませんよ」
「――っ!」
息が耳に触れるのを感じて、反射的に手で押さえて彼を見上げた。
「逃げません! その日で大丈夫です」
約束は必ず守りますと、真剣な眼差しを向ける。
眼鏡越しに視線を重ねると、雅之がそっと目を細めた。普段あまり意識することはないが、彼は知的な印象の綺麗な切れ長の目をしている。
そしてその瞳の奥に、普段の彼からは感じることのない野生的な光が揺れている気がして、香奈恵は後退りできないのを承知で背後の壁に背中を密着させた。
「……」
昨夜から、二人の間に流れる空気がいつもと微妙に違う。
それを息苦しく感じていると、突如、彼の背後から甘い声が聞こえてきた。
「あ、堀江さぁんっ」
語尾にハートマークでも付きそうな甘ったるい声と共に、晶子がひょっこりと顔を出した。
バンケットスタッフとして駆り出されている晶子が、空になったシャンパングラスを載せたトレイを両手で抱えたまま、雅之との距離を詰めてくる。
そんな彼女と距離を取るべく、雅之が立ち位置をずらした。自然と香奈恵との間にも距離ができて、二人の間に漂っていた密度の高い空気が霧散していく。
それにホッとする中、晶子が大袈裟に眉尻を下げて言う。
「今日のバンド、私のために堀江さんが手配してくれたんですよね」
「私のため」と強調して話す晶子は、その直後、「ごめんなさい」としおらしく肩を落とす。
そしてそのまま、自分は責任を感じていたのだけど、チーフである香奈恵から早く帰るように強く勧められたことで退社するしかなかった、そのせいで昨日はろくに眠れなかった、といったことを言い始める。
そしてその締めくくりとして、甘ったるい声で言った。
「このお礼に、今度食事をご馳走させてください。ちょうど友達に、素敵なイタリアンのお店を教えてもらったんです」
トレイを持っていなければ、ボディータッチをしながら話しかけそうな熱っぽさだ。
そんな晶子に、雅之はそつのない微笑みを添えて返す。
「私が手配できたのは、ただの偶然ですよ。忘れ物を取りにきた際、一人で対策を講じようとしていたチーフから話を聞かなければ、事情を知ることすらなかった。だからお礼は、チーフにしてください」
「チーフ、イタリアンは嫌いです」
雅之の言葉に晶子が即答した。
――いえいえ。イタリアン、好きですよ。
別に晶子にご馳走してもらうために頑張ったわけではないので、ツッコミは心の中に留めておく。
「とりあえず今は、バンケットスタッフの仕事を頑張って」
香奈恵の声なきツッコミが聞こえたわけではないだろうけど、雅之が苦笑を浮かべつつトレイを持つ晶子の肘に手を触れてそう急かす。
すると晶子は、可愛らしくチラリと舌を出してトレイを抱えて小走りにその場を離れていく。
意外と女性のあしらいがうまいなぁと、二人のやり取りを見て感心していると、雅之がからかうような口調で聞いてくる。
「イタリアン、ご馳走しましょうか?」
「この場合、ご馳走するのは、私の方でしょ」
「残念ながら、女性に奢ってもらう習慣はないので。だから私がご馳走しますよ」
雅之は軽く肩をすくめる。そして「西村さんより、いい店を知ってますよ」と、茶目っ気たっぷりに付け足してくるので、香奈恵も肩をすくめた。
「部下に奢らせるわけにはいきませんから」
香奈恵の言葉に、雅之がやれやれといった感じで息を吐く。
これまでの雑談でも、会話の流れでプライベートな時間に食事でも行こうかといったノリになることが何回かあった。だけど部下と上司の関係なだけに、プライベートで会うのは躊躇われ、誘われる度に冗談として受け流してきた。
「今回のお礼は、来週の食事会に付き合っていただくだけで十分です」
すかさずそう返されて、香奈恵は遠ざかっていく晶子の背中へ視線を向けた。
晶子も香奈恵同様、白のノーカラーのブラウスに黒のパンツスーツといったユニフォーム姿に身を包んでいる。それでも明るく染めた髪や、首筋を飾るスカーフの巻き方などで個性を主張する彼女には、人目を引く可愛らしさがあった。
それに比べて……と、香奈恵は壁に設置されている姿見に視線を向ける。身だしなみチェックのために設置されている鏡には、マニュアルどおりにユニフォームを着て、癖のないセミロングの髪をシニヨンにまとめた自分の姿があった。
鼻筋やくっきりとした二重の目が綺麗だと友達に褒められることはあるが、ブライダルスタッフとして無難なメイクを心がけているので特にそれを際立たせるようなことはしていない。
ついでに言うなら、感情表現が苦手なために表情筋が硬い。
同性の目から見ても、確実に可愛いのは晶子の方だ。
「恋人役、西村さんに頼めばよかったのに」
自分のように愛想のない人間に恋人役を頼むより、彼女の方が適任ではないだろうか。なにより晶子は、雅之に好意を持っているのだし。
「こちらにも相手を選ぶ権利があります。彼女にお願いすると、後々面倒そうですから」
「……確かに」
面倒くさそうにため息を吐く雅之の言葉に、香奈恵はそういう考え方もあるかと納得する。
上司と部下として一線を引いた付き合い方を心がける香奈恵とは違い、わかりやすく好意を寄せている晶子にそんなことを頼めば、そのままズルズルと交際を迫られそうではある。
「なんだかその台詞、すごくモテる男感が出てますね」
香奈恵のからかいの言葉に、雅之は気を悪くする様子もなく「失礼な」と笑う。
年齢差があり、立場としては上司と部下という逆転した関係ではあるが、人柄がそうさせるのか、彼といると時々こういうじゃれ合いのような会話を楽しんでしまう。
クスクス笑いながら事務所に戻るべく歩き出すと、香奈恵を探しにきただけの雅之も歩調を合わせてついてきた。
「そういえばチーフ、今回のバンドの件、私が手配したと部長に報告したんですね。黙っておけばいいのに」
隣を歩く雅之が思い出したように言うが、香奈恵はそんなわけにはいかないと首を横に振った。
「当然です。あれは堀江さんの人脈があってのことなんですから」
「でもお客様のためを思って、遅くまで頑張っていたのはチーフです」
香奈恵の言葉に、雅之が困ったように目尻に皺を寄せる。
そんな彼の表情を見て、香奈恵は深く息を吐いた。
雅之は頭の回転が早く機転も利くので、その瞬間、誰がなにを必要としているのかを察する能力に長けている。なので、部署を問わず頼りにされていた。
前職からそういう立ち位置にいたのか、雅之自身も、周囲を支えて人を立てることに慣れている様子で、その分自ら率先して前に出るといった意識に欠けているように思う。
名脇役、縁の下の力持ちといえば聞こえはいいが、香奈恵としては、彼のその性格がもどかしい。
「私はもっと堀江さんに本気になってほしいと思っています。誰かに遠慮することなく、もっと自分のために実力を発揮してほしいんです」
雅之は人を惹きつけ、相手の心を動かす不思議な魅力に溢れている。
晶子のような下心はないが、かくいう香奈恵も、彼の不思議な魅力に背中を押されてこれまで頑張ってこれたのだ。
香奈恵が任されているプチブライダルは、正直、業績が芳しいとは言えない。まだまだチーフとして未熟な香奈恵と、新人教育を兼ねて任されている晶子と、異業種から転職してきたばかりの雅之。そんな心許ないメンバーでもここまで頑張ってこれたのは、雅之のバックアップがあってこそだと思っている。
そのことへの感謝の意味も込めて、香奈恵としては、雅之にもっと前に出て正当な評価を受けてもらいたい。
もしかしたら、雅之には転職してきたばかりという遠慮があるのではないか。……そんな心配もあるので、香奈恵はことあるごとに雅之に前へ出るよう促していた。
「それ、チーフよく言いますよね。『上司だからって遠慮しないでください』『もっと本気でぶつかってきてください』って」
香奈恵の口調を真似る雅之の話し方に、こちらの思いは届いていないのだとがっかりする。
大人気ないとは思いつつ、つい唇を尖らせてしまった。そんな香奈恵に、雅之が挑発的な眼差しを向けてくる。
「それを言うなら、チーフはいつも一人で仕事を抱え込む性格を直してください。人に頼ることも覚えないと、いつか立ち行かなくなりますよ」
昨夜、まさに八方塞がりな状況に追い込まれているところを助けてもらっただけに、耳が痛い。
黙り込む香奈恵の姿に、雅之がため息を吐く。
「そこで黙るってことは、これからも一人で抱え込む気でいますね」
確かに自分の働き方はうまくないと思う。
でも、人に頼ることで相手に迷惑をかけてしまう方が嫌で、ついあれこれ抱え込んでしまうのだ。
とはいえ、曲がりなりにも上司として、そんな背中を部下に見せるのは良くないだろう。
「なるべく、気を付けます」
「そうですね。でないと、私に足を掬われますよ」
渋々といった感じで香奈恵が返すと、軽い口調で忠告される。
「はいはい」
雅之に足を掬われたところで大したことはない。
彼の忠告を軽く受け流しつつ従業員用の廊下を歩いていると、先の扉が開き、上質なスーツに身を包んだ長身の男性が姿を見せた。
見送りで付き添ってきたホテルスタッフと二言三言会話を交わしているのは、この弄月荘の総責任者である真嶋祐一グランドマネージャーだ。
グランドマネージャーというだけでも香奈恵にとっては雲の上の存在なのに、その上、彼はグローバルに観光事業やホテル経営を繰り広げるマシマホールディングスの御曹司なのだ。視界に入るだけでも、つい緊張で背筋が伸びる。
「真嶋マネージャーだ」
――イケメンや王子様という言葉は、彼のような人のためにあるのだろうな。
彼は、今はまだ弄月荘のグランドマネージャーに留まっているが、将来的にはマシマホールディングスを背負って立つのだ。
容姿といい社会的地位といい、晶子が望む結婚相手はきっと彼のような人だろう。
たださすがの晶子も、自社の御曹司にアプローチすることはしていないようだが。
「チーフは、ああいう顔が好みなんですか?」
その言葉にチラリと視線を上げると、雅之はひどく不満げな顔で「付き合うなら、ああいう男が理想ですか?」と付け足す。
「好みっていうか、イケメンを遠目に愛でるのは、普通の感覚でしょう」
別にお近付きになりたいとは思わないが、遠目に眺める分にはマネージャーのイケメンぶりは目の保養になる。
それなのに雅之は、なおも重ねて聞いてくる。
「マネージャーみたいな地位の人との結婚とか、どう思いますか?」
その問いかけに、香奈恵はふるふると首を横に振る。
「そんなのあり得ないでしょ」
お伽話や漫画じゃあるまいし、一般家庭で育った香奈恵が、容姿端麗でどこまでも完璧な御曹司と付き合えるなんて思うはずがなかった。
ましてやそんな人との結婚など、夢想するのもおこがましい。
香奈恵はくだらないと肩をすくめて、扉を閉めた祐一マネージャーに一礼して脇を通り過ぎようとした。だけどその時、祐一マネージャーが「あっ」と声を漏らして手を動かす。
視界の端で捉えた手の動きに反応して足を止めると、祐一マネージャーは、雅之から香奈恵へと視線を向けて口元を手で隠す。
長い指の隙間からチラリと見えた彼の唇は、何故か笑いを噛み殺しているように見えた。
その笑いはなにを意味しているのだろうかと、隣の雅之に視線を向けると、彼は涼しい顔をしている。
「お疲れ様」
口元から手を離して挨拶してくる祐一マネージャーは、綺麗に表情を取り繕っていて、優雅な王子様然としていた。
「真嶋グランドマネージャー、お疲れ様です」
一瞬見えた祐一マネージャーの表情が気になったけれど、掘り下げて質問するほどのことではない。
香奈恵が丁寧な所作で一礼すると、隣で雅之も頭を下げる。
自分たちとすれ違う際、祐一マネージャーが雅之の肩を軽く叩き、「昨日は休みなのに、呼び出して悪かったな。でも助かったよ」と声をかけていった。
――昨日?
昨日、休みなのにオフィスに顔を出した雅之は、忘れ物をしたのだと言っていた。でも今の言い方だと、雅之は祐一マネージャーに呼び出されたらしい。
「あの……」
再び歩き出しながら祐一マネージャーの言葉の意味を尋ねようとした時、その声に被せるように雅之が言う。
「さっきの話ですけど、そろそろ俺も本気を出そうと思います」
「え?」
「もっと本気になれって言ってくれたでしょ。自分に遠慮する必要はないって」
宣戦布告といった感じでニヤリと笑う雅之に驚いて、香奈恵は思わず息を呑んだ。
いつも他人をフォローすることに徹している雅之だが、もっと自分のために仕事をしてほしいとずっと思っていた。そうすることで、きっとこのチームはさらに良くなる。
それで互いの立場が入れ替わったとしても、香奈恵に不満はない。
「受けて立ちます」
オフィスに辿り着き、ドアノブに手を掛けながらそう返す。
上司として期待していますと、挑発的な眼差しを真っ向から受け止める。すると雅之が、ドアノブを掴む香奈恵の手に自分の手を重ねてきた。
思わず見上げた彼の瞳に、妖しげな光が揺れている。重ねられている手の温度に、昨夜の男の色気を纏った彼の姿を思い出して胸がざわついた。
雅之は戸惑いの色を浮かべた香奈恵の顔を真っ直ぐに見つめ、「その言葉、忘れないでくださいね」と不敵な笑みを見せた。そして満足そうに目を細めると、重ねている手に力を加えて扉を開く。
カチャリと金属が擦れ合う微かな音が、やけに耳についた。
「戻りました」
張りのある声でそう告げて重ねていた手を離した雅之は、人畜無害な表情で香奈恵のために扉を押さえてくれる。
いつもの彼らしい気配りに感謝を告げつつオフィスに入った香奈恵は、そのまま自分のデスクへ向かう。
続いて入ってきた雅之は、報告することがあったのか、部長のデスクに歩み寄ってなにか話し込んでいた。
遠目に見る彼は、相変わらず野暮ったい眼鏡がトレードマークのどこにでもいそうな男性社員だ。
それなのに、さっき扉を開けた瞬間、なんだか開けてはいけない扉を一緒に開けてしまったように感じるのは、気のせいだろうか……
受話器を取り上げてブランシェの多田に電話をかけつつ、香奈恵はそんなことを考えていた。
◇ ◇ ◇
雅之との約束の日。
彼の家族との食事会は、平日の午後六時からという一般的な会社勤めの場合だと、なかなか微妙な時間設定だった。
食事会には、彼の両親だけでなく、兄も出席するとのことだ。
わざわざ都合を合わせて家族が休みを調整したのだとしたら、顔を出すのが偽者の恋人というのは、本当に申し訳ない。
微妙に罪悪感を抱えつつ、香奈恵は店のショーウィンドウを鏡代わりにして前髪の乱れを整えた。
食事会の前に少し打ち合わせをしようと雅之に提案されたため、この近くのカフェで待ち合わせをしている。
ショーウィンドウに映る自分は、夏を意識した清涼感のある水色のワンピースに、アクセントとして白を基調としたシンプルなデザインのイヤリングを合わせている。
仕事中はきっちり結い上げている髪も、今日はポニーテールにして毛先を緩くカールさせ、メイクも明るめの色を選びいつもより華やかな印象を心がけた。
恋人の両親に挨拶をする――というコンセプトなので、過剰にかしこまることなく、かといって雅之の面子を潰すことのない、ほどよいお洒落を心がけたつもりである。
――でもこれ、逆に堀江さん的に気合入りすぎって思われないかな?
無難なファッションをセレクトできているとは思うが、恋愛経験がほとんどない香奈恵は、こういう場合の正解に自信が持てない。
香奈恵が無難と思っていても、雅之が恋人役に求める装いとしてはどうなのだろう。
プライベートな時間に顔を合わせるのが初めてなので、待ち合わせの時間が迫ってくるとあれこれ気になってくる。
――こんなことなら、昨日のうちに服装の要望を確認しておけばよかった。
あれこれ悩み、睨むようにウインドウを覗き込んでいると、肩をポンッと叩かれた。
「キャッ」
驚いて飛び跳ねるようにして体の向きを変えると、いつの間にか隣に立っていた見目麗しい男性が目尻に皺を寄せて緩く微笑んでいる。
――誰?
香奈恵は相手から距離を取りつつ、男性の全身に視線を走らせる。
背の高い男性で、すっきりとした鼻筋に、知性が漂う切れ長の目が印象的である。髪をオールバックで固め、フォーマルなスーツを洒落た感じに崩して着こなす姿はファッションモデルのようでブライダル用のフォトモデルを頼みたいくらいだ。
スーツのジャケットを片手にかけ、シャツを第二ボタンまで外し、袖も肘のあたりまで捲っているので、引き締まった体つきをしているのがわかる。
「えっと……」
――まさかとは思うけど……これって、ナンパ?
見知らぬイケメンに親しげに微笑みかけられる状況にそんな言葉が思い浮かぶが、それと同時に、こんなイケメンが自分をナンパするはずはないとも思う。
もしかしたら弄月荘の利用者か、仕事で会ったことのある人かもしれない。
営業用スマイルを浮かべつつ高速で記憶を辿ってみても、思い当たる人がいない。そもそも、これほど存在感のある色男、そうそう忘れるはずはないのだが。
困惑したまま相手の顔を見上げていると、ふと男性の唇の右下にあるホクロに目が留まる。
――唇下のホクロ、色っぽいな……
そこまで考えて、心に閃くものがあった。そんな香奈恵の表情を読み取ったように、相手が口を開く。
「女子っぽいお洒落をしているチーフって、新鮮ですね」
馴れ馴れしい口調で話しかけてくる男性を、香奈恵は呆然とした表情で眺めた。よく見たら、彼の左の首筋にも縦に二つのホクロがある。まさかという思いのまま震える指で相手の顔を指し、口を開いた。
「あな……た……堀っ……さ…………っ」
「恋人なら、今日はその呼び方はやめてくれ」
楽しげな口調で発せられる声は、聞き慣れた雅之のものだった。だけど目の前にいる男性と、香奈恵の知る雅之のイメージが結びつかない。
「今日は、俺のことは名前で呼んでよ。俺もそうするから」
雅之は、中途半端な位置で震えている香奈恵の指をそっと左手で包み、そのまま手を繋いだ。
そして、呆然とする香奈恵の手を引いて歩き出す。
「堀江さん、ですよね?」
思考の処理が追いつかず、手を引かれるまま歩く香奈恵は、恐る恐るといった口調で確認する。
すると雅之は、チラリと視線を向けて大袈裟にため息を吐く。
「他の誰だと?」
こちらに流し目を送ってくる彼は、ため息も含めてどこか芝居じみている。
穏やかでいて、どこか遊び心のある空気感は、間違いなく雅之なのだけど……
「だって、眼鏡してないし」
戸惑いが大きすぎて言い訳がましい口調でもごもごと話すと、雅之は軽快な笑いを零す。
「香奈恵さんにとって俺の印象って、眼鏡だけ?」
ひどいなぁと、非難するふうでもなく雅之が笑う。
「あと、唇の下と首筋にあるホクロ」
「ふぅん」
妙に鼻にかかる甘い声で雅之が首をかしげる。
耳に届いたその声に肌を撫でられたような錯覚に襲われ、思わず耳朶を強く揉んでしまう。
「それに耳の形……」
イヤリングが指先に触れるのを感じながら、そう付け足す。
「それ、俺が入ってすぐの頃にアドバイスしてもらった。女性の顔はメイクや髪型で印象が大きく変わるけど、耳の形は変わらない。だからお客様の顔を覚える時、顔と一緒に耳の形を記憶しておくといいって」
懐かしそうにそんなことを話す彼は、やはり雅之だった。
だけどこれは……どういうことなのだろう。
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