いちつくるひと

白木 黒

文字の大きさ
上 下
5 / 5
一章

4 落下、紛失、喪失

しおりを挟む



ほんとうに、前触れのない、突然の出来事だった。
シャープペンシルの芯が折れる時ほどの衝撃もなく、静かに、ともすれば気づかないうちに、私は名前を紛失した。



テスト開始、の声を聞き、薄い液晶に電子ペンの先をつけたとき。

「え」

そのつぶやきは胸の深くからこぼれ、口の中で微かな声となり、私の脳にある事実を投げ入れた。
唐突に。

(名前が、わからない?)
 
コツコツと、表示された記名欄をペン先で叩く。焦り、困惑、苛立ち。

(そんなばかな。忘れるなんて、あるわけがない)

友人の名前をいくつか思い浮かべる。
ひとり、ふたり、…

問題ない。では、私の名前は。

わからない。

混乱をそのままに、名前の欄はとばして生徒番号を記入する。

もう一度、名前を思い出そうと試みる。
あ、い、う、…50音をたどる。はじめの文字がつかめればわかるかもしれない。

ひとつも気になる文字がないまま終わり、さらに焦る。
二文字?三文字?
それすらもわからない。

わからない。

(ひとまず、)

目を閉じ、1つ深呼吸をする。
ふと、こめかみを伝う冷や汗に気づく。

(切り替えよう。試験を終えよう)




提出、という表示にペン先で触れ、受領の知らせを待つ。

前方の教壇で教員用のパネルを操作していた教授が、不意に顔を上げ私の目を見た。
記名欄の空白に気がついたのだろう。

私のパネルにメッセージが表示された。

【記名をしていないのはなぜですか】

なぜ、という質問に少し安心した。

(このおかしな出来事も、理由をもちうるのか)



試験は最終時限だった。
私は生徒が全員立ち去るまで席を動かなかった。
教授も、時折パネルを操作する以外は何もせず、退出する生徒達をただぼんやりと目で追っていた。

最後の一人が教室を出たあと、教授は徐に私を見た。
若い教授だった。生徒に混じって授業を受けていても疑問に思う人はほとんどいないだろうというほど、若く見えた。ただ少し気怠げな、生きて動くのに飽きてしまったというような、力を抜いた挙動が彼の表面にいくらかの年齢を貼り付けていた。これまでに、彼の授業を受けたことはなかった。



【名前を忘れてしまって思い出せません】

教授からの問いに対し、私はただ素直に、そう返信した。

【わかりました。試験終了後に話を伺うので少し残ってください】



教授は教室の入り口で待っていてくれた。私が教室を出ると照明を消し、施錠した。
廊下の高い所にある窓から差し込む月光と、壁の橙色の照明が夜の上澄みばかりを温めていた。

「では、名前を忘れてしまうまでの、経緯いきさつを話してください」

廊下の長椅子に腰掛け、教授はそう言った。
私は一人分の空白の隣に座った。

「なぜ、疑わないのですか」

思わず言ってから、これでは疑われたいみたいだと思った。

「疑うことに意味はないですから」

彼はただそう答えた。私はいくつかの意味を想像し始めて、やめた。

「…昨日までは、覚えていたはずです。昨日も記名する場面がありました。今朝から…今にかけてだと思います。特段変わった出来事はありません。ただ、先ほど思い出そうとしたら…思い出せなかった。自分でも、驚いています」

特別な出来事にしたくなかった。

「でも、よくあることなのかもしれません、明日には元に戻っているかも」

根拠もなく、なるべく大したことのない事に聞こえるように軽い調子を意識した。悲劇を好む子供のようには、絶対に見られたくなかった。

「そうですね、でも、あまり聞いたことはないですね、自分の名前を、なんの前触れもなく忘れるなんて」

教授は柔らかい調子で、言外に落ち着きなさいと肩を叩くように私に言った。

「明日、医務室の精神科の先生のところを訪ねてみないか。もちろん、気負わず、何かヒントが見つかるといいなというような軽い体でよいから」

真っ当な意見だけれど、行きたくないと思ってしまう。医務室でなんて伝える?信じてもらえる?…本質的ではないとわかっているが、億劫だという気持ちが重く居座っていて退いてくれそうにない。

「授業は」

教授は全て分かった上で、変わらず柔らかいように見えた。

「何限が最後?良ければ僕も行くよ、状態の説明に言葉を添えるくらいはできる」
「4限です」
「わかった、5限は空いているから、では、4限直後に時計塔の前で会おう」
「…ありがとうございます」

わたしは深く頭を下げた。







しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

みんなの感想(1件)

2018.05.05 ユーザー名の登録がありません

退会済ユーザのコメントです

白木 黒
2018.05.06 白木 黒

感想ありがとうございます。
焦らず頑張らせていただこうと思います。
これからの作品も読んでいただけると幸いです。

作品拝見しました。長い作品を作り込まれていて、とても尊敬します。励みにして頑張ります!ユエルメルシリーズ、応援させていただきます。


解除

あなたにおすすめの小説

《勘違い》で婚約破棄された令嬢は失意のうちに自殺しました。

友坂 悠
ファンタジー
「婚約を考え直そう」 貴族院の卒業パーティーの会場で、婚約者フリードよりそう告げられたエルザ。 「それは、婚約を破棄されるとそういうことなのでしょうか?」 耳を疑いそう聞き返すも、 「君も、その方が良いのだろう?」 苦虫を噛み潰すように、そう吐き出すフリードに。 全てに絶望し、失意のうちに自死を選ぶエルザ。 絶景と評判の観光地でありながら、自殺の名所としても知られる断崖絶壁から飛び降りた彼女。 だったのですが。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

王子は婚約破棄をし、令嬢は自害したそうです。

七辻ゆゆ
ファンタジー
「アリシア・レッドライア! おまえとの婚約を破棄する!」 公爵令嬢アリシアは王子の言葉に微笑んだ。「殿下、美しい夢をありがとうございました」そして己の胸にナイフを突き立てた。 血に染まったパーティ会場は、王子にとって一生忘れられない景色となった。冤罪によって婚約者を自害させた愚王として生きていくことになる。

【完結】私だけが知らない

綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

あなただけが私を信じてくれたから

樹里
恋愛
王太子殿下の婚約者であるアリシア・トラヴィス侯爵令嬢は、茶会において王女殺害を企てたとして冤罪で投獄される。それは王太子殿下と恋仲であるアリシアの妹が彼女を排除するために計画した犯行だと思われた。 一方、自分を信じてくれるシメオン・バーナード卿の調査の甲斐もなく、アリシアは結局そのまま断罪されてしまう。 しかし彼女が次に目を覚ますと、茶会の日に戻っていた。その日を境に、冤罪をかけられ、断罪されるたびに茶会前に回帰するようになってしまった。 処刑を免れようとそのたびに違った行動を起こしてきたアリシアが、最後に下した決断は。

十三回目の人生でようやく自分が悪役令嬢ポジと気づいたので、もう殿下の邪魔はしませんから構わないで下さい!

翠玉 結
恋愛
公爵令嬢である私、エリーザは挙式前夜の式典で命を落とした。 「貴様とは、婚約破棄する」と残酷な事を突きつける婚約者、王太子殿下クラウド様の手によって。 そしてそれが一度ではなく、何度も繰り返していることに気が付いたのは〖十三回目〗の人生。 死んだ理由…それは、毎回悪役令嬢というポジションで立ち振る舞い、殿下の恋路を邪魔していたいたからだった。 どう頑張ろうと、殿下からの愛を受け取ることなく死ぬ。 その結末をが分かっているならもう二度と同じ過ちは繰り返さない! そして死なない!! そう思って殿下と関わらないようにしていたのに、 何故か前の記憶とは違って、まさかのご執心で溺愛ルートまっしぐらで?! 「殿下!私、死にたくありません!」 ✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼ ※他サイトより転載した作品です。

【本編完結】さようなら、そしてどうかお幸せに ~彼女の選んだ決断

Hinaki
ファンタジー
16歳の侯爵令嬢エルネスティーネには結婚目前に控えた婚約者がいる。 23歳の公爵家当主ジークヴァルト。 年上の婚約者には気付けば幼いエルネスティーネよりも年齢も近く、彼女よりも女性らしい色香を纏った女友達が常にジークヴァルトの傍にいた。 ただの女友達だと彼は言う。 だが偶然エルネスティーネは知ってしまった。 彼らが友人ではなく想い合う関係である事を……。 また政略目的で結ばれたエルネスティーネを疎ましく思っていると、ジークヴァルトは恋人へ告げていた。 エルネスティーネとジークヴァルトの婚姻は王命。 覆す事は出来ない。 溝が深まりつつも結婚二日前に侯爵邸へ呼び出されたエルネスティーネ。 そこで彼女は彼の私室……寝室より聞こえてくるのは悍ましい獣にも似た二人の声。 二人がいた場所は二日後には夫婦となるであろうエルネスティーネとジークヴァルトの為の寝室。 これ見よがしに少し開け放たれた扉より垣間見える寝台で絡み合う二人の姿と勝ち誇る彼女の艶笑。 エルネスティーネは限界だった。 一晩悩んだ結果彼女の選んだ道は翌日愛するジークヴァルトへ晴れやかな笑顔で挨拶すると共にバルコニーより身を投げる事。 初めて愛した男を憎らしく思う以上に彼を心から愛していた。 だから愛する男の前で死を選ぶ。 永遠に私を忘れないで、でも愛する貴方には幸せになって欲しい。 矛盾した想いを抱え彼女は今――――。 長い間スランプ状態でしたが自分の中の性と生、人間と神、ずっと前からもやもやしていたものが一応の答えを導き出し、この物語を始める事にしました。 センシティブな所へ触れるかもしれません。 これはあくまで私の考え、思想なのでそこの所はどうかご容赦して下さいませ。

私はお母様の奴隷じゃありません。「出てけ」とおっしゃるなら、望み通り出ていきます【完結】

小平ニコ
ファンタジー
主人公レベッカは、幼いころから母親に冷たく当たられ、家庭内の雑務を全て押し付けられてきた。 他の姉妹たちとは明らかに違う、奴隷のような扱いを受けても、いつか母親が自分を愛してくれると信じ、出来得る限りの努力を続けてきたレベッカだったが、16歳の誕生日に突然、公爵の館に奉公に行けと命じられる。 それは『家を出て行け』と言われているのと同じであり、レベッカはショックを受ける。しかし、奉公先の人々は皆優しく、主であるハーヴィン公爵はとても美しい人で、レベッカは彼にとても気に入られる。 友達もでき、忙しいながらも幸せな毎日を送るレベッカ。そんなある日のこと、妹のキャリーがいきなり公爵の館を訪れた。……キャリーは、レベッカに支払われた給料を回収しに来たのだ。 レベッカは、金銭に対する執着などなかったが、あまりにも身勝手で悪辣なキャリーに怒り、彼女を追い返す。それをきっかけに、公爵家の人々も巻き込む形で、レベッカと実家の姉妹たちは争うことになる。 そして、姉妹たちがそれぞれ悪行の報いを受けた後。 レベッカはとうとう、母親と直接対峙するのだった……

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。