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遠き日々
【24】忠誠の証(2)
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人の話をどう聞いていたのかと、世良は思わず引きつった笑みが浮かぶ。
「そうですね。私もいい加減、自由がほしいです」
世良が最後に『稀霤』として接してしまっていたのが紗如だ。その言動は、決して日頃の彼ではなかったのだが、紗如と会うと世良は『稀霤』としての想いが込み上げてしまう。
やはり、できればもう二度と会いたくない。
紗如は呆然と世良を見ていたのに、無言でうつむいてしまった。まるで、世良の心情がもれたかのように。
紗如は悲しそうな瞳を見せないようにと、顔を伏せているようにも感じる。
あんなに我が儘な姫が──と、世良は紗如から視線を逸らせなくなる。
「呼ばれれば、いつでも伺います」
できればもう二度と会いたくはないのだ。
それなのに。
余計な言葉を言うつもりはなかった。
しかし、何も言わずに部屋をあとにすることが、できなかった。
世良は我に返り、足早に部屋を出て行く。
このまま長居をしてしまえば、不必要に冷たくしてしまうと感じて。漠然とした苛立ちを抱えながら。
翌朝、世良は想定していたように剣士たちから闘技を申し込まれる。引き受け、開始するも世良は自身の剣の流れを封印すると誓い、挑んだ。
涼舞城出身の者の構えは独特で城の名に由来する通り、舞のように剣を操る。代々伯父や兄たちを見ている剣士たちが目の当たりにすれば、身元が明るみになるだろう。それは、避けなければならない。
とはいえ、伯父と兄が統括してきただけのことはある。精鋭部隊で、さすがの世良も骨が折れる。
だが、根は上げられない。初日の数時間で疲労の色を見せては統括などできない。相手をする者の剣筋のみならず、意識を多岐に巡らせ勝利を積み重ねる。
昼食を前にして解散を宣言すると、剣士たちは一様に世良に礼をした。
出身を隠さねばと必死だった世良に安堵が沸く。誰も、世良を涼舞城の者とは疑わなかったらしい。
世良も一礼し、今度は大臣の職務へと向かう。
鴻嫗城が涼舞城との縁がなくなったと昨日の騒動で周知となったが、伯父は一命を取り留め、生家に戻ったと皆は思っているようだった。
伯父が一命を取り留めたとしても、誰も咎めはしなかっただろう。
世良の心に影が落ちる。
伯父の姿を、城内の者は見てきている。伯父は長年、鴻嫗城に仕えてきた。恐らく、皆がその背を追い、見習うほどに。
先日行われた密葬を知る一部の者たちは、血を流す紗如を抱えてきた不審人物の密葬だと勘違いしたのかもしれない。伯父の大怪我もそのせいだと。
いくら医師が不審人物のことを『姫の恩人だ』と言ったところで、疑いの眼差しを向ける者は残る。
鴻嫗城にいると決めた時点で、別人になれたことは幸いだった。
大臣の部屋に入り、扉を閉め、重い一息を吐く。思いがけず、疲労感がどっと押し寄せる。ぐったりとその場に沈む。
王位を継いでから、事務職に追われていたのが仇となった。それに加え、毎日の鍛錬を怠らない剣士たちとの数時間の闘技。更には、手慣れを封印した剣術など、思い返せば正気の沙汰ではなかったのだ。
けれど、このまま睡魔に連れて行かれるわけにはいかない。
昼食で一息つくとして、留妃姫から多少なりとも引継ぎを受けなければならない。
何とか立ち上がり、背伸びをする。
クリーム色の壁を見渡し、窓から見える景色に一時心奪われる。胸元から一mほどの高さの窓。ガラスの向こうには色とりどりの花々を、太陽が燦燦と照らしている。
美しさに窓辺へ近づき、僅かに開いている臙脂のカーテンを開ける。
昨日、留妃姫に案内されたとき、部屋に入る前に見えた景色の続きだ。
鴻嫗城の大臣は、護衛の世代交代が行われ、先代の護衛だった者が就くことが多かった。この憩いの場を眺める特権を与えられるのは、何という労いか。
この眺めは、中庭だ。鴻嫗城の身内しか立ち入らない、特別な場。一生を捧げた者に対し、守り続けた者たちを人知れずそっと見守れる場所だと気づき、世良はいつの間にか涙をあふれさせていた。
休憩の時間が終わりに迫り、世良は我に返る。なぜ、泣いていたのか、と。
名を捨てても、記憶や経験は、かんたんに捨てられるものではないと痛感する。別人となって生きると決めたのに、兄や伯父の軌跡に触れれば感傷に浸ってしまう。
──しっかりしなければ。
世良は顔を洗い、うっすらと残るリラの色見を、恨めしそうに眺める。色を変えるのに、手間が少ない色を選んでしまったが、まったく異なる色彩を選べばよかったと後悔が浮かぶ。
扉の叩く音がした。
留妃姫だろうと、世良は慌てて顔を拭き、扉を開ける。
「はやかったかしら?」
気遣う留妃姫に敬意を払い、室内へ向かえる。軽く会話をし、引継ぎは開始された。
時は慌ただしく流れて行き、何日が経ったか。
世良は名目ともに鴻嫗城で剣士の指揮官となっていた。だが、大臣職を兼任しているとも周知されてきたからか、剣士たち以外は『大臣』と呼ぶ者が多くなった。
『世良』と呼ばれるよりも別人になったと感じられ、鬱蒼とした気分が晴れる。
多忙であるが、剣士を希望したのは世良本人。大臣の職を任命してくれた留妃姫には、更に頭の下がる思いだ。
そんな、ある日のこと。
夕食を終えた世良が自室へ向かう途中、下品な笑い声に耳を取られた。注視すると、料理人の男が噂話だと付け加えながら、使用人の女を引き止め話している。その内容は、兄と紗如のことだった。
立ち聞きする気はなかったが、つい、耳を取られた。そうしているうちに身が固まり、世良は一部始終を聞いてしまっていた。
身動きが取れるようになり、世良はようやく歩き始める。
「そうですね。私もいい加減、自由がほしいです」
世良が最後に『稀霤』として接してしまっていたのが紗如だ。その言動は、決して日頃の彼ではなかったのだが、紗如と会うと世良は『稀霤』としての想いが込み上げてしまう。
やはり、できればもう二度と会いたくない。
紗如は呆然と世良を見ていたのに、無言でうつむいてしまった。まるで、世良の心情がもれたかのように。
紗如は悲しそうな瞳を見せないようにと、顔を伏せているようにも感じる。
あんなに我が儘な姫が──と、世良は紗如から視線を逸らせなくなる。
「呼ばれれば、いつでも伺います」
できればもう二度と会いたくはないのだ。
それなのに。
余計な言葉を言うつもりはなかった。
しかし、何も言わずに部屋をあとにすることが、できなかった。
世良は我に返り、足早に部屋を出て行く。
このまま長居をしてしまえば、不必要に冷たくしてしまうと感じて。漠然とした苛立ちを抱えながら。
翌朝、世良は想定していたように剣士たちから闘技を申し込まれる。引き受け、開始するも世良は自身の剣の流れを封印すると誓い、挑んだ。
涼舞城出身の者の構えは独特で城の名に由来する通り、舞のように剣を操る。代々伯父や兄たちを見ている剣士たちが目の当たりにすれば、身元が明るみになるだろう。それは、避けなければならない。
とはいえ、伯父と兄が統括してきただけのことはある。精鋭部隊で、さすがの世良も骨が折れる。
だが、根は上げられない。初日の数時間で疲労の色を見せては統括などできない。相手をする者の剣筋のみならず、意識を多岐に巡らせ勝利を積み重ねる。
昼食を前にして解散を宣言すると、剣士たちは一様に世良に礼をした。
出身を隠さねばと必死だった世良に安堵が沸く。誰も、世良を涼舞城の者とは疑わなかったらしい。
世良も一礼し、今度は大臣の職務へと向かう。
鴻嫗城が涼舞城との縁がなくなったと昨日の騒動で周知となったが、伯父は一命を取り留め、生家に戻ったと皆は思っているようだった。
伯父が一命を取り留めたとしても、誰も咎めはしなかっただろう。
世良の心に影が落ちる。
伯父の姿を、城内の者は見てきている。伯父は長年、鴻嫗城に仕えてきた。恐らく、皆がその背を追い、見習うほどに。
先日行われた密葬を知る一部の者たちは、血を流す紗如を抱えてきた不審人物の密葬だと勘違いしたのかもしれない。伯父の大怪我もそのせいだと。
いくら医師が不審人物のことを『姫の恩人だ』と言ったところで、疑いの眼差しを向ける者は残る。
鴻嫗城にいると決めた時点で、別人になれたことは幸いだった。
大臣の部屋に入り、扉を閉め、重い一息を吐く。思いがけず、疲労感がどっと押し寄せる。ぐったりとその場に沈む。
王位を継いでから、事務職に追われていたのが仇となった。それに加え、毎日の鍛錬を怠らない剣士たちとの数時間の闘技。更には、手慣れを封印した剣術など、思い返せば正気の沙汰ではなかったのだ。
けれど、このまま睡魔に連れて行かれるわけにはいかない。
昼食で一息つくとして、留妃姫から多少なりとも引継ぎを受けなければならない。
何とか立ち上がり、背伸びをする。
クリーム色の壁を見渡し、窓から見える景色に一時心奪われる。胸元から一mほどの高さの窓。ガラスの向こうには色とりどりの花々を、太陽が燦燦と照らしている。
美しさに窓辺へ近づき、僅かに開いている臙脂のカーテンを開ける。
昨日、留妃姫に案内されたとき、部屋に入る前に見えた景色の続きだ。
鴻嫗城の大臣は、護衛の世代交代が行われ、先代の護衛だった者が就くことが多かった。この憩いの場を眺める特権を与えられるのは、何という労いか。
この眺めは、中庭だ。鴻嫗城の身内しか立ち入らない、特別な場。一生を捧げた者に対し、守り続けた者たちを人知れずそっと見守れる場所だと気づき、世良はいつの間にか涙をあふれさせていた。
休憩の時間が終わりに迫り、世良は我に返る。なぜ、泣いていたのか、と。
名を捨てても、記憶や経験は、かんたんに捨てられるものではないと痛感する。別人となって生きると決めたのに、兄や伯父の軌跡に触れれば感傷に浸ってしまう。
──しっかりしなければ。
世良は顔を洗い、うっすらと残るリラの色見を、恨めしそうに眺める。色を変えるのに、手間が少ない色を選んでしまったが、まったく異なる色彩を選べばよかったと後悔が浮かぶ。
扉の叩く音がした。
留妃姫だろうと、世良は慌てて顔を拭き、扉を開ける。
「はやかったかしら?」
気遣う留妃姫に敬意を払い、室内へ向かえる。軽く会話をし、引継ぎは開始された。
時は慌ただしく流れて行き、何日が経ったか。
世良は名目ともに鴻嫗城で剣士の指揮官となっていた。だが、大臣職を兼任しているとも周知されてきたからか、剣士たち以外は『大臣』と呼ぶ者が多くなった。
『世良』と呼ばれるよりも別人になったと感じられ、鬱蒼とした気分が晴れる。
多忙であるが、剣士を希望したのは世良本人。大臣の職を任命してくれた留妃姫には、更に頭の下がる思いだ。
そんな、ある日のこと。
夕食を終えた世良が自室へ向かう途中、下品な笑い声に耳を取られた。注視すると、料理人の男が噂話だと付け加えながら、使用人の女を引き止め話している。その内容は、兄と紗如のことだった。
立ち聞きする気はなかったが、つい、耳を取られた。そうしているうちに身が固まり、世良は一部始終を聞いてしまっていた。
身動きが取れるようになり、世良はようやく歩き始める。
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