241 / 376
固い誓い
【53】無実の犠牲(2)
しおりを挟む
「あの、ね、私……沙稀がいてくれるだけで、幸せなの。沙稀がいてくれなきゃ、だめなの」
時折止まる、震えたか細い声。怯えていたのだろうか。沙稀は嫌いになって離れたわけではないが、恭良にとってみればプツリと切れたような感覚だったのかもしれない。
──辛いのは、俺だけではなかった。
悲しませたと、恭良を強く抱き締める。微かに香るのは、甘い花のような香り。
「恭良」
この香りに包まれる幸せを、沙稀は改めて感じる。
決して、想いを伝えられる日が来ると思っていなかった。どの角度から考えたところで、想いを伝えないと選んだ方が至当な判断だったから。心を無にして、遂行すべきことに目を向けていた。
けれど、蓋を開けてしまえば閉めることはできなくなって、無にした心は彼女で埋めつくされて、あふれるほどの幸せで満たされた。
幸せすぎて怖くなる。離したくなくなる。彼女なしでは、生きていけなくなる。痛感するだけだ。溺れていくほど、愛おしいと。
「ごめん。ただ……恭良に欲を押し付けているように感じて」
「いつ?」
沙稀は目尻を拭う。両腕の力を抜き、恭良から少し離れた。
「一年半……くらい……」
二年前、初めて恭良から『私も、はやくほしいなぁ』とうれしい言葉を聞いた。──その後からだ。何ヶ月も空しく時間が過ぎていくような感覚に囚われた。
『もし、自分のせいで授かれないのなら』
沙稀は、そう自責することが多くなった。
「ごめんね。苦しめたのは、私なんだね……」
恭良は落ち込んだように瞳を伏せる。発言を気にしていたのかもしれない。
「違う」
沙稀は恭良の頬に手をあて、親指で頬をなぞる。
恭良が恐る恐る視線を上げる。恭良もまた、願いと現状の狭間で苦しんでいたのだろう。
「恭良の言葉はうれしかった。俺も恭良に新しい命が宿ったらと思うだけで、幸せだった」
恭良が沙稀をじっと見つめている。恭良の瞳がわずかに揺れて、そっと沙稀の頬を両手で包んだ。次の瞬間には、呼吸が彼女と混ざる。
沙稀は恭良の背をやさしく包む。そっと体制を崩していき、ふたりはベッドの上に体を横たえていく。離れて過ごした月日を埋めるように、互いを必要とした。
ふと、恭良が沙稀の首元を舐めた。咄嗟に沙稀は身を起こす。
「俺、今日はまだシャワーを浴びてきていない」
沙稀にしては珍しいが、寝る前に浴びようと思っていたのだろう。
恭良がクスリと笑う。
「いつも気にするのね。私、沙稀の匂いも好きよ」
「でも……」
「じゃあ、一緒にお風呂入る?」
恭良の愛らしさに沙稀は笑う。恭良の体を起こすと、そのまま抱き締める。
「養子を迎えようか」
耳元で言うと、ゆっくりと離れ恭良を見た。
「いいよ。それで沙稀が気にしないで、私と一緒にいてくれるなら」
恭良は微笑んでいる。
「まだ、俺を愛していてくれるの?」
恭良はクスクスと笑い出す。そうして、にっこりと笑うと、
「もちろん」
と言い、沙稀の唇を塞いだ。
沙稀が恭良と再び一緒に過ごすようになり、一ヶ月ほどが過ぎたころ、ちいさな訪問者がやって来た。
漆黒の髪を首のうしろで束ね、瞳は父に似て宝石のようだ。その父はすぐうしろにいるというのに、このちいさな訪問者は誰が父かと考えたこともないだろう。
近くまでくると、ピタリと止まり沙稀を見上げる。
「本日はお時間を作って頂き、ありがとうございます。よろしくお願い致します」
深々と頭を下げる仕草は、自らの地位をしっかりと意識しているようで──沙稀は敬意を払い対応する。
「蓮羅様、ようこそお越し下さいました。こちらこそ、よろしくお願い致します」
沙稀が一礼をすると、蓮羅はうれしそうに笑みをこぼした。
羅凍は蓮羅のうしろで一礼を返す。今日の羅凍は、あくまでも蓮羅の同行人だ。沙稀もそれを心得ていて、蓮羅と並び、城内を軽く案内する。
ちいさな体が疲れないくらいの案内を沙稀は行い、それとなく手合わせを申し出る。蓮羅は沙稀の申し出に目をキラキラさせて同意した。
食らいついてくる蓮羅は幼いながらも、昔の羅凍を沙稀に思い出させ──やはり親子だなと、離れて座る羅凍を瞬時見やる。どこか不安そうな、心配そうな視線は親そのものだ。
沙稀は改めて蓮羅に向き合う。
息を上げても、疲労でスピードを失いながらも、瞳は強く──意思も強いのだろう。休もうとも、降参だとも言わない。
「本日は、このくらいにしましょう」
すっと沙稀が避けて離れる。
「はい!」
ハキハキとした返事が返ってきたものの、蓮羅は疲労困憊の色を滲ませている。ちいさな体を労わろうと沙稀がつい、手を伸ばそうとしたとのとき、羅凍の気配がして留まる。
「お疲れ様でした」
羅凍は蓮羅に近づき労うものの、抱き上げはしない。
「ありがとうございます」
笑顔の蓮羅も、親子とは感じさせない一線があった。
夕食を終え、蓮羅が眠りについただろうころ、沙稀は羅凍の客間に向かう。一言二言交わして、今度は羅凍とあいさつ程度の手合わせをする。
『軽く』と敢えて伝えた。以前の二の舞を踏まないためだ。
剣士たちのいない稽古場へと誘い、稽古用の剣を手渡す。互いの剣を腰に携えたまま、じゃれるような手合わせを、友情の確認のように行う。
遊び半分のような手合わせでも、沙稀は羅凍が格段に腕を上げたと実感した。体制の立て直しのはやさや、次の手への隙がなくなってきている。単に嗜んでいた友人が剣に打ち込んでいると伝わるのはうれしいことで、『今度はいよいよ力試しと言えなくなってきたかもしれない』と、沙稀はひとり苦笑いをした。
羅凍に伝えれば喜ぶかもしれないが、謙遜するだろう。だからこそ、そっと胸の奥にしまっておく。
切り上げてから、草原に座るかのように床に腰を下ろす。互いの身分がどう変わろうが、気楽な付き合いは変わっていない。
「まだ……はやかった?」
時折止まる、震えたか細い声。怯えていたのだろうか。沙稀は嫌いになって離れたわけではないが、恭良にとってみればプツリと切れたような感覚だったのかもしれない。
──辛いのは、俺だけではなかった。
悲しませたと、恭良を強く抱き締める。微かに香るのは、甘い花のような香り。
「恭良」
この香りに包まれる幸せを、沙稀は改めて感じる。
決して、想いを伝えられる日が来ると思っていなかった。どの角度から考えたところで、想いを伝えないと選んだ方が至当な判断だったから。心を無にして、遂行すべきことに目を向けていた。
けれど、蓋を開けてしまえば閉めることはできなくなって、無にした心は彼女で埋めつくされて、あふれるほどの幸せで満たされた。
幸せすぎて怖くなる。離したくなくなる。彼女なしでは、生きていけなくなる。痛感するだけだ。溺れていくほど、愛おしいと。
「ごめん。ただ……恭良に欲を押し付けているように感じて」
「いつ?」
沙稀は目尻を拭う。両腕の力を抜き、恭良から少し離れた。
「一年半……くらい……」
二年前、初めて恭良から『私も、はやくほしいなぁ』とうれしい言葉を聞いた。──その後からだ。何ヶ月も空しく時間が過ぎていくような感覚に囚われた。
『もし、自分のせいで授かれないのなら』
沙稀は、そう自責することが多くなった。
「ごめんね。苦しめたのは、私なんだね……」
恭良は落ち込んだように瞳を伏せる。発言を気にしていたのかもしれない。
「違う」
沙稀は恭良の頬に手をあて、親指で頬をなぞる。
恭良が恐る恐る視線を上げる。恭良もまた、願いと現状の狭間で苦しんでいたのだろう。
「恭良の言葉はうれしかった。俺も恭良に新しい命が宿ったらと思うだけで、幸せだった」
恭良が沙稀をじっと見つめている。恭良の瞳がわずかに揺れて、そっと沙稀の頬を両手で包んだ。次の瞬間には、呼吸が彼女と混ざる。
沙稀は恭良の背をやさしく包む。そっと体制を崩していき、ふたりはベッドの上に体を横たえていく。離れて過ごした月日を埋めるように、互いを必要とした。
ふと、恭良が沙稀の首元を舐めた。咄嗟に沙稀は身を起こす。
「俺、今日はまだシャワーを浴びてきていない」
沙稀にしては珍しいが、寝る前に浴びようと思っていたのだろう。
恭良がクスリと笑う。
「いつも気にするのね。私、沙稀の匂いも好きよ」
「でも……」
「じゃあ、一緒にお風呂入る?」
恭良の愛らしさに沙稀は笑う。恭良の体を起こすと、そのまま抱き締める。
「養子を迎えようか」
耳元で言うと、ゆっくりと離れ恭良を見た。
「いいよ。それで沙稀が気にしないで、私と一緒にいてくれるなら」
恭良は微笑んでいる。
「まだ、俺を愛していてくれるの?」
恭良はクスクスと笑い出す。そうして、にっこりと笑うと、
「もちろん」
と言い、沙稀の唇を塞いだ。
沙稀が恭良と再び一緒に過ごすようになり、一ヶ月ほどが過ぎたころ、ちいさな訪問者がやって来た。
漆黒の髪を首のうしろで束ね、瞳は父に似て宝石のようだ。その父はすぐうしろにいるというのに、このちいさな訪問者は誰が父かと考えたこともないだろう。
近くまでくると、ピタリと止まり沙稀を見上げる。
「本日はお時間を作って頂き、ありがとうございます。よろしくお願い致します」
深々と頭を下げる仕草は、自らの地位をしっかりと意識しているようで──沙稀は敬意を払い対応する。
「蓮羅様、ようこそお越し下さいました。こちらこそ、よろしくお願い致します」
沙稀が一礼をすると、蓮羅はうれしそうに笑みをこぼした。
羅凍は蓮羅のうしろで一礼を返す。今日の羅凍は、あくまでも蓮羅の同行人だ。沙稀もそれを心得ていて、蓮羅と並び、城内を軽く案内する。
ちいさな体が疲れないくらいの案内を沙稀は行い、それとなく手合わせを申し出る。蓮羅は沙稀の申し出に目をキラキラさせて同意した。
食らいついてくる蓮羅は幼いながらも、昔の羅凍を沙稀に思い出させ──やはり親子だなと、離れて座る羅凍を瞬時見やる。どこか不安そうな、心配そうな視線は親そのものだ。
沙稀は改めて蓮羅に向き合う。
息を上げても、疲労でスピードを失いながらも、瞳は強く──意思も強いのだろう。休もうとも、降参だとも言わない。
「本日は、このくらいにしましょう」
すっと沙稀が避けて離れる。
「はい!」
ハキハキとした返事が返ってきたものの、蓮羅は疲労困憊の色を滲ませている。ちいさな体を労わろうと沙稀がつい、手を伸ばそうとしたとのとき、羅凍の気配がして留まる。
「お疲れ様でした」
羅凍は蓮羅に近づき労うものの、抱き上げはしない。
「ありがとうございます」
笑顔の蓮羅も、親子とは感じさせない一線があった。
夕食を終え、蓮羅が眠りについただろうころ、沙稀は羅凍の客間に向かう。一言二言交わして、今度は羅凍とあいさつ程度の手合わせをする。
『軽く』と敢えて伝えた。以前の二の舞を踏まないためだ。
剣士たちのいない稽古場へと誘い、稽古用の剣を手渡す。互いの剣を腰に携えたまま、じゃれるような手合わせを、友情の確認のように行う。
遊び半分のような手合わせでも、沙稀は羅凍が格段に腕を上げたと実感した。体制の立て直しのはやさや、次の手への隙がなくなってきている。単に嗜んでいた友人が剣に打ち込んでいると伝わるのはうれしいことで、『今度はいよいよ力試しと言えなくなってきたかもしれない』と、沙稀はひとり苦笑いをした。
羅凍に伝えれば喜ぶかもしれないが、謙遜するだろう。だからこそ、そっと胸の奥にしまっておく。
切り上げてから、草原に座るかのように床に腰を下ろす。互いの身分がどう変わろうが、気楽な付き合いは変わっていない。
「まだ……はやかった?」
0
お気に入りに追加
37
あなたにおすすめの小説
王が気づいたのはあれから十年後
基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。
妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。
仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。
側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。
王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。
王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。
新たな国王の誕生だった。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
もう死んでしまった私へ
ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。
幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか?
今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!!
ゆるゆる設定です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる