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『第二部【前半】花一華』 君を愛す
【6】長い時間(2)
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普段よりも遅い夕食だ。昼食も遅かったと思えば、ちょうどいい時間だとも言える。昼食のときと同じ食堂は、思ったよりも賑わっていた。空いている席は数えるほど。
沙稀は昼間座った席より手前の席に座り、メニューに軽く目を通す。そのとき、注文が決まったかと声をかけられる。スープをどうするか考え、止めておくことにする。
昼間は頼んだが、手をつけられなかった。頼んでおいて、手をつけないのは失礼だ。ベーコンが入っていたからだが、そのスープを下げる者も、それを見た者も、沙稀が手をつけなかった理由を知る由はないだろう。
肉を体が受け付けなくなった原因の検討はついている。意識せずに食べ、粗相をしたのは──人を、初めて殺めて料理当番をしたあとだった。あのとき、調理をしていて肉を切る感覚と、人を切った感覚が似ていると思っていた。
昼間は食事が運ばれてきたとき、スープを見てつい笑ってしまった。うっかりしていたと自身を笑ったのだが、運んできた相手はそう思わなかったかもしれない。
意としない言動で、悪意だと周囲から誤解を受けることが、以前から多々あるのだろうと沙稀はなんとなく思う。
──ああ、今日は駄目だ……。
いつになく、思考が否定的だ。
運ばれてきた食事に感謝だけを伝え、自己嫌悪とともに食事を飲み込み、その場を立ち去る。
部屋に戻る前、バルコニーに出る階段が目に入ってきた。風に当たれば少しは気分が変わるかもしれないと思ったが、足を向ける気になれず。結局、沙稀はそのまま部屋へと戻る。
そうして、本棚に一冊置かれた本を手に取った。聖書だ。
沙稀はキリスト教徒ではないが、聖書は出かけ先に置き去りにされたかのように、なぜか一冊だけポツンと本棚に置いてあることが多々ある。珍しくのんびりできるときに、ちょこんとあるものだから、暇を潰すように何度か手に取ったことがこれまでもあった。だから、今もそういう感じで、何気なく沙稀は聖書を手に取る。
パラパラと読み進めると、ひとつの言葉に目が止まった。
『人生は短く、苦しみは絶えない。花のように咲き出ては、しおれ、影のように移ろい、永らえることはない』
繰り返しその言葉を読むと、沙稀は聖書を閉じる。神々の暮らす世界は実在するのかもしれないと、非現実的だとも思いながら漠然と想像していた。
現実に戻って時計を見ると、すでに十時近い。気は進まないがシャワーを浴びて寝ることにした。嫌いな行為と自覚しつつ、こうして沙稀は毎日何度も癖のようにシャワーを浴びる。
沙稀は聖書を本棚に戻し、浴室に向かおうとした。しかし、なぜか意識は聖書へと向かう。振り返り『さびしそうだな』と、離れたところからしばらく聖書に視線を送り、ようやく浴室へと向かう。
鏡を見ないように素早く衣服を脱ぎ、浴室へと入る。そろそろ十一月になるというのに、沙稀は冷水を出す。
──これは、雨だ。雨だと思えばいい。
冷たい感覚に慣れると、ゆっくりと髪を洗い始める。
ザアァァァ……
瞳を閉じ頭皮をマッザージしながら、シャワーの音を雨音に例える。これで、ようやく寛げると瞳をゆっくり開け──たとき、赤い液体が降ってきているように見えた。沙稀は急いでシャワーを止める。
「はっ……はぁ……」
壁に手をつき、冷たい空間に暫時身を委ねる。乱れた呼吸を、ゆっくり深く息を吐き整えようとする。
「なんだって、今日は……」
散々だ。沙稀にとって、ただ日常的な回数を浴びているだけなのに、とにかくひどい。沙稀は苛立ったまま体を洗い始める。
今日に限って、気分を切り替えられない理由はわかっている。いつになくひとりで過ごす時間の長さのせいだ。
九歳で王に対面した日から、日々は慌ただしくなる一方だった。眠れないと気にしたことの方が少ない。全部、王が亡くなってからだ。過去を鮮明に思い出すことは、十数年で片手で数えるくらいだったのに、王が亡くなってから緊張の糸が切れたのか。翌日から、何度も何度もうなされた。
──終わった。終わったはずだ、何もかも。それなのに、いつまでも縛りつけている。変えることのできない過去に、いつまでしがみついていたいと願っている? 切り離したい、解放したいと何度願えば変えられる? 強い不安に襲われて、情けない思いを抱え込むのは、もう……充分なはずだ。
ガンッ
沙稀は右手の拳で壁を殴る。痛みは、ない。右半身の感覚がないのは、長い眠りから覚めてからずっとだ。傭兵時代は痛みを感じないのをいいことに、どれだけ犠牲にしてきたか。努力をいくら重ねても、戻らない細やかな動き。それに加えて重荷となった右半身。生きたいと願い、差し出したわけではない。生きていてほしいと願う人は、命が尽きて。結果、生きているだけだ。いつからか、生かされているという認識の方が強い。
嫌というほど感覚がないと自覚しているはずなのに、婚約してからは恭良が触れれば、ふしぎとその感覚が伝わってくる。
だから、混乱しているのかもしれない。痛みの感じない現実を認めろと、沙稀は腹立たしく。言い聞かすようにもう一度、右の拳を壁に打ちつける。
「情けない。俺は、こんなにもちいさな男か!」
己を罵る。奮い立つために。
ため息をつき、今度は熱いシャワーを全開にする。小石がぶつかるような強い水圧を頭からしばらく浴び、泡を流すとシャワーを止めて早足に浴場を出る。素早くタオルを取り、泳ぎ疲れたかのようにタオルに顔を埋める。
「あぁ……」
沙稀はぬれたままの体でベッドに倒れ込む。
誄と再会したとき、誄は『普通の十四歳』だった。ずい分と大人に見えて、己の幼い姿を悔しく感じて──沙稀は素通りした。
再び目を覚ました当時、体は七歳のまま止まっていた。『何事もなく、続きを生きていける』と心を支え、孤独を乗り切った。
だが、誄に再会したとき、沙稀は痛感したのだ。『元に戻れる日は来ない』と。本来なら十五歳。
十一歳の体では、その四歳差が遠い。
『いつか』は然程変わらないと思える日が来ると、理解はできた。だが、その『いつか』は遠い先の話に思えた。大臣から、結婚の先送りを告げられたときもそうだ。『これから』は年齢を重ねれば重ねるほどに、その差は開いていく一方に思えて。
そういえば、披露宴の前に大臣が会わせた『あの子』は『誰』だったか。大臣は、同じく剣を握る者として沙稀に憧れているからと紹介をしてきた。確か、本人は『琉倚』と名乗ったか。リラの髪の毛が涼舞城の生き残りのように思え、だが、話す時間は当日になかった。バタバタとあいさつを交したにすぎない。
もしかしたら、あの子が婚約者候補だったのではないか──披露宴に向かう途中、そんなことが頭を過った。けれど、『琉倚』はどう見ても、十代前半の女の子。涼舞城が落魄したのは、沙稀が七歳のとき。生き残った者がいたとしても、年齢が合わないとすぐにそう思い直した。だが、もしかしたら。『琉倚』は、大臣の唯一の身内なのかもしれない。
ただ、大臣に聞いたとしても、言わないだろう。どんなに親しいと思っていても、大臣は本名すら教えてくれないのだから。
沙稀は身分を公表してから、本来の年齢を取り戻した。消えたのは、八歳から十一歳だったはずなのに、二十一歳から飛び越えて二十五歳になった。
埋まらなかった八歳から十一歳。けれど、実際に失った年齢は違っていて、あと二ヶ月ほどで沙稀は二十六歳の誕生日を迎える。
十数年振りに『誕生日』として迎えられる、生誕の日。八回目をやっと迎えられる、二十六歳の誕生日。
沙稀はややこしいと笑う。
いつまで経っても踏みとどまっているのは、情けないと思う。けれど、それだけ長年苦しんできたということで。きちんと乗り越えられるまで、戦ってみせようと沙稀はおだやかに笑い、眠りに落ちていった。
※ 聖書の言葉は14章1~2節より引用しています(言葉自体も引用部分もWebページで検索したものです)。
沙稀は昼間座った席より手前の席に座り、メニューに軽く目を通す。そのとき、注文が決まったかと声をかけられる。スープをどうするか考え、止めておくことにする。
昼間は頼んだが、手をつけられなかった。頼んでおいて、手をつけないのは失礼だ。ベーコンが入っていたからだが、そのスープを下げる者も、それを見た者も、沙稀が手をつけなかった理由を知る由はないだろう。
肉を体が受け付けなくなった原因の検討はついている。意識せずに食べ、粗相をしたのは──人を、初めて殺めて料理当番をしたあとだった。あのとき、調理をしていて肉を切る感覚と、人を切った感覚が似ていると思っていた。
昼間は食事が運ばれてきたとき、スープを見てつい笑ってしまった。うっかりしていたと自身を笑ったのだが、運んできた相手はそう思わなかったかもしれない。
意としない言動で、悪意だと周囲から誤解を受けることが、以前から多々あるのだろうと沙稀はなんとなく思う。
──ああ、今日は駄目だ……。
いつになく、思考が否定的だ。
運ばれてきた食事に感謝だけを伝え、自己嫌悪とともに食事を飲み込み、その場を立ち去る。
部屋に戻る前、バルコニーに出る階段が目に入ってきた。風に当たれば少しは気分が変わるかもしれないと思ったが、足を向ける気になれず。結局、沙稀はそのまま部屋へと戻る。
そうして、本棚に一冊置かれた本を手に取った。聖書だ。
沙稀はキリスト教徒ではないが、聖書は出かけ先に置き去りにされたかのように、なぜか一冊だけポツンと本棚に置いてあることが多々ある。珍しくのんびりできるときに、ちょこんとあるものだから、暇を潰すように何度か手に取ったことがこれまでもあった。だから、今もそういう感じで、何気なく沙稀は聖書を手に取る。
パラパラと読み進めると、ひとつの言葉に目が止まった。
『人生は短く、苦しみは絶えない。花のように咲き出ては、しおれ、影のように移ろい、永らえることはない』
繰り返しその言葉を読むと、沙稀は聖書を閉じる。神々の暮らす世界は実在するのかもしれないと、非現実的だとも思いながら漠然と想像していた。
現実に戻って時計を見ると、すでに十時近い。気は進まないがシャワーを浴びて寝ることにした。嫌いな行為と自覚しつつ、こうして沙稀は毎日何度も癖のようにシャワーを浴びる。
沙稀は聖書を本棚に戻し、浴室に向かおうとした。しかし、なぜか意識は聖書へと向かう。振り返り『さびしそうだな』と、離れたところからしばらく聖書に視線を送り、ようやく浴室へと向かう。
鏡を見ないように素早く衣服を脱ぎ、浴室へと入る。そろそろ十一月になるというのに、沙稀は冷水を出す。
──これは、雨だ。雨だと思えばいい。
冷たい感覚に慣れると、ゆっくりと髪を洗い始める。
ザアァァァ……
瞳を閉じ頭皮をマッザージしながら、シャワーの音を雨音に例える。これで、ようやく寛げると瞳をゆっくり開け──たとき、赤い液体が降ってきているように見えた。沙稀は急いでシャワーを止める。
「はっ……はぁ……」
壁に手をつき、冷たい空間に暫時身を委ねる。乱れた呼吸を、ゆっくり深く息を吐き整えようとする。
「なんだって、今日は……」
散々だ。沙稀にとって、ただ日常的な回数を浴びているだけなのに、とにかくひどい。沙稀は苛立ったまま体を洗い始める。
今日に限って、気分を切り替えられない理由はわかっている。いつになくひとりで過ごす時間の長さのせいだ。
九歳で王に対面した日から、日々は慌ただしくなる一方だった。眠れないと気にしたことの方が少ない。全部、王が亡くなってからだ。過去を鮮明に思い出すことは、十数年で片手で数えるくらいだったのに、王が亡くなってから緊張の糸が切れたのか。翌日から、何度も何度もうなされた。
──終わった。終わったはずだ、何もかも。それなのに、いつまでも縛りつけている。変えることのできない過去に、いつまでしがみついていたいと願っている? 切り離したい、解放したいと何度願えば変えられる? 強い不安に襲われて、情けない思いを抱え込むのは、もう……充分なはずだ。
ガンッ
沙稀は右手の拳で壁を殴る。痛みは、ない。右半身の感覚がないのは、長い眠りから覚めてからずっとだ。傭兵時代は痛みを感じないのをいいことに、どれだけ犠牲にしてきたか。努力をいくら重ねても、戻らない細やかな動き。それに加えて重荷となった右半身。生きたいと願い、差し出したわけではない。生きていてほしいと願う人は、命が尽きて。結果、生きているだけだ。いつからか、生かされているという認識の方が強い。
嫌というほど感覚がないと自覚しているはずなのに、婚約してからは恭良が触れれば、ふしぎとその感覚が伝わってくる。
だから、混乱しているのかもしれない。痛みの感じない現実を認めろと、沙稀は腹立たしく。言い聞かすようにもう一度、右の拳を壁に打ちつける。
「情けない。俺は、こんなにもちいさな男か!」
己を罵る。奮い立つために。
ため息をつき、今度は熱いシャワーを全開にする。小石がぶつかるような強い水圧を頭からしばらく浴び、泡を流すとシャワーを止めて早足に浴場を出る。素早くタオルを取り、泳ぎ疲れたかのようにタオルに顔を埋める。
「あぁ……」
沙稀はぬれたままの体でベッドに倒れ込む。
誄と再会したとき、誄は『普通の十四歳』だった。ずい分と大人に見えて、己の幼い姿を悔しく感じて──沙稀は素通りした。
再び目を覚ました当時、体は七歳のまま止まっていた。『何事もなく、続きを生きていける』と心を支え、孤独を乗り切った。
だが、誄に再会したとき、沙稀は痛感したのだ。『元に戻れる日は来ない』と。本来なら十五歳。
十一歳の体では、その四歳差が遠い。
『いつか』は然程変わらないと思える日が来ると、理解はできた。だが、その『いつか』は遠い先の話に思えた。大臣から、結婚の先送りを告げられたときもそうだ。『これから』は年齢を重ねれば重ねるほどに、その差は開いていく一方に思えて。
そういえば、披露宴の前に大臣が会わせた『あの子』は『誰』だったか。大臣は、同じく剣を握る者として沙稀に憧れているからと紹介をしてきた。確か、本人は『琉倚』と名乗ったか。リラの髪の毛が涼舞城の生き残りのように思え、だが、話す時間は当日になかった。バタバタとあいさつを交したにすぎない。
もしかしたら、あの子が婚約者候補だったのではないか──披露宴に向かう途中、そんなことが頭を過った。けれど、『琉倚』はどう見ても、十代前半の女の子。涼舞城が落魄したのは、沙稀が七歳のとき。生き残った者がいたとしても、年齢が合わないとすぐにそう思い直した。だが、もしかしたら。『琉倚』は、大臣の唯一の身内なのかもしれない。
ただ、大臣に聞いたとしても、言わないだろう。どんなに親しいと思っていても、大臣は本名すら教えてくれないのだから。
沙稀は身分を公表してから、本来の年齢を取り戻した。消えたのは、八歳から十一歳だったはずなのに、二十一歳から飛び越えて二十五歳になった。
埋まらなかった八歳から十一歳。けれど、実際に失った年齢は違っていて、あと二ヶ月ほどで沙稀は二十六歳の誕生日を迎える。
十数年振りに『誕生日』として迎えられる、生誕の日。八回目をやっと迎えられる、二十六歳の誕生日。
沙稀はややこしいと笑う。
いつまで経っても踏みとどまっているのは、情けないと思う。けれど、それだけ長年苦しんできたということで。きちんと乗り越えられるまで、戦ってみせようと沙稀はおだやかに笑い、眠りに落ちていった。
※ 聖書の言葉は14章1~2節より引用しています(言葉自体も引用部分もWebページで検索したものです)。
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