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『第二部【前半】花一華』 君を愛す
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鴻嫗城を出た沙稀と誄は、絢朱までの道のりを楽しむように話しながら歩いていた。
他と交流を一切絶って育った誄を、沙稀は心配している。誄のことを思えば、今日は喜ばしい日だ。沙稀には、今日から誄が新しい一歩を踏み出すように感じられていた。
「沙稀様は、昔に渡した香水を……変えずに使ってくださっていますよね」
誄はどこか照れて言う。
しかし、誄のその感情が誰に向けられたものなのかを、沙稀は理解している。だから、沙稀が誄の様子に照れることはない。
昔、誄と再会したのは、偶然だった。あれは、沙稀が剣士として城内を自由に歩けるようになった二年後のこと。当時、誄は十四歳になっていて。
年下だったはずの女の子が、ずい分大人に見えたと思い出す。
「本当は、瑠既にあげたかったんでしょ?」
沙稀のやさしい問いかけに、誄は赤面していく。図星だ。
再開した当初、沙稀は誄を素通りした。気持ちを整理できなくて。だが、翌日。今度はわざわざ大臣を通して、誄は沙稀に会いに来た。これには驚いたが、それだけ誄はさびしいのかと思い──香水は、そのときにもらった。そのときから、本当は瑠既にあげたかった物だと察しはついた。
「俺、変えてもいいよ。このまま俺が使っていると、瑠既にあげられないでしょ?」
問いに対して、誄は戸惑いながらも首を横に振る。
「ああ、そうか。今更俺が変えたとしても、もうあげにくいよね。ごめんね」
一瞬、動きを止めた誄が、今度は高速で首を左右に振る。沙稀は慌てて止めるが、誄は恥ずかしさからか、頭から湯気が出ていそうに見える。
こうして元気でいてくれてよかったと、沙稀は心底思う。昔、香水を沙稀に渡そうとしてきた誄を目の前にして、この子のさびしさを埋めたいと受け取ったことを覚えている。瑠既が帰って来るまでなら、誄を支えても構わないだろうと当時の沙稀は思ったわけだ。
沙稀と誄は幼なじみだが、沙稀は瑠既に遠慮をして幼少期から誄とふたりきりにならないようにしていた。沙稀に瑠既の気持ちがわかったわけではない。沙稀が恋心を知るのは、ずっとあとのことだ。だが、大切な人を想う気持ちは、なんとなく想像がついた。それだけのことだ。
大切な人が何年もいないさびしさは、沙稀も知っていた。だから、再会した誄から香水を受け取って、瑠既のいないさびしさを誄が少しでも感じないでいられたらいいと願った。──あれから沙稀は、誄がいつでも寄りかかれるような存在としているように心がけた。沙稀からすれば、誄は瑠既と婚約したときから、家族の一員。家族が支え合うのは、当然のこと。
誄は落ち着きを取り戻したのか、恥ずかしさに耐えながら沙稀に言う。
「沙稀様は悪くないです。やさしすぎるんですぅ……」
「そう?」
「そうです! 私のことをわかっていて、ずっといてくれていじゃないですかぁ……」
「いや、うっかりしていた。瑠既が帰って来たら、すぐに変えるつもりだったのに」
沙稀は誄に気づかれていたと知り、軽く笑う。
「何か、あげるの?」
はやくあげなよと催促したつもりが、誄は一瞬、悲しそうな表情を浮かべた。すぐにうつむき、首を横に振る。
誄が一瞬見せた表情が気になり、沙稀は少し考え、ああ、と思う。恐らく、瑠既が現在使っている香水を気にしている。
瑠既は倭穏と一緒に帰城したときから、誄との婚約発表をしても、結婚をしても同じ香水をつけている。
その香水を気にするのは、誰が選んだかと考えたからだろう。名を浮かべるのは、かんたんで。そもそも瑠既が自ら香水を手にするとは、沙稀には思えない。沙稀は単に双子ならではの勘だが、瑠既をずっと異性と認識している誄からしたら、どうだろうか? 誄も沙稀と同じ考えに辿りついたのなら、どんなに気になるだろう。
「変えてもらわないの?」
誄は素早くうなずく。やせ我慢をしているように見えるその姿に、沙稀は率直に問う。
「気になるでしょう?」
「大丈夫です」
「健気だね」
「いいんです。となりに置いてくださっているだけで」
誄は何かを思い出したように涙を溜めていく。
「何か、あった?」
「いいえ……」
絞り出すように誄は答え──沙稀はそれではかえって『何もない』と言っているようなものだと思ってしまう。
瑠既は、帰城した直後と比べるとずい分落ち着いてきた。それは、沙稀にはいい傾向だと思っていたことで。ただ、誄がこんなにも悩んでいるなら、果たしていい傾向だったのかとも考えてしまう。
帰城したばかりときの瑠既は、目につくほど倭穏に触れていた。沙稀にはその言動が下品だと感じて、余計に苛々としたものだ。
一方の誄に対してはどうかと言えば、真逆と言っていいほど。それこそ、瑠既から誄に触れたのを見たのは、結婚式のときくらいなもので。──そういえばそれ以降、瑠既から誄に触れるそぶりを見ていない。倭穏と一緒にいたときと比較すれば、不自然にも思えてくる。
ただ、それ以外は相変わらずの態度だ。どこか馴れ馴れしく、それでいて無理をして明るく振る舞っているように感じている。だが、成長過程による影響なのかもしれない。沙稀は仕方ないと思い、指摘しない。
とは言え、誄とふたりでいる瑠既はどこかぎこちなく見え、ただ、沙稀にはその瑠既の方が自然な態度だと感じていた。幼いころから、瑠既は誄に不用意に触れず、どこか緊張していたものだ。そうでなくとも、何かあれば沙稀の背中に隠れるような小心者だった。
そう考えれば、沙稀には瑠既が誄をきちんと大事にしているように思え、
「瑠既はそんなに器用な奴じゃないよ」
と言ってみたが、誄の顔は晴れない。
「はい」
誄はちいさく返事をして、また大丈夫と無理をしているかのように微笑む。
そんな誄の様子に、何と声をかけようかと沙稀は視線を前方へ向けた。周囲の風景は木々から草原へと変わり、絢朱が見え始めている。
「着いたね。手続き、一緒に行くよ」
あくまでも沙稀は、誄を外から支えることしかできない。
沙稀は誄とともに手続きを行ったが、心配は消えない。こんなときに限って、船内で近くの部屋がとれなかった。船に乗ってしまえば、誄と落ち合うのはなかなか難しい。
「本当にひとりで平気? 俺、誄姫を克主研究所に送ったあとでも、羅暁城に行けるよ」
元々、船を乗るまでの案内だったが、心配のあまりに出た過保護な沙稀の発言。楓珠大陸から船を乗り換え、梓維大陸へは数時間。誄を克主研究所に見送ってから羅暁城に連絡を入れても、時間調節は可能だ。
けれど、誄はそれは悪いと遠慮しつつ、克主研究にはひとりで行けると言う。
「ここまででも充分です。本当に、ありがとうございました」
「そう? じゃ……明後日の早朝に、またここで」
「はい」
誄は笑顔で別れを告げ、頭を下げる。沙稀に見守られながら楓珠大陸行きの船に乗ると、再び微笑み手を振る。
沙稀も手を振って見送り、姿が見えなくなると誄が船に乗るのを見届けたと、大臣に連絡を入れる。
「恭良様と変わりますか?」
受話器から響く大臣の声。
沙稀は断ったが、大臣はもう一度聞いてきた。
「いい。声を聞けば……会いたくなる」
沙稀は言い終わると、大臣の返答を待たずに受話器を置く。
鴻嫗《トキウ》城を出てから、まだ二時間弱。それにも関わらず、恭良を思い出すと、沙稀にはとてつもなく長いように感じられた。
梓維大陸までは一日以上かかる。一先ず、楓珠大陸まではおよそ二十二時間。長旅だが、仕方ない。船に乗ったら一先ずすぐに寝てしまえばいいと、沙稀はさっさと船へと乗り込む。
他と交流を一切絶って育った誄を、沙稀は心配している。誄のことを思えば、今日は喜ばしい日だ。沙稀には、今日から誄が新しい一歩を踏み出すように感じられていた。
「沙稀様は、昔に渡した香水を……変えずに使ってくださっていますよね」
誄はどこか照れて言う。
しかし、誄のその感情が誰に向けられたものなのかを、沙稀は理解している。だから、沙稀が誄の様子に照れることはない。
昔、誄と再会したのは、偶然だった。あれは、沙稀が剣士として城内を自由に歩けるようになった二年後のこと。当時、誄は十四歳になっていて。
年下だったはずの女の子が、ずい分大人に見えたと思い出す。
「本当は、瑠既にあげたかったんでしょ?」
沙稀のやさしい問いかけに、誄は赤面していく。図星だ。
再開した当初、沙稀は誄を素通りした。気持ちを整理できなくて。だが、翌日。今度はわざわざ大臣を通して、誄は沙稀に会いに来た。これには驚いたが、それだけ誄はさびしいのかと思い──香水は、そのときにもらった。そのときから、本当は瑠既にあげたかった物だと察しはついた。
「俺、変えてもいいよ。このまま俺が使っていると、瑠既にあげられないでしょ?」
問いに対して、誄は戸惑いながらも首を横に振る。
「ああ、そうか。今更俺が変えたとしても、もうあげにくいよね。ごめんね」
一瞬、動きを止めた誄が、今度は高速で首を左右に振る。沙稀は慌てて止めるが、誄は恥ずかしさからか、頭から湯気が出ていそうに見える。
こうして元気でいてくれてよかったと、沙稀は心底思う。昔、香水を沙稀に渡そうとしてきた誄を目の前にして、この子のさびしさを埋めたいと受け取ったことを覚えている。瑠既が帰って来るまでなら、誄を支えても構わないだろうと当時の沙稀は思ったわけだ。
沙稀と誄は幼なじみだが、沙稀は瑠既に遠慮をして幼少期から誄とふたりきりにならないようにしていた。沙稀に瑠既の気持ちがわかったわけではない。沙稀が恋心を知るのは、ずっとあとのことだ。だが、大切な人を想う気持ちは、なんとなく想像がついた。それだけのことだ。
大切な人が何年もいないさびしさは、沙稀も知っていた。だから、再会した誄から香水を受け取って、瑠既のいないさびしさを誄が少しでも感じないでいられたらいいと願った。──あれから沙稀は、誄がいつでも寄りかかれるような存在としているように心がけた。沙稀からすれば、誄は瑠既と婚約したときから、家族の一員。家族が支え合うのは、当然のこと。
誄は落ち着きを取り戻したのか、恥ずかしさに耐えながら沙稀に言う。
「沙稀様は悪くないです。やさしすぎるんですぅ……」
「そう?」
「そうです! 私のことをわかっていて、ずっといてくれていじゃないですかぁ……」
「いや、うっかりしていた。瑠既が帰って来たら、すぐに変えるつもりだったのに」
沙稀は誄に気づかれていたと知り、軽く笑う。
「何か、あげるの?」
はやくあげなよと催促したつもりが、誄は一瞬、悲しそうな表情を浮かべた。すぐにうつむき、首を横に振る。
誄が一瞬見せた表情が気になり、沙稀は少し考え、ああ、と思う。恐らく、瑠既が現在使っている香水を気にしている。
瑠既は倭穏と一緒に帰城したときから、誄との婚約発表をしても、結婚をしても同じ香水をつけている。
その香水を気にするのは、誰が選んだかと考えたからだろう。名を浮かべるのは、かんたんで。そもそも瑠既が自ら香水を手にするとは、沙稀には思えない。沙稀は単に双子ならではの勘だが、瑠既をずっと異性と認識している誄からしたら、どうだろうか? 誄も沙稀と同じ考えに辿りついたのなら、どんなに気になるだろう。
「変えてもらわないの?」
誄は素早くうなずく。やせ我慢をしているように見えるその姿に、沙稀は率直に問う。
「気になるでしょう?」
「大丈夫です」
「健気だね」
「いいんです。となりに置いてくださっているだけで」
誄は何かを思い出したように涙を溜めていく。
「何か、あった?」
「いいえ……」
絞り出すように誄は答え──沙稀はそれではかえって『何もない』と言っているようなものだと思ってしまう。
瑠既は、帰城した直後と比べるとずい分落ち着いてきた。それは、沙稀にはいい傾向だと思っていたことで。ただ、誄がこんなにも悩んでいるなら、果たしていい傾向だったのかとも考えてしまう。
帰城したばかりときの瑠既は、目につくほど倭穏に触れていた。沙稀にはその言動が下品だと感じて、余計に苛々としたものだ。
一方の誄に対してはどうかと言えば、真逆と言っていいほど。それこそ、瑠既から誄に触れたのを見たのは、結婚式のときくらいなもので。──そういえばそれ以降、瑠既から誄に触れるそぶりを見ていない。倭穏と一緒にいたときと比較すれば、不自然にも思えてくる。
ただ、それ以外は相変わらずの態度だ。どこか馴れ馴れしく、それでいて無理をして明るく振る舞っているように感じている。だが、成長過程による影響なのかもしれない。沙稀は仕方ないと思い、指摘しない。
とは言え、誄とふたりでいる瑠既はどこかぎこちなく見え、ただ、沙稀にはその瑠既の方が自然な態度だと感じていた。幼いころから、瑠既は誄に不用意に触れず、どこか緊張していたものだ。そうでなくとも、何かあれば沙稀の背中に隠れるような小心者だった。
そう考えれば、沙稀には瑠既が誄をきちんと大事にしているように思え、
「瑠既はそんなに器用な奴じゃないよ」
と言ってみたが、誄の顔は晴れない。
「はい」
誄はちいさく返事をして、また大丈夫と無理をしているかのように微笑む。
そんな誄の様子に、何と声をかけようかと沙稀は視線を前方へ向けた。周囲の風景は木々から草原へと変わり、絢朱が見え始めている。
「着いたね。手続き、一緒に行くよ」
あくまでも沙稀は、誄を外から支えることしかできない。
沙稀は誄とともに手続きを行ったが、心配は消えない。こんなときに限って、船内で近くの部屋がとれなかった。船に乗ってしまえば、誄と落ち合うのはなかなか難しい。
「本当にひとりで平気? 俺、誄姫を克主研究所に送ったあとでも、羅暁城に行けるよ」
元々、船を乗るまでの案内だったが、心配のあまりに出た過保護な沙稀の発言。楓珠大陸から船を乗り換え、梓維大陸へは数時間。誄を克主研究所に見送ってから羅暁城に連絡を入れても、時間調節は可能だ。
けれど、誄はそれは悪いと遠慮しつつ、克主研究にはひとりで行けると言う。
「ここまででも充分です。本当に、ありがとうございました」
「そう? じゃ……明後日の早朝に、またここで」
「はい」
誄は笑顔で別れを告げ、頭を下げる。沙稀に見守られながら楓珠大陸行きの船に乗ると、再び微笑み手を振る。
沙稀も手を振って見送り、姿が見えなくなると誄が船に乗るのを見届けたと、大臣に連絡を入れる。
「恭良様と変わりますか?」
受話器から響く大臣の声。
沙稀は断ったが、大臣はもう一度聞いてきた。
「いい。声を聞けば……会いたくなる」
沙稀は言い終わると、大臣の返答を待たずに受話器を置く。
鴻嫗《トキウ》城を出てから、まだ二時間弱。それにも関わらず、恭良を思い出すと、沙稀にはとてつもなく長いように感じられた。
梓維大陸までは一日以上かかる。一先ず、楓珠大陸まではおよそ二十二時間。長旅だが、仕方ない。船に乗ったら一先ずすぐに寝てしまえばいいと、沙稀はさっさと船へと乗り込む。
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