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王位継承──後編

【49】停滞(1)

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「『ユキ姫』じゃなくて、『恭良ユキヅキ』って呼んでね」
  長年想いを募らせていた彼に、やっとそう言えた日。いつになく恭良ユキヅキの胸は躍っていた。


 大臣に結婚宣言をしたあと、恭良ユキヅキは彼の手を握り廊下へと出た。そのまま恋人繋ぎをして、片側がガラス張りの長い廊下も、弾んで歩く。そうして、その廊下も終わろうかというとき、
「今日からは、一緒に寝たい」
 と立ち止まって彼に告げた。
 すると、時が止まった。──いや、正確には彼が目を見開いて、固まっていた。
「駄目?」
 恭良ユキヅキが声で空気を揺らす。
「えと……」
 うつむき、恭良ユキヅキから瞳を逸らす彼。その姿はなぜか妙に妖艶に映り、じいっと見ていたいと吸い込まれていく。──顔にかかる長いリラの髪。その髪の間から見える、同じくリラの桜色の混じったような淡い紫の瞳。クッキリとした二重は作り物のようにきれいで。下を向く睫毛は飾り物のようで。なんて美しいことか。
 うっとりと恭良ユキヅキは眺めていたが、ふと大臣の言葉を思い出す。

『純潔を……厳守して下さいね』

 もしかして彼は、大臣のこの言葉を気にしているのではないか。──そんなことが恭良ユキヅキの頭を過ったとき、
「いえ」
 と、了承の返事が返ってきた。その返事はしっかりとしたもので。リラの瞳はまっすぐと恭良ユキヅキを見ていて。
 思わず恭良ユキヅキは頬がゆるんだ。

 彼からいい返事をもらえ、自室に向かおうと来た道を戻ろうとした恭良ユキヅキの手から、スルリと彼の手が離れる。
 驚き、恭良ユキヅキが振り返ると、律義に着替えを取りに行くと彼は言った。

 彼の部屋に向かうのなら、多くの使用人も通る場所を歩く。──さすがにまだ公の場で恋人繋ぎをしてはいけないのかと思えばさみしくなる。
 けれど、さみしいとは言えない。代わりに頬を膨らませてみたが、
「先にお部屋へ送りましょうか?」
 と彼は涼しい顔をして言う。そういうことではないと、また口調が戻っていると、そんなことで頭はいっぱいになって。思っていることを言葉にしても話は進みそうにないので、首だけを横に振る。
 彼はふしぎそうに首を傾げたが、少し笑った顔が幸せそうに見えて。
 恭良ユキヅキは妥協してこれまでのように振舞い、彼の部屋まで着いていく。

 彼は部屋に入るなり、一直線に引き出しを開け始めた。本当に真面目な人というか、誠実な人というか、沙稀イサキらしいなと恭良ユキヅキは入り口で立ち止まる。
 視界を下げると、アイボリーのラグまで数歩。ラグは丸く、右には似たような色の長いソファーがある。──沙稀イサキは、その対角線上にいる。
 その奥を見れば、更に部屋はあるようで──そう見渡して、恭良ユキヅキは初めて沙稀イサキの部屋に入ったと気づく。
 普段の沙稀イサキはどこか無機質に思えていたのに、そうではなく。室内は無機質というより、漂う空気から生活感を感じとることができて。
 狭くはないが、そこまで広くもない。なのになぜか。ここに、このままいたくなる。
 ラグはふんわりと見えて。淡い色なのに、汚れず。部屋に敷いたときのまま、きれいなのだろう。
ユキ姫?」
 呼ばれて驚けば、もう支度は終わったようで。目の前に沙稀イサキが待っていた。
「あ、うん……行こうか」
 一度閉めたドアノブに手を伸ばすと、沙稀イサキが止めてくる。ドキリとして思わず手を戻すと、
「迂闊でした。もしかしたら、誰かに見られてしまったかもしれないですね」
 と言う。
 けれど、恭良ユキヅキは事の重大さをいまいち把握できない。それは、沙稀イサキに伝わったようで。
「もし、誰かに何かを言われても……俺が対応をしますので。申し訳ありませんが、ユキ姫は聞いていないフリをしていてくれませんか?」
『通常の沙稀イサキだ』と恭良ユキヅキは思って。ただそれだけで、言葉を理解しないまま恭良ユキヅキはうなづいた。

 沙稀イサキの部屋を出ると案の定、数人の剣士に見られたようで。その人たちと沙稀イサキが何やら話していたが、恭良ユキヅキにはあまり耳に入ってこなかった。ただ、
「こういうことは、きちんと順を追って言えることから、言えるようになってから話すから。面白おかしい噂話にはしてくれるな」
 と沙稀イサキが言っているのだけは、ハッキリと聞こえた。多分、沙稀イサキは明日になったら。姫の護衛は解任されたとだけ話すのだろう。



 そうこうして夜になり。今度は沙稀イサキ恭良ユキヅキの部屋に来た。
 沙稀イサキ恭良ユキヅキの部屋に入るのは初めてではない。今までも何回か用があって恭良ユキヅキが部屋に通したことがある。
 彼女のように汚れない白が基調の、レースが可憐を引き立てる部屋。
「お風呂、お先にどうぞ」
 恭良ユキヅキは無邪気に言う。しかし、言われた方は、何とも返答しにくそうだ。
 だからこそ、恭良ユキヅキはちょっと悪ふざけをしたくなった。
「それとも……一緒に入る?」
 単に冗談だ。
 けれど、沙稀イサキはその言葉をしっかりと聞いてすぐさま首を横に振る。
「いえ。では、お言葉に甘えて先に入ってきます」
 ハッキリキッパリ断言すると、沙稀イサキは自らの言葉を置き去りに、さっさと風呂場へと行ってしまう。
「そこまで嫌がらなくてもいいのに……」
 消えた背中の行方を見ながら恭良ユキヅキは呟く。同時に、沙稀イサキの敬語は崩れないものだと拗ねた。

 沙稀イサキが風呂に入って間もなくのこと。恭良ユキヅキも風呂の用意をしてしまおうと引き出しの前へ向かう。
 今日の出来事を回想し、いい夢を見たかのようにうっとりし、頬を淡くそめて──彼女は楽しげに用意をする。沙稀イサキを見て、出会ってから何年が経ったか。憧れに手を伸ばしてはいけないと何年かは過ごし。けれど、伸ばして触れてからも、手は届かない存在だった。
 そんな風にずっと憧れていた人と、これから一緒になれる。それが、夢のようで。恭良ユキヅキはほうっとため息をもらす。その姿は、傍から見れば恋する乙女そのもの。

 カチャリと、風呂場の扉が開く音が聞こえた。夢心地の恭良ユキヅキが現実に戻ってくると、沙稀イサキはすでに部屋に戻ってきている。なんともラフな格好で、ぬれた長い髪をタオルで無造作に拭いていて。恭良ユキヅキはドキリとした。
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