52 / 376
代償と柵《シガラミ》
【32】柵《シガラミ》(1)
しおりを挟む
鴻嫗城を出た忒畝は、悠穂とともに絢朱へと向かう。
悠穂は時折、鴻嫗城を振り返る。衝撃的なことがあった。気持ちが揺れているのかもしれない。
日はまだ高い。悠穂がゆっくり歩いていても、夕刻の船に乗れそうだ。
「ねぇ、お兄ちゃん」
低い門を通り過ぎ、風が木々を揺らしてざわめく中で、幼さの残る声が風に乗る。忒畝は思考を中断して悠穂を見た。
「お母さんは? 確かにいたの!」
母を探しに戻りたいという、苦しい思い。忒畝は初めて悠穂の心残りを知る。
「そうだったのか……僕は会えなかった」
忒畝は竜称としか会わなかった。あの見せしめだけ。脳裏で悲劇が再現される。
──何もできなかった。
過去には戻れない。それならば、今は今、できることをするしかない。
「今は帰ろう。悠穂には体をゆっくり休めてほしい」
悔しい思いとは裏腹に、やさしい口調で労わる。
悠穂は納得できない表情を浮かべたが、悠穂自身、単にわがままだとすでに理解はしている。勝手に家を出て、結局、四戦獣を止めることはできなかった。忒畝に迷惑と心配をかけただけだった。
悠穂にも悠穂の悔しい思いがあるのだろう。瞳を潤ませて、忒畝の左手を強く握る。
忒畝はやさしく握り返す。大切な妹だが、娘のように大事な存在。
帰ろう──言葉にこそしなかったが、ふたりは岐路へとしっかり歩き始める。
絢朱へと着き、渡航の手続きを済ませ、忒畝は馨民に連絡を入れていた。悠穂の無事と、これから帰宅する旨を伝える。緊迫感ない、ほんわりとしたやりとりだ。
──四戦獣のことは、話せないな。
出航の時間が迫る。長電話はできない。それに四戦獣のことを話せる覚悟は、まだないと自覚する。
「じゃあ、明日ね」
「待っているわ。気をつけてね」
ありがとうと言い、静かに受話器を置く。
「悠穂、待たせたね」
兄の気遣いに、妹は首を横に振る。
「乗ろ」
鴻嫗城でのことを吹き飛ばすような笑顔。心配をかけたくないと無邪気に振る舞う姿は悠穂らしい。
ふたりは船の乗り口をまたぐ。
忒畝は何気なく腕時間を見る。まもなく十八時。軽く出船の音が鳴り、船はゆっくりと港を発った。
今日の部屋は簡易的な二段ベッドがあるだけの部屋だ。尚且つ、船の乗り口にも近く、乗客の賑やかな声が時折聞こえる。部屋のランクや位置を気にしないのが、なんとも忒畝らしい。もちろん、妹は慣れっこだ。
いや、二十歳になっても、平気で妹と同室にしてしまう兄を心配している節はあるかもしれないが。
忒畝は上着を脱ぐ。忒畝にとって上着は、君主という鎧のようなものだ。
「母さんは……どうだった? 元気だった?」
母との思い出は少ない。忒畝が三歳のとき、突然、姿を消した母。悠穂は一歳のときのことだ。悠穂にとって母との思い出は、皆無に等しいかもしれない。だからこそ、母を求めた。その気持ちは、忒畝にもよくわかる。
「うん……。でも私のこと、わからなかったみたい。ボーっとしてて、ほとんどひとりの女の人と一緒にいた」
やきもち──とは、違う。さみしいと言いたげな表情だ。
「きれいな人だったよ、お母さんと一緒にいた人。龍声って呼ばれてた」
さみしさを隠すように笑う。その笑みは痛々しい。
ベッドに座る悠穂のとなりに、忒畝は座る。
「龍声?」
「うん」
『龍声』──それは、知らない名だ。四戦獣の記録には『竜称』『邑樹』『時林』そして、母を示す『刻水』の四人しかない。
「あの城で、私はずっとお母さんを追っていたの。そうしたら、お母さんはお姫様を連れて行って、邑樹さんと時林さんは……女の人をひどく傷つけてしまった。それで邑樹さんと時林さんは、あの姿のまま命が尽きて……たぶん、時間を取り戻して消えてしまったんだと思う。お母さんは龍声さんと消えてしまったし、私、皆を止めたいと思ったのに、お母さんを救いたいと思って追ったのに、救えなかった」
悠穂は悲しそうに涙を落とす。
忒畝は妹を慰めるように抱き締める。小刻みに震える肩を抱くのは、兄として辛い。頑張ったなんて、かんたんな言葉で済ましたくもない。
──何も知らないままで、普通の女の子として生きてほしいと願うのは、僕のおごりだろうか。
恐らく、悠穂は五人を遠くから見て、名を確認したのだろう。覚醒後の変形した姿の竜称、邑樹、時林、人の形を取り戻したままの母、聖蓮──ではなく、刻水。そして、女悪神の血は封印後途絶え、忒畝たち兄妹以外の他にはいないと思っていたが、実在した少女『龍声』を。
もしかしたら、悠穂は母、聖蓮を追って他の四人に辿り着いたのかもしれない。様子をうかがい、母を救おうとした。けれど、彼女たちは母の仲間だと理解し、どうしたらいいかと迷っていたら、鴻嫗城の襲撃を行ったのではないだろうか。
それにしても、竜称が悠穂の気配に気づかなかったとは思えない。
忒畝は、四戦獣との柵は己だけでいいと思っている。研究所の君主としての責務だとも。
だが、悠穂も感じていると知った。忒畝と同じような気持ちで、『自分たちの責務』だと。
兄としては、巻き込みたくない。女悪神の『力』を継いでしまっている悠穂が心配だ。
普通の女の子としてだけ過ごして欲しい──それが、忒畝の願い。もし、『覚醒』してしまったら、悠穂は、今のこの姿を保てなくなるのだから。
彼女たちの時間は取り戻せない。いや、取り戻したら最後。塵もなく、消え去る。
だからこそ、彼女たちは他人をも巻き込み、時空を隔てるように消えたり、現れたりできるのだろう。時の異物なのだから。
悠穂が落ち着いたころ、ふたりは食堂に行き、夕食を済ませる。
「おいしー!」
立ち直りがはやいのが悠穂のいいところだ。忒畝にもやわらかい表情が戻る。
悠穂は時折、鴻嫗城を振り返る。衝撃的なことがあった。気持ちが揺れているのかもしれない。
日はまだ高い。悠穂がゆっくり歩いていても、夕刻の船に乗れそうだ。
「ねぇ、お兄ちゃん」
低い門を通り過ぎ、風が木々を揺らしてざわめく中で、幼さの残る声が風に乗る。忒畝は思考を中断して悠穂を見た。
「お母さんは? 確かにいたの!」
母を探しに戻りたいという、苦しい思い。忒畝は初めて悠穂の心残りを知る。
「そうだったのか……僕は会えなかった」
忒畝は竜称としか会わなかった。あの見せしめだけ。脳裏で悲劇が再現される。
──何もできなかった。
過去には戻れない。それならば、今は今、できることをするしかない。
「今は帰ろう。悠穂には体をゆっくり休めてほしい」
悔しい思いとは裏腹に、やさしい口調で労わる。
悠穂は納得できない表情を浮かべたが、悠穂自身、単にわがままだとすでに理解はしている。勝手に家を出て、結局、四戦獣を止めることはできなかった。忒畝に迷惑と心配をかけただけだった。
悠穂にも悠穂の悔しい思いがあるのだろう。瞳を潤ませて、忒畝の左手を強く握る。
忒畝はやさしく握り返す。大切な妹だが、娘のように大事な存在。
帰ろう──言葉にこそしなかったが、ふたりは岐路へとしっかり歩き始める。
絢朱へと着き、渡航の手続きを済ませ、忒畝は馨民に連絡を入れていた。悠穂の無事と、これから帰宅する旨を伝える。緊迫感ない、ほんわりとしたやりとりだ。
──四戦獣のことは、話せないな。
出航の時間が迫る。長電話はできない。それに四戦獣のことを話せる覚悟は、まだないと自覚する。
「じゃあ、明日ね」
「待っているわ。気をつけてね」
ありがとうと言い、静かに受話器を置く。
「悠穂、待たせたね」
兄の気遣いに、妹は首を横に振る。
「乗ろ」
鴻嫗城でのことを吹き飛ばすような笑顔。心配をかけたくないと無邪気に振る舞う姿は悠穂らしい。
ふたりは船の乗り口をまたぐ。
忒畝は何気なく腕時間を見る。まもなく十八時。軽く出船の音が鳴り、船はゆっくりと港を発った。
今日の部屋は簡易的な二段ベッドがあるだけの部屋だ。尚且つ、船の乗り口にも近く、乗客の賑やかな声が時折聞こえる。部屋のランクや位置を気にしないのが、なんとも忒畝らしい。もちろん、妹は慣れっこだ。
いや、二十歳になっても、平気で妹と同室にしてしまう兄を心配している節はあるかもしれないが。
忒畝は上着を脱ぐ。忒畝にとって上着は、君主という鎧のようなものだ。
「母さんは……どうだった? 元気だった?」
母との思い出は少ない。忒畝が三歳のとき、突然、姿を消した母。悠穂は一歳のときのことだ。悠穂にとって母との思い出は、皆無に等しいかもしれない。だからこそ、母を求めた。その気持ちは、忒畝にもよくわかる。
「うん……。でも私のこと、わからなかったみたい。ボーっとしてて、ほとんどひとりの女の人と一緒にいた」
やきもち──とは、違う。さみしいと言いたげな表情だ。
「きれいな人だったよ、お母さんと一緒にいた人。龍声って呼ばれてた」
さみしさを隠すように笑う。その笑みは痛々しい。
ベッドに座る悠穂のとなりに、忒畝は座る。
「龍声?」
「うん」
『龍声』──それは、知らない名だ。四戦獣の記録には『竜称』『邑樹』『時林』そして、母を示す『刻水』の四人しかない。
「あの城で、私はずっとお母さんを追っていたの。そうしたら、お母さんはお姫様を連れて行って、邑樹さんと時林さんは……女の人をひどく傷つけてしまった。それで邑樹さんと時林さんは、あの姿のまま命が尽きて……たぶん、時間を取り戻して消えてしまったんだと思う。お母さんは龍声さんと消えてしまったし、私、皆を止めたいと思ったのに、お母さんを救いたいと思って追ったのに、救えなかった」
悠穂は悲しそうに涙を落とす。
忒畝は妹を慰めるように抱き締める。小刻みに震える肩を抱くのは、兄として辛い。頑張ったなんて、かんたんな言葉で済ましたくもない。
──何も知らないままで、普通の女の子として生きてほしいと願うのは、僕のおごりだろうか。
恐らく、悠穂は五人を遠くから見て、名を確認したのだろう。覚醒後の変形した姿の竜称、邑樹、時林、人の形を取り戻したままの母、聖蓮──ではなく、刻水。そして、女悪神の血は封印後途絶え、忒畝たち兄妹以外の他にはいないと思っていたが、実在した少女『龍声』を。
もしかしたら、悠穂は母、聖蓮を追って他の四人に辿り着いたのかもしれない。様子をうかがい、母を救おうとした。けれど、彼女たちは母の仲間だと理解し、どうしたらいいかと迷っていたら、鴻嫗城の襲撃を行ったのではないだろうか。
それにしても、竜称が悠穂の気配に気づかなかったとは思えない。
忒畝は、四戦獣との柵は己だけでいいと思っている。研究所の君主としての責務だとも。
だが、悠穂も感じていると知った。忒畝と同じような気持ちで、『自分たちの責務』だと。
兄としては、巻き込みたくない。女悪神の『力』を継いでしまっている悠穂が心配だ。
普通の女の子としてだけ過ごして欲しい──それが、忒畝の願い。もし、『覚醒』してしまったら、悠穂は、今のこの姿を保てなくなるのだから。
彼女たちの時間は取り戻せない。いや、取り戻したら最後。塵もなく、消え去る。
だからこそ、彼女たちは他人をも巻き込み、時空を隔てるように消えたり、現れたりできるのだろう。時の異物なのだから。
悠穂が落ち着いたころ、ふたりは食堂に行き、夕食を済ませる。
「おいしー!」
立ち直りがはやいのが悠穂のいいところだ。忒畝にもやわらかい表情が戻る。
0
お気に入りに追加
37
あなたにおすすめの小説
王が気づいたのはあれから十年後
基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。
妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。
仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。
側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。
王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。
王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。
新たな国王の誕生だった。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
もう死んでしまった私へ
ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。
幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか?
今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!!
ゆるゆる設定です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる