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譲れないもの
【17】決意(1)
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混乱しているような瑠既の声を聞き、大臣は落ち着かせようとする。
「大丈夫です。私が戻って来たからには、何とあろうが沙稀様をお守りします! 瑠既様は、このまま鐙鷃城に身を隠してください」
大臣の言葉に瑠既は涙を堪えてうなづく。
「誄姫に会いに何度も行ってますから、一人でも行けますね? 遠くはないですから、大丈夫ですね?」
まだ七歳。心配する大臣に対し、何度も瑠既はうなづいた。
「俺は大丈夫。だから、沙稀を……沙稀を絶対に助けて!」
大臣は瑠既の頭をなで、やさしく微笑む。
「はい、何があろうと必ず。……お気をつけて。鴻嫗城は守ってみせます。そして、必ず貴男を、鐙鷃城へお迎えに上がります」
瑠既は大臣の言葉を信じ、両手を強く握る。そして、体に鞭を打ち鐙鷃城へと走り出した。
そう、確かに鐙鷃城へと向かっていたはずだった。無我夢中で走り、体力は疾うに限界で、意識は朦朧としていた。
朦朧と意識を戻す。目覚めは最悪だ。
『鴻嫗城の血を受け継ぐ者は、真に愛し合う人との間に授かる初めての子が女の子だと言われているの』
混濁した意識の中で、ふと、物心がついたころに大好きな祖母から聞いた話を思い出す。代々、姫が鴻嫗城を継いできた理由だと祖母は言い、他にも鴻嫗城にまつわる話をいくつも聞いた。
あの男がどれほど知っているかはわからない。まったく何も知らないのかもしれない。特に、姫が継いできた理由を知らないのなら、よけいに双子を邪魔だと思っただろう。母の血を継いでいるのだから。
あの男には連れ子がいた。女の赤ん坊が。そのちいさな存在が、瑠既たちには大きな不安だった。母と結婚する相手だと大臣から紹介を受けたとき、いずれその娘が後継ぎになるのかもしれないと漠然と思ったものだ。
──沙稀。
昨日の、背を向けて走って行った姿を思い出す。
変わっていない。昔、あの男を紹介されたあと、弟は同じことを思ったにも関わらず、何も言わずにすんなりとそのちいさな存在をかわいがった。瑠既には受けがたく、信じられなかったことだった。
──絶対にあんな奴の娘に継がせるようなことはさせない。
──ああ、あの日は星になった祖母にそう誓いながら必死に走っていたんだっけ。
祖母から名に託された願いを思い出す。城を継ぐ者として示すかのように、祖母の名『留』を基にしてつけられた。
弟を後継者に決めたのは、母だ。出来のいい弟を母は選んだと思ったが、ただ、瑠既が幼いころに婚約した姫がひとり娘だからと母は言った。
思い出さないようにとしていた過去のふたがあき、記憶はあふれて次々に思い出す。
母が未婚で亡くなった時点で、本来は王にもその娘にも継承権はいかない。母との繋がりがまったくないのだから。──だが、母が亡くなってすぐに、あの男は王だと地位を偽った。あの男はズル賢く、汚い人間に思えた。母の死すら、手を加えたのではと疑ったものだ。
──あの日、別々の部屋で眠らなければ。
母が亡くなってから、漠然と感じていた身の危険。不安は的中し、あの日がきた。──そして、鴻嫗城で消えたのは、継承権を残したままの沙稀だった。
鴻嫗城は世界に君臨する城。いくら違う大陸にいても、その情報を目にしないわけではなかった。綺に身を置いてから、鴻嫗城の記事は何度も見かけた。『恭良』と目にして、あの男の娘だと検討はついた。載っている笑顔の写真を見て、心に荒波が立ったものだ。
逆に『沙稀』と見たときは、目を疑った。髪の毛の色も、瞳の色も違う。その上、年齢まで違っていて、同名の別人だと思うしかなかった。だが、昨日、本人を目の前にして。弟で間違いなかったと確信した。
──昨日、沙稀は誰に『はい』と返事をしていたのだろう。まさか、恭良に? 髪の毛と瞳の色は? 年齢は?
浮かんでくるのは、疑問ばかりだ。
──話がしたい。
──でも、帰れない。俺がいるべきところは、あそこじゃない。
──沙稀はあそこにいた。あそこの剣士として。年齢も身分も違う存在として。きっと、今の沙稀には継承権がない。
──俺は、どうしたらいいんだろう。沙稀は俺とは違う。多分、自ら放棄した訳じゃない。それなら、沙稀に継承権を取り戻させたい。一度でも、俺が戻れば。一度でも。それを今更、俺にできるのか?
鴻嫗城から鐙鷃城へと走り、気づいたときには見知らぬところにいた。帰り道もわからないまま歩いたが、気力も途切れそうで休めるところを探した。身を隠しても、安心できるところを。
目についたのは港に停まっていた船だった。少し休むだけのつもりが、眠ってしまっていた。そして、目を覚ましたときには楓珠大陸にいた。
それから何があったのかは、言えることではない。忘れたくても、忘れられないが、思い出したくない。
ただ、言えるのは生きるのに必死だっただけだ。食事をしなければ、飢えて死んでしまう。食べ物をもらうためには、従うしかなかった。
その過去をたった一言だけでも言えたのは、倭穏だ。
叔は知っている。ただ、それは気づかれただけ。綺に来て間もないころの行動で。叔は叱ってくれて、以降、何もなかったようにしてくれている。そうして、瑠既には、普通と言える日常がやってきた。店を手伝うようになり、暦を目にしたとき、十四歳になっていたと知った。──生家を離れてから、ずい分と年月は流れていた。
綺での日々は平和そのものだった。うまく話せなくても、叔も倭穏も明るく話してくれ、名前くらいしか文字が書けなくても、叔は教えてくれたし、倭穏は一緒に覚えようと言ってくれた。
叔も倭穏も一緒にいて、店を手伝うことが日常化して、これが普通の日常だと感じて、綺に来る前の断片的な日々を改めて異常だと実感し、無感情でいようと押さえつけていた感情が瑠既を責め立てた。
ずっしりと感じた、年月の重み。生きていれば、いつかは生家に帰れるときがくると信じ、地獄の日々を流し続けてきた。長い髪が元凶だったにも関わらず、切らずに生家にしがみつき、固執し、なんとか心を支えてきた。しかし、平和と非日常の記憶に挟まれ、瑠既は婚約者のことも、生家のことも、ここで生き直すために、過去と決別することを選んだ。
夜が明けた。となりでは、倭穏が静かな寝息を立ててぐっすりと眠っている。そっと頬を触れれば、やわらかい弾力とあたたかさが伝わってくる。
「大丈夫です。私が戻って来たからには、何とあろうが沙稀様をお守りします! 瑠既様は、このまま鐙鷃城に身を隠してください」
大臣の言葉に瑠既は涙を堪えてうなづく。
「誄姫に会いに何度も行ってますから、一人でも行けますね? 遠くはないですから、大丈夫ですね?」
まだ七歳。心配する大臣に対し、何度も瑠既はうなづいた。
「俺は大丈夫。だから、沙稀を……沙稀を絶対に助けて!」
大臣は瑠既の頭をなで、やさしく微笑む。
「はい、何があろうと必ず。……お気をつけて。鴻嫗城は守ってみせます。そして、必ず貴男を、鐙鷃城へお迎えに上がります」
瑠既は大臣の言葉を信じ、両手を強く握る。そして、体に鞭を打ち鐙鷃城へと走り出した。
そう、確かに鐙鷃城へと向かっていたはずだった。無我夢中で走り、体力は疾うに限界で、意識は朦朧としていた。
朦朧と意識を戻す。目覚めは最悪だ。
『鴻嫗城の血を受け継ぐ者は、真に愛し合う人との間に授かる初めての子が女の子だと言われているの』
混濁した意識の中で、ふと、物心がついたころに大好きな祖母から聞いた話を思い出す。代々、姫が鴻嫗城を継いできた理由だと祖母は言い、他にも鴻嫗城にまつわる話をいくつも聞いた。
あの男がどれほど知っているかはわからない。まったく何も知らないのかもしれない。特に、姫が継いできた理由を知らないのなら、よけいに双子を邪魔だと思っただろう。母の血を継いでいるのだから。
あの男には連れ子がいた。女の赤ん坊が。そのちいさな存在が、瑠既たちには大きな不安だった。母と結婚する相手だと大臣から紹介を受けたとき、いずれその娘が後継ぎになるのかもしれないと漠然と思ったものだ。
──沙稀。
昨日の、背を向けて走って行った姿を思い出す。
変わっていない。昔、あの男を紹介されたあと、弟は同じことを思ったにも関わらず、何も言わずにすんなりとそのちいさな存在をかわいがった。瑠既には受けがたく、信じられなかったことだった。
──絶対にあんな奴の娘に継がせるようなことはさせない。
──ああ、あの日は星になった祖母にそう誓いながら必死に走っていたんだっけ。
祖母から名に託された願いを思い出す。城を継ぐ者として示すかのように、祖母の名『留』を基にしてつけられた。
弟を後継者に決めたのは、母だ。出来のいい弟を母は選んだと思ったが、ただ、瑠既が幼いころに婚約した姫がひとり娘だからと母は言った。
思い出さないようにとしていた過去のふたがあき、記憶はあふれて次々に思い出す。
母が未婚で亡くなった時点で、本来は王にもその娘にも継承権はいかない。母との繋がりがまったくないのだから。──だが、母が亡くなってすぐに、あの男は王だと地位を偽った。あの男はズル賢く、汚い人間に思えた。母の死すら、手を加えたのではと疑ったものだ。
──あの日、別々の部屋で眠らなければ。
母が亡くなってから、漠然と感じていた身の危険。不安は的中し、あの日がきた。──そして、鴻嫗城で消えたのは、継承権を残したままの沙稀だった。
鴻嫗城は世界に君臨する城。いくら違う大陸にいても、その情報を目にしないわけではなかった。綺に身を置いてから、鴻嫗城の記事は何度も見かけた。『恭良』と目にして、あの男の娘だと検討はついた。載っている笑顔の写真を見て、心に荒波が立ったものだ。
逆に『沙稀』と見たときは、目を疑った。髪の毛の色も、瞳の色も違う。その上、年齢まで違っていて、同名の別人だと思うしかなかった。だが、昨日、本人を目の前にして。弟で間違いなかったと確信した。
──昨日、沙稀は誰に『はい』と返事をしていたのだろう。まさか、恭良に? 髪の毛と瞳の色は? 年齢は?
浮かんでくるのは、疑問ばかりだ。
──話がしたい。
──でも、帰れない。俺がいるべきところは、あそこじゃない。
──沙稀はあそこにいた。あそこの剣士として。年齢も身分も違う存在として。きっと、今の沙稀には継承権がない。
──俺は、どうしたらいいんだろう。沙稀は俺とは違う。多分、自ら放棄した訳じゃない。それなら、沙稀に継承権を取り戻させたい。一度でも、俺が戻れば。一度でも。それを今更、俺にできるのか?
鴻嫗城から鐙鷃城へと走り、気づいたときには見知らぬところにいた。帰り道もわからないまま歩いたが、気力も途切れそうで休めるところを探した。身を隠しても、安心できるところを。
目についたのは港に停まっていた船だった。少し休むだけのつもりが、眠ってしまっていた。そして、目を覚ましたときには楓珠大陸にいた。
それから何があったのかは、言えることではない。忘れたくても、忘れられないが、思い出したくない。
ただ、言えるのは生きるのに必死だっただけだ。食事をしなければ、飢えて死んでしまう。食べ物をもらうためには、従うしかなかった。
その過去をたった一言だけでも言えたのは、倭穏だ。
叔は知っている。ただ、それは気づかれただけ。綺に来て間もないころの行動で。叔は叱ってくれて、以降、何もなかったようにしてくれている。そうして、瑠既には、普通と言える日常がやってきた。店を手伝うようになり、暦を目にしたとき、十四歳になっていたと知った。──生家を離れてから、ずい分と年月は流れていた。
綺での日々は平和そのものだった。うまく話せなくても、叔も倭穏も明るく話してくれ、名前くらいしか文字が書けなくても、叔は教えてくれたし、倭穏は一緒に覚えようと言ってくれた。
叔も倭穏も一緒にいて、店を手伝うことが日常化して、これが普通の日常だと感じて、綺に来る前の断片的な日々を改めて異常だと実感し、無感情でいようと押さえつけていた感情が瑠既を責め立てた。
ずっしりと感じた、年月の重み。生きていれば、いつかは生家に帰れるときがくると信じ、地獄の日々を流し続けてきた。長い髪が元凶だったにも関わらず、切らずに生家にしがみつき、固執し、なんとか心を支えてきた。しかし、平和と非日常の記憶に挟まれ、瑠既は婚約者のことも、生家のことも、ここで生き直すために、過去と決別することを選んだ。
夜が明けた。となりでは、倭穏が静かな寝息を立ててぐっすりと眠っている。そっと頬を触れれば、やわらかい弾力とあたたかさが伝わってくる。
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