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『第一部 神話と伝説』 伝説と伝承
【9】真逆の存在
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静寂が部屋を包んでいた。両手も両足も力が入らず、ベッドの上でぼんやり薄暗い天井を見ている。室内はシンとしているにも関わらず、凪裟の胸は騒がしく音を立てていた。それが不思議で、気持ちがぐちゃぐちゃになり、わからなくなる。
胸が騒がしくなったのは、捷羅と羅凍をそれぞれの部屋に案内したときだ。
「こちらが捷羅様で、奥が羅凍の部屋です。ゆっくりお休みになってください」
そう言って、鍵を渡そうとしたとき、その手を捷羅が両手で包んだ。そして、ひざまずいて凪裟をジッと見つめる。
「離れがたく、もっとお話したい、一緒にいたいというのが本音です。ですが、今日のところは部屋へのお誘いを控えておきます」
凪裟は目の前で何が起こっているのか理解できず、言葉を発することも身動きをとることもできずにいた。すると、捷羅は凪裟の手を引き寄せ、唇をそっと添えた。手がゆるみ、捷羅の手のひらに鍵がポトリと落ちる。
「次回、このような機会がありましたら、そのときは遠慮せずにお誘い申し上げます。そのときには、よいお返事をくださいね」
微笑む捷羅がスッと立ち上がる。凪裟は呆然としていたが、目が離せなかった。見上げる微笑みは、とてもやさしくて。
「大丈夫? 凪裟、兄上のこういう言動は冗談半分くらいに受け取っておいた方がいいよ」
呆れるような羅凍の声に、凪裟《ナギサ》は我に返る。羅凍の言う通りだと。
捷羅はフェミニストで有名だ。それはもちろん、本人の耳に入っても問題がない表現であって、実際は女性であれば誰にでも甘い声をかけるし、さりげないボディタッチも少なくない。とにかく、色が絡む噂話は多い。
だからこそ、凪裟は捷羅を邪険にしたり、相手にしなかったりした。だか、それは捷羅の予想の範囲内だったのか。しつこい一方、引くときは妙にあっさりしていて、罪悪感にかられて連絡をしてしまった。
連絡をしたからといって、捷羅に気があったわけではない。ただ、罪悪感があったのと、噂のような悪い人ではないような気がしただけだ。それで、どんな人なのか、少しなら話してみてもいいと思っただけだった。話はあれよあれよと進んでいって、交際するという話にまでなってしまったが。
しかし、いつの間にか──気づけば火がついたように体中が熱くなっていた。
「ほら、兄上。宣言通り、おとなしく部屋に入って」
「はい」
羅凍に従い、捷羅は部屋へと入っていく。凪裟が声を上げようとした瞬間、
「おやすみなさい」
捷羅はおだやかに笑って、手を振った。
それからだ。凪裟の胸はうるさくてかなわない。凪裟《ナギサ》自身、おかしいとしか言えない。
「羅凍と双子……だなんて、信じられない人だなぁ」
今まで羅凍とは何度も話してきたが、それは沙稀が羅凍と仲がいいからというだけの理由。出生をいきなり聞いてきた羅凍の印象は悪かった。まして、異性として見たことはないし、まわりで騒がれるように美男子だと思ったこともない。
失礼な人だからと気を遣わずに何度も話しているうちに、なんとなく友人になった。羅凍は、剣士として沙稀を尊敬していると知ると、自然と打ち解けていた。今は憧れの存在が同じで、憧れる人のよさを理解してくれる友、同志のようなものだ。
しかし、捷羅は違う。沙稀や羅凍のように、剣を持つこともないし、硬派なイメ─ジなど微塵もない。真逆の存在だ。
「私、沙稀のどこが好きだったんだろう」
悩める凪裟は、記憶をさかのぼる。──時間は逆再生され、何度か停止し、結局は初めて出会ったときまで巻き戻しされていく。
「少しは慣れましたか」
思わず凪裟は振り返る。当時、十一歳。鴻嫗城に身を寄せて間もなくのころだった。
「迷ってしまって……」
話しかけてきたのは、幼い少年だった。前髪は長く、うしろの髪はゆるく束ねられている。白を基調とした長袖の洋装で、腰には長剣が見えた。
ただでさえ広い城。且つ、複雑な造りに凪裟はなじめなかった。声が詰まり、視界がにじんで不安が押し寄せる。
「俺が案内いたします。ご安心下さい」
少年は微笑んだ。それで凪裟はこの迷宮から出られると安堵した。
実際に歩き始めて、凪裟は驚いた。迷いなく、わかりやすい道を少年は進んで行く。鴻嫗城に来たとき大臣が案内してくれたが、これほどスム─ズではなかった。少年には道しるべでも見えているのかと思うほどで、凪裟は夢なのかとぼんやり少年を見つめた。
ほどなくして正面の入り口に着き、凪裟は口を開く。
「私は……凪裟と言います」
うつむいていたが、顔を上げ少年を見る。すると、少年はまっすぐと凪裟を見ていた。
「俺は、沙稀と申します」
まだ幼いにも関わらず、しっかりとした声と態度に凪裟のか弱い瞳は揺れる。
「私……城が落ちて……」
誰にも言えなかった悲しみ。決して言いたいことではないが、膨らんでいく悲しみは突いて出た。しかし、声は詰まり消えてしまった。その直後だ。
「それは、お辛いですね」
沙稀はわざと言葉を遮るように言った。
凪裟は驚いた。『辛かったね』と慰めてくれる人はいたが、『今も辛い』と言われることはなかった。
急激に涙はあふれ始める。
「ごめんなさい」
涙を流し続ける凪裟から、そっと離れるように沙稀は数歩出入口に向かった。そして、高い天井を見上げる。
「しっかりと泣けばいいんです」
その言葉は、凪裟の心奥深くまで届いた。──城が墜ちて、凪裟は初めて声を大きくして泣いた。
凪裟の涙が落ち着いたころ、ふたりはいくつか言葉を交わした。沙稀は九歳であること、剣士としてここにきて間もないということを話してくれたが、出身の話をすると、沙稀は話を流した。
「ここであれば……部屋に戻る道はわかりますか?」
凪裟は行きすぎた話をしてしまったと、慌てて礼を言う。
「ありがとう」
『それでは』と言うように、沙稀は深く頭を下げた。
凪裟はもっと沙稀と話したかった。できれば、明日や明後日も。だからこそ、つい言ってしまった。
「私と同じくここに来たばかりなのに……沙稀は城内をくわしく知っているのね」
一瞬、沙稀はドキリとしたようだった。急に頭が上がり、
「出すぎた真似をしました。俺のことは……忘れて下さい」
震えるほどに強く握られていた左手。
凪裟は困惑した。ただ、仲よくなるきっかけがほしかっただけなのに、触れてはいけないことを言ってしまったようで。
それからすぐ、沙稀は身をひるがえして駆け出した。暗闇に姿を消えるように。
次に凪裟が沙稀と話したのは、恭良の護衛になってからだった。それまでの間、凪裟は稽古場で沙稀を見つけたり、無茶をするという噂を耳にしたが、声をかけることはできなかった。
「頑張る沙稀の姿を見て、私も頑張れたの。ありがとう」
再会したときの、第一声だ。手を差し伸べて、
「これから、よろしくね」
そう言うのが精一杯だった。
姉妹のように一緒にいたふたりの間に、沙稀がいることが増えた。いや、次第に恭良と一緒にいる時間は減った。
妹のような存在を取られる感覚と、好きな人が別の女性と時間をともに過ごす嫉妬。凪裟の胸は焦げて、悲鳴を上げてしまいそうだった。
恭良に打ち明けたら、幸い『応援する』と言ってくれたが、沙稀に気持ちを伝えても振り向いてはもらえなかった。
初めて会ったあのとき、忘れてと言われたが忘れられず、いつの間にか探して、目で追っていた。いつから好きだったのかと言われたら、初めて会ったときからとしか答えられない。沙稀は己の存在を記憶から消してほしいと願ったが、消えることはなかった。
「どこが好きかなんて……全部が好きだったんだよ。ずっと。……私、バカだな。甘やかしてくれる捷羅様の胸に飛び込もうと、逃げようとしていたのに。好きになるのが怖いんだ」
押されることも、恋愛も失恋も。慣れていない凪裟は、しっかりと泣こうと決めた。沙稀を想う気持ちに区切りをきちんとつけるために。捷羅をきちんと受け入れられるようにするために。
しっかりと泣けばいい──それは、沙稀が教えてくれた気持ちの消化方法。さようならと、ありがとうを込めて、美しい雫はいくつもいくつも流れ落ちた。
胸が騒がしくなったのは、捷羅と羅凍をそれぞれの部屋に案内したときだ。
「こちらが捷羅様で、奥が羅凍の部屋です。ゆっくりお休みになってください」
そう言って、鍵を渡そうとしたとき、その手を捷羅が両手で包んだ。そして、ひざまずいて凪裟をジッと見つめる。
「離れがたく、もっとお話したい、一緒にいたいというのが本音です。ですが、今日のところは部屋へのお誘いを控えておきます」
凪裟は目の前で何が起こっているのか理解できず、言葉を発することも身動きをとることもできずにいた。すると、捷羅は凪裟の手を引き寄せ、唇をそっと添えた。手がゆるみ、捷羅の手のひらに鍵がポトリと落ちる。
「次回、このような機会がありましたら、そのときは遠慮せずにお誘い申し上げます。そのときには、よいお返事をくださいね」
微笑む捷羅がスッと立ち上がる。凪裟は呆然としていたが、目が離せなかった。見上げる微笑みは、とてもやさしくて。
「大丈夫? 凪裟、兄上のこういう言動は冗談半分くらいに受け取っておいた方がいいよ」
呆れるような羅凍の声に、凪裟《ナギサ》は我に返る。羅凍の言う通りだと。
捷羅はフェミニストで有名だ。それはもちろん、本人の耳に入っても問題がない表現であって、実際は女性であれば誰にでも甘い声をかけるし、さりげないボディタッチも少なくない。とにかく、色が絡む噂話は多い。
だからこそ、凪裟は捷羅を邪険にしたり、相手にしなかったりした。だか、それは捷羅の予想の範囲内だったのか。しつこい一方、引くときは妙にあっさりしていて、罪悪感にかられて連絡をしてしまった。
連絡をしたからといって、捷羅に気があったわけではない。ただ、罪悪感があったのと、噂のような悪い人ではないような気がしただけだ。それで、どんな人なのか、少しなら話してみてもいいと思っただけだった。話はあれよあれよと進んでいって、交際するという話にまでなってしまったが。
しかし、いつの間にか──気づけば火がついたように体中が熱くなっていた。
「ほら、兄上。宣言通り、おとなしく部屋に入って」
「はい」
羅凍に従い、捷羅は部屋へと入っていく。凪裟が声を上げようとした瞬間、
「おやすみなさい」
捷羅はおだやかに笑って、手を振った。
それからだ。凪裟の胸はうるさくてかなわない。凪裟《ナギサ》自身、おかしいとしか言えない。
「羅凍と双子……だなんて、信じられない人だなぁ」
今まで羅凍とは何度も話してきたが、それは沙稀が羅凍と仲がいいからというだけの理由。出生をいきなり聞いてきた羅凍の印象は悪かった。まして、異性として見たことはないし、まわりで騒がれるように美男子だと思ったこともない。
失礼な人だからと気を遣わずに何度も話しているうちに、なんとなく友人になった。羅凍は、剣士として沙稀を尊敬していると知ると、自然と打ち解けていた。今は憧れの存在が同じで、憧れる人のよさを理解してくれる友、同志のようなものだ。
しかし、捷羅は違う。沙稀や羅凍のように、剣を持つこともないし、硬派なイメ─ジなど微塵もない。真逆の存在だ。
「私、沙稀のどこが好きだったんだろう」
悩める凪裟は、記憶をさかのぼる。──時間は逆再生され、何度か停止し、結局は初めて出会ったときまで巻き戻しされていく。
「少しは慣れましたか」
思わず凪裟は振り返る。当時、十一歳。鴻嫗城に身を寄せて間もなくのころだった。
「迷ってしまって……」
話しかけてきたのは、幼い少年だった。前髪は長く、うしろの髪はゆるく束ねられている。白を基調とした長袖の洋装で、腰には長剣が見えた。
ただでさえ広い城。且つ、複雑な造りに凪裟はなじめなかった。声が詰まり、視界がにじんで不安が押し寄せる。
「俺が案内いたします。ご安心下さい」
少年は微笑んだ。それで凪裟はこの迷宮から出られると安堵した。
実際に歩き始めて、凪裟は驚いた。迷いなく、わかりやすい道を少年は進んで行く。鴻嫗城に来たとき大臣が案内してくれたが、これほどスム─ズではなかった。少年には道しるべでも見えているのかと思うほどで、凪裟は夢なのかとぼんやり少年を見つめた。
ほどなくして正面の入り口に着き、凪裟は口を開く。
「私は……凪裟と言います」
うつむいていたが、顔を上げ少年を見る。すると、少年はまっすぐと凪裟を見ていた。
「俺は、沙稀と申します」
まだ幼いにも関わらず、しっかりとした声と態度に凪裟のか弱い瞳は揺れる。
「私……城が落ちて……」
誰にも言えなかった悲しみ。決して言いたいことではないが、膨らんでいく悲しみは突いて出た。しかし、声は詰まり消えてしまった。その直後だ。
「それは、お辛いですね」
沙稀はわざと言葉を遮るように言った。
凪裟は驚いた。『辛かったね』と慰めてくれる人はいたが、『今も辛い』と言われることはなかった。
急激に涙はあふれ始める。
「ごめんなさい」
涙を流し続ける凪裟から、そっと離れるように沙稀は数歩出入口に向かった。そして、高い天井を見上げる。
「しっかりと泣けばいいんです」
その言葉は、凪裟の心奥深くまで届いた。──城が墜ちて、凪裟は初めて声を大きくして泣いた。
凪裟の涙が落ち着いたころ、ふたりはいくつか言葉を交わした。沙稀は九歳であること、剣士としてここにきて間もないということを話してくれたが、出身の話をすると、沙稀は話を流した。
「ここであれば……部屋に戻る道はわかりますか?」
凪裟は行きすぎた話をしてしまったと、慌てて礼を言う。
「ありがとう」
『それでは』と言うように、沙稀は深く頭を下げた。
凪裟はもっと沙稀と話したかった。できれば、明日や明後日も。だからこそ、つい言ってしまった。
「私と同じくここに来たばかりなのに……沙稀は城内をくわしく知っているのね」
一瞬、沙稀はドキリとしたようだった。急に頭が上がり、
「出すぎた真似をしました。俺のことは……忘れて下さい」
震えるほどに強く握られていた左手。
凪裟は困惑した。ただ、仲よくなるきっかけがほしかっただけなのに、触れてはいけないことを言ってしまったようで。
それからすぐ、沙稀は身をひるがえして駆け出した。暗闇に姿を消えるように。
次に凪裟が沙稀と話したのは、恭良の護衛になってからだった。それまでの間、凪裟は稽古場で沙稀を見つけたり、無茶をするという噂を耳にしたが、声をかけることはできなかった。
「頑張る沙稀の姿を見て、私も頑張れたの。ありがとう」
再会したときの、第一声だ。手を差し伸べて、
「これから、よろしくね」
そう言うのが精一杯だった。
姉妹のように一緒にいたふたりの間に、沙稀がいることが増えた。いや、次第に恭良と一緒にいる時間は減った。
妹のような存在を取られる感覚と、好きな人が別の女性と時間をともに過ごす嫉妬。凪裟の胸は焦げて、悲鳴を上げてしまいそうだった。
恭良に打ち明けたら、幸い『応援する』と言ってくれたが、沙稀に気持ちを伝えても振り向いてはもらえなかった。
初めて会ったあのとき、忘れてと言われたが忘れられず、いつの間にか探して、目で追っていた。いつから好きだったのかと言われたら、初めて会ったときからとしか答えられない。沙稀は己の存在を記憶から消してほしいと願ったが、消えることはなかった。
「どこが好きかなんて……全部が好きだったんだよ。ずっと。……私、バカだな。甘やかしてくれる捷羅様の胸に飛び込もうと、逃げようとしていたのに。好きになるのが怖いんだ」
押されることも、恋愛も失恋も。慣れていない凪裟は、しっかりと泣こうと決めた。沙稀を想う気持ちに区切りをきちんとつけるために。捷羅をきちんと受け入れられるようにするために。
しっかりと泣けばいい──それは、沙稀が教えてくれた気持ちの消化方法。さようならと、ありがとうを込めて、美しい雫はいくつもいくつも流れ落ちた。
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