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『第一部 神話と伝説』 伝説と伝承
【5】絵本童話(1)
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恭良を宮城研究施設の階段前まで送り、沙稀は城内に戻っていた。真剣が金属の鋭い音を響かせる剣士たちの稽古場、そこに沙稀の姿がある。
鴻嫗城に仕える剣士たちを現在指揮しているのは、沙稀だ。S級剣士の称号を得たときに大臣から引き継いだ。もっともその前、いや、鴻嫗城に仕えるようになったときから、在籍したのは上位だった。その当時、大臣がここの指揮官であり、愛弟子だった沙稀は厚待遇を受けていると妬まれ、力の差を見せつける事態を招くことがしばしばあった。今の沙稀からは考えにくいが、当時としては今の冷静な沙稀の方が考えにくい。力で押さえ込んでしまえば反感を膨らませるだけだが、刺が抜けたのは姫の護衛に就き、しばらくしてからのことだった。
「沙稀様」
真剣をぶつけ合っている最中の声に、沙稀は視線を向ける。声の主は品のある白髪の男──大臣だ。
視線を逸らしたのは、束の間。次の瞬間には訓練相手の数人に視線を戻し、峰で次々に打つ。そして、
「隙が見えたらすかさず、いつでも俺を仕留めるように狙えと言っているだろう! もっと本気になって、俺を殺す気で来い」
と、声で威圧する。
うずくまる剣士たちに、悔しさの色は浮かばない。そんな剣士たちに、沙稀の苛立ちは高まる。だが、荒立った声は上がらず、代わりに出たのはため息だ。
沙稀は大臣の方へと歩く。剣士たちに背を向けて歩いている間も、沙稀の緊張感は剥がれない。わざと剣士たちに背を見せ、反応をうかがっているだけだ。
ふと振り返ったが、沙稀を睨む者も向かってくる者もおらず、それが余計に沙稀を苛立たせた。──もっとも、皆その殺気に慄いているだけなのだが。
「駄目だ。未だ危機感を持つ者が誰一人としていない」
沙稀の小言を、大臣は温和に返す。
「平和になりましたね」
「俺が今の立場になる前とは、大違いだな」
やわらかかった大臣の表情は、苦笑に変わる。
確かに沙稀には、幼いころから多くの戦地に大臣は赴かせた。それも、勝算の見込みがないものまで。且つ、一度や二度の話ではない。
初めのころこそ行くことを強制したが、いつからか志願するようになった。目の前で多くの仲間が息絶え、自らも命の危機に遭ったというのに。それから今度は体がぼろぼろになって動けなくなっても、わずかに動くようになれば戦地へ行くと言いだして、終には大臣が止めた。
あのときの大臣は必死だった。いや、剣士として育てるのに、必死になりすぎていたと気づかされた瞬間だった。あのまま強引に止められなければ、今の平和はなかったかもしれない。あのときの戦いは惨敗だった。
後に完治した沙稀が赴き、完膚なきまでに片付けた。あれが、この大陸の最後の争い。
「いつになったら、ご帰城されるのでしょうね」
ポツリと言った大臣の言葉に、沙稀は無言で大臣を見る。視線が合うと、
「『あの方』です」
と、大臣は言った。沙稀は嘲笑うようにちいさく笑う。
「それはないな」
「そうですか?」
「本人に帰城する気があれば、疾うに帰城しているだろう」
「だからと言って、命がないとも思ってはいらっしゃらない。つまり、ご帰城はされない……ということですか。あの方のご帰城を一番望んでいらっしゃるのは貴男だと思っていました。そうすれば……沙稀様も『先延ばしにしていたこと』をできるでしょう?」
先延ばし──それは二回してきたことだ。一度目は、大臣から延期を告げられ、二回目は自ら断った。ゆえに、本人には先延ばしにしたという自覚はない。
間があいたのは、そのため。意味を理解した沙稀は怪訝に言う。
「俺に結婚する気はない」
強い口調で言ったあと、次第に沙稀は表情を曇らせ、うつむいていく。
「恭姫は……はやく婚約して鴻嫗城の正式な後継者になるべきだ」
「それは、本心ですか?」
大臣の声は沙稀の耳をただ通過する。
「くどい。鴻嫗城に対する想いに偽りはない。それとも……俺の立場では行きすぎた意見か?」
「いいえ。ただ……」
うつむく沙稀の視線は上がらず、大臣は言葉を飲む。沙稀は自分を追い込んでいそうに見えて。
「辛そうですね」
大臣の声に、沙稀の顔は上がった。しかし、大臣を見ようとはしない。
「断ち切りたいだけだ」
切り捨てるように言い、渇を飛ばし稽古へと戻っていく。
決して太くはない、いや、むしろ線の細いうしろ姿を見ながら大臣は、
「それは、『どちら』と私は受け止めていいのでしょうか」
と、独り言を呟く。
沙稀の剣さばきは見事だ。大振りで隙ができやすいのに、そこに入る余地を与えない。──好んで大振りをしているわけではない。沙稀は大振りしかできない、いや、そういう体質になってしまった。大臣は今でも後悔している。十八年前のあのとき、鴻嫗城を離れたことを。
過去をぼんやり見ていた大臣は急速に現実に戻り、目を疑う。先ほどまでの雰囲気を払拭し、沙稀が駆け寄ってきたからだ。
「そうだ、頼みがひとつあった」
「なんです?」
大臣の言葉と同時に、一度、沙稀は後方を確認する。誰も見ていないと判断すると顔を戻し、
「絵本童話を……取ってきてほしい」
と、小声で言う。そのこっそり言われた言葉に、大臣は目を見開いた。
「恭姫に聞きたいと頼まれたんだ。ただ、俺が取りに行くわけにはいかない」
「あそこは私も出入りできるような場所では……」
「誰かに見られたとき、大臣の方がいくらでもごまかせる。絵本童話は忘れ得ないが、現物を見ていただいた方がいいと思うんだ。稽古が終わるころまでに、俺の部屋に置いておいてくれないか」
稽古が終わるのは、昼食を挟んで三時間後だ。時間がないわけではないが、あるわけでもない。
「お言葉を返してもよろしいですか」
「よろしくない。言うことは、だいたいわかる」
過去の絶対的な師弟関係はどこへやら。
言い返す術のない大臣は、無言のまま稽古場を去る。返事はなかったが、沙稀に不安はない。沙稀の頼みだが、もとは恭良の頼みだ。その頼みを大臣が断るとは考えにくい。
そして、案の定、絵本童話は無事に沙稀の部屋に届けられていた。
鴻嫗城に仕える剣士たちを現在指揮しているのは、沙稀だ。S級剣士の称号を得たときに大臣から引き継いだ。もっともその前、いや、鴻嫗城に仕えるようになったときから、在籍したのは上位だった。その当時、大臣がここの指揮官であり、愛弟子だった沙稀は厚待遇を受けていると妬まれ、力の差を見せつける事態を招くことがしばしばあった。今の沙稀からは考えにくいが、当時としては今の冷静な沙稀の方が考えにくい。力で押さえ込んでしまえば反感を膨らませるだけだが、刺が抜けたのは姫の護衛に就き、しばらくしてからのことだった。
「沙稀様」
真剣をぶつけ合っている最中の声に、沙稀は視線を向ける。声の主は品のある白髪の男──大臣だ。
視線を逸らしたのは、束の間。次の瞬間には訓練相手の数人に視線を戻し、峰で次々に打つ。そして、
「隙が見えたらすかさず、いつでも俺を仕留めるように狙えと言っているだろう! もっと本気になって、俺を殺す気で来い」
と、声で威圧する。
うずくまる剣士たちに、悔しさの色は浮かばない。そんな剣士たちに、沙稀の苛立ちは高まる。だが、荒立った声は上がらず、代わりに出たのはため息だ。
沙稀は大臣の方へと歩く。剣士たちに背を向けて歩いている間も、沙稀の緊張感は剥がれない。わざと剣士たちに背を見せ、反応をうかがっているだけだ。
ふと振り返ったが、沙稀を睨む者も向かってくる者もおらず、それが余計に沙稀を苛立たせた。──もっとも、皆その殺気に慄いているだけなのだが。
「駄目だ。未だ危機感を持つ者が誰一人としていない」
沙稀の小言を、大臣は温和に返す。
「平和になりましたね」
「俺が今の立場になる前とは、大違いだな」
やわらかかった大臣の表情は、苦笑に変わる。
確かに沙稀には、幼いころから多くの戦地に大臣は赴かせた。それも、勝算の見込みがないものまで。且つ、一度や二度の話ではない。
初めのころこそ行くことを強制したが、いつからか志願するようになった。目の前で多くの仲間が息絶え、自らも命の危機に遭ったというのに。それから今度は体がぼろぼろになって動けなくなっても、わずかに動くようになれば戦地へ行くと言いだして、終には大臣が止めた。
あのときの大臣は必死だった。いや、剣士として育てるのに、必死になりすぎていたと気づかされた瞬間だった。あのまま強引に止められなければ、今の平和はなかったかもしれない。あのときの戦いは惨敗だった。
後に完治した沙稀が赴き、完膚なきまでに片付けた。あれが、この大陸の最後の争い。
「いつになったら、ご帰城されるのでしょうね」
ポツリと言った大臣の言葉に、沙稀は無言で大臣を見る。視線が合うと、
「『あの方』です」
と、大臣は言った。沙稀は嘲笑うようにちいさく笑う。
「それはないな」
「そうですか?」
「本人に帰城する気があれば、疾うに帰城しているだろう」
「だからと言って、命がないとも思ってはいらっしゃらない。つまり、ご帰城はされない……ということですか。あの方のご帰城を一番望んでいらっしゃるのは貴男だと思っていました。そうすれば……沙稀様も『先延ばしにしていたこと』をできるでしょう?」
先延ばし──それは二回してきたことだ。一度目は、大臣から延期を告げられ、二回目は自ら断った。ゆえに、本人には先延ばしにしたという自覚はない。
間があいたのは、そのため。意味を理解した沙稀は怪訝に言う。
「俺に結婚する気はない」
強い口調で言ったあと、次第に沙稀は表情を曇らせ、うつむいていく。
「恭姫は……はやく婚約して鴻嫗城の正式な後継者になるべきだ」
「それは、本心ですか?」
大臣の声は沙稀の耳をただ通過する。
「くどい。鴻嫗城に対する想いに偽りはない。それとも……俺の立場では行きすぎた意見か?」
「いいえ。ただ……」
うつむく沙稀の視線は上がらず、大臣は言葉を飲む。沙稀は自分を追い込んでいそうに見えて。
「辛そうですね」
大臣の声に、沙稀の顔は上がった。しかし、大臣を見ようとはしない。
「断ち切りたいだけだ」
切り捨てるように言い、渇を飛ばし稽古へと戻っていく。
決して太くはない、いや、むしろ線の細いうしろ姿を見ながら大臣は、
「それは、『どちら』と私は受け止めていいのでしょうか」
と、独り言を呟く。
沙稀の剣さばきは見事だ。大振りで隙ができやすいのに、そこに入る余地を与えない。──好んで大振りをしているわけではない。沙稀は大振りしかできない、いや、そういう体質になってしまった。大臣は今でも後悔している。十八年前のあのとき、鴻嫗城を離れたことを。
過去をぼんやり見ていた大臣は急速に現実に戻り、目を疑う。先ほどまでの雰囲気を払拭し、沙稀が駆け寄ってきたからだ。
「そうだ、頼みがひとつあった」
「なんです?」
大臣の言葉と同時に、一度、沙稀は後方を確認する。誰も見ていないと判断すると顔を戻し、
「絵本童話を……取ってきてほしい」
と、小声で言う。そのこっそり言われた言葉に、大臣は目を見開いた。
「恭姫に聞きたいと頼まれたんだ。ただ、俺が取りに行くわけにはいかない」
「あそこは私も出入りできるような場所では……」
「誰かに見られたとき、大臣の方がいくらでもごまかせる。絵本童話は忘れ得ないが、現物を見ていただいた方がいいと思うんだ。稽古が終わるころまでに、俺の部屋に置いておいてくれないか」
稽古が終わるのは、昼食を挟んで三時間後だ。時間がないわけではないが、あるわけでもない。
「お言葉を返してもよろしいですか」
「よろしくない。言うことは、だいたいわかる」
過去の絶対的な師弟関係はどこへやら。
言い返す術のない大臣は、無言のまま稽古場を去る。返事はなかったが、沙稀に不安はない。沙稀の頼みだが、もとは恭良の頼みだ。その頼みを大臣が断るとは考えにくい。
そして、案の定、絵本童話は無事に沙稀の部屋に届けられていた。
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