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夢か幻か
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ふわふわと雲に乗ってるような、お風呂に入っているような心地よさの中、鼻先に触れた香りに口元が緩む。控えめで優しいニオイツバキの匂い。
しかし、思い出したくない記憶がよぎり、楽しい気分が一気に萎んでしまう。
今日は最低最悪な一日だった。
以前から憂璃に執着していた茶咲から襲われそうになり、抵抗したら強く抱きしめられて、臭いフェロモンをこすりつけてきた。あれはきっとオメガに発情を誘発するフェロモンなんだろう。
普通ならオメガは例え性格破綻したアルファでも、発情を誘発するフェロモンを浴びさせられれば、いくら心が抵抗していても体はアルファを求めてヒートを起こす、と授業でも習ったはず。
それなのに、嫌いなアルファの臭いで胃の中がグルグル攪拌されて、気が緩んだら吐いてしまいそうだった。
自分の体はおかしいのだろうか。
『憂璃、大丈夫。大丈夫だ』
暖かい体温とささやかな凛とした香りに、あれだけこみ上げそうだった吐き気がすうと消える。
この香りを知ってる。椿の香りだ。
お風呂上がりや煙草の甘い香りが消えた時に感じる優しい、椿と分かる匂い。
食欲を誘発するような楓蜜の香りも好きだけど、憂璃は肌から仄かに匂い立つこの花の香りが好きだ。
『椿さん……僕ね、椿さんが……好き』
「憂璃、好きだ。お前を愛してる」
椿は慈しむように憂璃の頬を撫で、額やこめかみ、鼻先や唇に触れるだけのキスを贈ってくれる。くすぐったくて、でももっとして欲しくて、憂璃は椿の掌に頬をすり寄せた。
微かに煙草の甘い匂いに混じって、匂い椿の微かな匂いが憂璃を包んでくれる。もっと欲しくて息を深く吸い込む。
ちゅ、と椿の唇が憂璃の肌を吸う。それから赤い舌がペロリと這う。
『……憂璃の肌は甘いな』
『ゃ……っ』
『逆らうな、憂璃。お前をもっと味わせてくれ』
『ぅ……ん』
クス、と微かに笑う囁きが聞こえ、憂璃は羞恥に顔が熱くなる。恥ずかしさに両手で顔を隠すと、もっと見せろ、と椿の手が憂璃の両手首を優しく掴んでくる。
『憂璃の可愛い顔を、もっと見せてくれないか』
赤く色づく指先にキスをひとつ落とし、椿が甘く、それこそ彼が吸う煙草の匂いのような蜜を含んだ声で命じる。
こんな甘い顔で言われたら抵抗なんてできない。
すっかり力を抜いた憂璃を椿の唇と舌で丁寧に吸い、そして舐める。
着ていたガウンのような着物のような服の前身ごろがいつの間にか開かれ、白く薄い胸や腹だけでなく、いつも着けてるプロテクターさえも外され、どこもかしこもすうすうと心もとない。
『椿さん……恥ずかしいです』
抗わないと言ってしまったため、舐めるように見つめてくる椿の胸を押すこともできなかった。
『どこもかしこも白くて、滑らかで、まるで砂糖菓子のようだな』
そう言って、椿は憂璃のうなじに顔をうずめ、普段は隠されたその場所をベロリベロリと熱くて濡れた舌が何度も往復する。
ただ肌を舐められているのに、憂璃のお腹の奥がずくずくと疼きだす。暴れたいような、変な声が出そうな、今まで感じたことのない感覚に、憂璃は思わず椿の頭を抱えるように抱きつく。
ぎゅっと強く抱きしめると、鼻先が椿の硬い髪に埋もれる。
普段、椿は前髪を斜めに流し、かっちりとまとめている。今は憂璃が指と鼻先をもぐりこませかき回すせいで乱れ、色気が垂れ流しになっていた。
こんなに格好よくて、頭もよくて、強い人が自分を愛してると言ってくれた。
うれしい。
うれしくて、涙がポロポロ溢れて止まらない。
『どうした憂璃』
『だって……ぃくっ、だって……っ』
『ちゃんと言わないと分からないだろう? 可愛い憂璃』
『ふぇ……ぇ』
憂璃は長年商品だと思っていた。今もその認識は変わっていない。
だけど、椿と暮らす三年の間に、出会った時には地中で微かに蠢くだけだった小さな種は、硬い殻を破り、真っ白な体をのびのびと地中に伸ばし、温かな太陽がある地上を目指す。
土を押しのけ、小さな芽を開き、いつかは花咲くことを夢見てしまった。
まさか、憂璃の願いが叶うなんて──
『椿さん、すき。ずっと、椿さんと、一緒にいたい……っ』
願っていはいけない本当の気持ちを椿の腕の中で叫ぶ。
長年、どこか諦めの気持ちがあった。
自分はお金と引き換えに母に売られ、椿に商品として買われた。
いつかは誰かに売られ、椿とは二度と会えなくなる。だから椿に深い感情を持ってはいけないと戒めてきた。
でも、もう無理だ。
一度あふれた本音は二度と戻ることもなければ、蓋をして鍵をかけることもできない。
好き。大好き。永遠の僕の番。
憂璃の心の声が届いたのか、椿は憂璃の髪を指で梳きながら、唇を重ねてくる。
薄い皮膚が触れるくすぐったさに、憂璃は思わず小さな声を上げる。するとスルリと肉厚で熱い舌が滑り込んできて、ゆるりと憂璃の口腔を支配してくる。
舌同士を絡め、挟んだ唇が扱き、唾液が送られてくる。
他人の唾液なんて、と普通ならば嫌悪しか湧いてこないだろうに、どうして椿のものだというだけでこんなにも甘美なのだろう、と蕩けた頭で考える。
コクリ、と喉を鳴らして飲み込むと、細胞レベルまで椿に包まれ守られているかのよう。
足りない。もっと。もっと……頂戴?
椿の首を回した腕で引き寄せくちづけをせがむ。
ヒートの時とは違う。熱に浮かされたような、ただひたすら肉体の快感を得るのではなく、心も体も深く、深く、椿という男に浸される感覚。
そうして憂璃は気づく。
(ああ。これは、茶咲のフェロモンを椿のフェロモンで上書きしてくれてるのだ)
椿が、憂璃を守ってくれるのだ、と。
憂璃は歓喜に全身を震わせる。
椿のフェロモンに呼応するように、憂璃の涼やかで楚々とした花の香りがうなじから溢れる。
(噛んで。僕を、椿さんの番にして……)
ふたつの花の香りが混じり合い、憂璃は陶然とした眼差しを椿にひたりと合わせ微笑んでいた。
◇◆◇
まずい、と思った時には憂璃のフェロモンに囚われてしまった。
椿は酩酊し震える手で憂璃のプロテクターを装着し、ナースコールで凛を呼ぶ。今日は憂璃のことが心配だからと、夜勤でもないのに待機してくれていたのだ。
『ちょっと、何があったの!?』
「憂璃が……発情になった」
『わかった! すぐ行くから、無体なことをしちゃダメだからね!』
ブツリ、と切断する音がし、現在特別棟には憂璃以外入っていないからか、病室の外で微かに人の動く気配を感じた。
フェロモンの上書きは、本家から帰ってすぐに凛に許可を取っていた。かなり渋っていたが、憂璃の精神の安定を選んでくれ、椿は早速とばかり、病室の入口に配置していた部下をさげた。
すうすうと寝息が聞こえなければ、ベッドに精巧な人形が眠っているかに見える。
今は椿を見て輝く紅玉の瞳は、長い睫毛に隙なく縁どられた眼蓋によって隠されている。
均等に配置された小さな鼻も、桜色の唇も、桃のような頬も、貝殻のような耳も、憂璃の心を反映したかのような白い髪も、どれもが愛おしい。
抱きしめた時に感じた華奢な体は、椿と壱岐が三年の間、少食の憂璃にあれこれ食べさせて、今の体を作った。相変わらず細いものの弾力ある肢体は抱きしめると心地よい。
「憂璃、好きだ。お前を愛してる」
決して起きてる憂璃には伝えられない愛の言葉を耳元に唇を寄せて囁く。
憂璃は何か楽しい夢を見ているのか、むにゃむにゃと口を動かし、ふんにゃりと微笑みを浮かべている。
どんな楽しい夢を見ているのだろうか。
襲われた恐怖に支配された夢ではなくて安心したものの、楽しげな憂璃の姿に、自分が夢に出ていたらいいな、と椿は微苦笑する。
すぐさま、憂璃を金で買った自分が、楽しい憂璃の夢に出るなんておこがましいと考えを翻した。
壱岐の話では、憂璃は時々自分を「商品だから」と言葉にすることがあると言っていた。
商品だから勉学も家事も頑張り、少しでも買い取った金額に見合う自分であろうと、日々研鑽している、とも。
椿はそうじゃない、と憂璃を諭そうとした。しかし、彼のアイデンティティを奪ってどうなるのだ、ともうひとりの自分に窘められ、口は開くものの言葉にすることはできなかった。
「憂璃」
椿は憂璃の名をうわ言のように呟きながら、眠る彼の顔やうなじに唇を押し当てる。そして、薄く開いた笑みをかたどる唇に自分のそれを重ね、軽く食んで、舐め、舌を差し込みゆるりと愛撫する。
突然の異物に憂璃は眉を微かにしかめたものの、ふいに呼応するようにぎこちなく可憐な舌が椿の舌にすり寄ってくる。
宥め、くすぐり、扱いて、吸って、互いの口腔の中で淫らな遊戯を繰り返す。
ちゅぷちゅぷと水音を奏で、嚥下しきれずあふれた唾液を口の端から垂れ流す憂璃は、眠りながらも頬を上気させ、甘い香りを静かに立ち上らせる。
(まだ……大丈夫だ)
椿はこの行為に入る前、凛からアルファ用の抑制剤を渡され飲んだ。それが憂璃に触れる条件だったから、すぐに諾と言いその場で服用したのだ。
副作用についても説明を受けた。オメガのフェロモン反応が薄れる代わりに、アルファの勃起を抑制する効果もある、と。
故にオメガのヒート初期状態までなら、多少の酩酊感はあるものの、すぐに襲うまでには至らないだろうとも。
だけどなぜだろう。
憂璃と唾液を交わしてすぐに、椿の下半身は痛いくらいに張り詰め、もどかしい程の渇望に先端から涙を流している。スラックスの中心に染みを作り、それが冷えるのを感じて余計に自身の熱に戸惑う。
憂璃の楚々として凛とした香りを吸い込むたび、上質で度数の高いアルコールを飲んだような心地よさに、気を緩めると意識が浚われそうになる。
こすりすぎてジンジンと痛む舌を憂璃の口腔から離し、陶然とした憂璃を見下ろす。
桜色から薔薇色に染まった頬、啄みすぎて赤く腫れぼったくなった唇は唾液で濡れて艶かしく、上下する胸の飾りは期待に震えて尖っている。
(今ならプロテクターも外してある。剥き出しのうなじに牙を立てるのは容易い)
憂璃のうなじを舌で刷くたびに薄暗い欲望に思考が染められる。
(憂璃が自分を商品だというのなら、俺が憂璃を買えばいい。だけど……)
買い主と買われた商品という立場になってしまったら、三年のあいだに築いた関係が一気に瓦解するだろう。
それに、椿が憂璃を買ったら、きっと憂璃は心を閉ざすに違いない。
もう二度と椿を慕う輝く眼差しは向けられない。
椿は湧き上がる本能を、唇を噛んで耐える。ブツリと立てた牙が唇の薄い皮膚を破り、赤い雫が口の中に流れ込んでくる。
(唾液よりも血。血よりも精液)
頭の中で呟き、血に濡れた唇を再び憂璃の唇に押し当てる。
唾液に混じった赤い液は、トロトロと憂璃の口腔に流し込まれる。
オメガがヒートになると、どういった仕組みなのか、アルファの体液を求める傾向がある。
唾液よりも血液、血液よりも精液が、ヒートの沈静化に強く影響する。
うなじから溢れる香りがまた強くなった。
椿は軽いヒートになりかけている憂璃を沈めるため血液を注ぎ込む。だが、それよりも加速的に憂璃のヒートが早く発露し、椿は甘く涼やかな香りに本能を刺激されそうになった。
「ここが病院で良かったと安心するべきだと思うよ。でなきゃ、玉之浦さんは未成年を陵辱した罪でしょっ引かれても文句は言えないからね」
「……すまない」
「反省をするのは猿でもできるそうですよ」
ふん、と鼻息荒く説教する凛の言葉が耳に痛い。
確かに、ここが病院でなければ、早々に椿は憂璃のうなじに牙を立てて犯していただろう。
凛は点滴の三方活栓に差し込んだシリンジを押し込み、液体を注入しながら口を開く。
「確かに、玉之浦さんの言うように一度オメガがヒートになると、無意識に体からアルファを誘う香りを出すようになるから、強いアルファの匂いをつけるのは、憂璃君を守るのに間違いはない……んですけど。それって、ある意味諸刃の剣でもあるって、ゆめゆめ忘れないように」
「……」
「あと、こういった匂い付けの時は、自宅ではなく、病院で絶対にしてくださいね。でないと、何かあった時に対処できなくなるんで」
「……あぁ」
本当に分かってるのかな、と美貌に呆れた顔を浮かべた凛に、椿の意識はひたすらに憂璃へと向かっていた。つまり、話の半分も耳に届いていないことになる。
「先生、カシラは憂璃さんが心配なんです。ですので、詳しい話は私が伺いますので」
「もう。そうやって玉之浦さんを甘やかす」
「すみません」
そんな医師と親友のやり取りに、壱岐は困ったように笑い、詳細や処置についての話を聞いておこうと心に留めたのだった。
しかし、思い出したくない記憶がよぎり、楽しい気分が一気に萎んでしまう。
今日は最低最悪な一日だった。
以前から憂璃に執着していた茶咲から襲われそうになり、抵抗したら強く抱きしめられて、臭いフェロモンをこすりつけてきた。あれはきっとオメガに発情を誘発するフェロモンなんだろう。
普通ならオメガは例え性格破綻したアルファでも、発情を誘発するフェロモンを浴びさせられれば、いくら心が抵抗していても体はアルファを求めてヒートを起こす、と授業でも習ったはず。
それなのに、嫌いなアルファの臭いで胃の中がグルグル攪拌されて、気が緩んだら吐いてしまいそうだった。
自分の体はおかしいのだろうか。
『憂璃、大丈夫。大丈夫だ』
暖かい体温とささやかな凛とした香りに、あれだけこみ上げそうだった吐き気がすうと消える。
この香りを知ってる。椿の香りだ。
お風呂上がりや煙草の甘い香りが消えた時に感じる優しい、椿と分かる匂い。
食欲を誘発するような楓蜜の香りも好きだけど、憂璃は肌から仄かに匂い立つこの花の香りが好きだ。
『椿さん……僕ね、椿さんが……好き』
「憂璃、好きだ。お前を愛してる」
椿は慈しむように憂璃の頬を撫で、額やこめかみ、鼻先や唇に触れるだけのキスを贈ってくれる。くすぐったくて、でももっとして欲しくて、憂璃は椿の掌に頬をすり寄せた。
微かに煙草の甘い匂いに混じって、匂い椿の微かな匂いが憂璃を包んでくれる。もっと欲しくて息を深く吸い込む。
ちゅ、と椿の唇が憂璃の肌を吸う。それから赤い舌がペロリと這う。
『……憂璃の肌は甘いな』
『ゃ……っ』
『逆らうな、憂璃。お前をもっと味わせてくれ』
『ぅ……ん』
クス、と微かに笑う囁きが聞こえ、憂璃は羞恥に顔が熱くなる。恥ずかしさに両手で顔を隠すと、もっと見せろ、と椿の手が憂璃の両手首を優しく掴んでくる。
『憂璃の可愛い顔を、もっと見せてくれないか』
赤く色づく指先にキスをひとつ落とし、椿が甘く、それこそ彼が吸う煙草の匂いのような蜜を含んだ声で命じる。
こんな甘い顔で言われたら抵抗なんてできない。
すっかり力を抜いた憂璃を椿の唇と舌で丁寧に吸い、そして舐める。
着ていたガウンのような着物のような服の前身ごろがいつの間にか開かれ、白く薄い胸や腹だけでなく、いつも着けてるプロテクターさえも外され、どこもかしこもすうすうと心もとない。
『椿さん……恥ずかしいです』
抗わないと言ってしまったため、舐めるように見つめてくる椿の胸を押すこともできなかった。
『どこもかしこも白くて、滑らかで、まるで砂糖菓子のようだな』
そう言って、椿は憂璃のうなじに顔をうずめ、普段は隠されたその場所をベロリベロリと熱くて濡れた舌が何度も往復する。
ただ肌を舐められているのに、憂璃のお腹の奥がずくずくと疼きだす。暴れたいような、変な声が出そうな、今まで感じたことのない感覚に、憂璃は思わず椿の頭を抱えるように抱きつく。
ぎゅっと強く抱きしめると、鼻先が椿の硬い髪に埋もれる。
普段、椿は前髪を斜めに流し、かっちりとまとめている。今は憂璃が指と鼻先をもぐりこませかき回すせいで乱れ、色気が垂れ流しになっていた。
こんなに格好よくて、頭もよくて、強い人が自分を愛してると言ってくれた。
うれしい。
うれしくて、涙がポロポロ溢れて止まらない。
『どうした憂璃』
『だって……ぃくっ、だって……っ』
『ちゃんと言わないと分からないだろう? 可愛い憂璃』
『ふぇ……ぇ』
憂璃は長年商品だと思っていた。今もその認識は変わっていない。
だけど、椿と暮らす三年の間に、出会った時には地中で微かに蠢くだけだった小さな種は、硬い殻を破り、真っ白な体をのびのびと地中に伸ばし、温かな太陽がある地上を目指す。
土を押しのけ、小さな芽を開き、いつかは花咲くことを夢見てしまった。
まさか、憂璃の願いが叶うなんて──
『椿さん、すき。ずっと、椿さんと、一緒にいたい……っ』
願っていはいけない本当の気持ちを椿の腕の中で叫ぶ。
長年、どこか諦めの気持ちがあった。
自分はお金と引き換えに母に売られ、椿に商品として買われた。
いつかは誰かに売られ、椿とは二度と会えなくなる。だから椿に深い感情を持ってはいけないと戒めてきた。
でも、もう無理だ。
一度あふれた本音は二度と戻ることもなければ、蓋をして鍵をかけることもできない。
好き。大好き。永遠の僕の番。
憂璃の心の声が届いたのか、椿は憂璃の髪を指で梳きながら、唇を重ねてくる。
薄い皮膚が触れるくすぐったさに、憂璃は思わず小さな声を上げる。するとスルリと肉厚で熱い舌が滑り込んできて、ゆるりと憂璃の口腔を支配してくる。
舌同士を絡め、挟んだ唇が扱き、唾液が送られてくる。
他人の唾液なんて、と普通ならば嫌悪しか湧いてこないだろうに、どうして椿のものだというだけでこんなにも甘美なのだろう、と蕩けた頭で考える。
コクリ、と喉を鳴らして飲み込むと、細胞レベルまで椿に包まれ守られているかのよう。
足りない。もっと。もっと……頂戴?
椿の首を回した腕で引き寄せくちづけをせがむ。
ヒートの時とは違う。熱に浮かされたような、ただひたすら肉体の快感を得るのではなく、心も体も深く、深く、椿という男に浸される感覚。
そうして憂璃は気づく。
(ああ。これは、茶咲のフェロモンを椿のフェロモンで上書きしてくれてるのだ)
椿が、憂璃を守ってくれるのだ、と。
憂璃は歓喜に全身を震わせる。
椿のフェロモンに呼応するように、憂璃の涼やかで楚々とした花の香りがうなじから溢れる。
(噛んで。僕を、椿さんの番にして……)
ふたつの花の香りが混じり合い、憂璃は陶然とした眼差しを椿にひたりと合わせ微笑んでいた。
◇◆◇
まずい、と思った時には憂璃のフェロモンに囚われてしまった。
椿は酩酊し震える手で憂璃のプロテクターを装着し、ナースコールで凛を呼ぶ。今日は憂璃のことが心配だからと、夜勤でもないのに待機してくれていたのだ。
『ちょっと、何があったの!?』
「憂璃が……発情になった」
『わかった! すぐ行くから、無体なことをしちゃダメだからね!』
ブツリ、と切断する音がし、現在特別棟には憂璃以外入っていないからか、病室の外で微かに人の動く気配を感じた。
フェロモンの上書きは、本家から帰ってすぐに凛に許可を取っていた。かなり渋っていたが、憂璃の精神の安定を選んでくれ、椿は早速とばかり、病室の入口に配置していた部下をさげた。
すうすうと寝息が聞こえなければ、ベッドに精巧な人形が眠っているかに見える。
今は椿を見て輝く紅玉の瞳は、長い睫毛に隙なく縁どられた眼蓋によって隠されている。
均等に配置された小さな鼻も、桜色の唇も、桃のような頬も、貝殻のような耳も、憂璃の心を反映したかのような白い髪も、どれもが愛おしい。
抱きしめた時に感じた華奢な体は、椿と壱岐が三年の間、少食の憂璃にあれこれ食べさせて、今の体を作った。相変わらず細いものの弾力ある肢体は抱きしめると心地よい。
「憂璃、好きだ。お前を愛してる」
決して起きてる憂璃には伝えられない愛の言葉を耳元に唇を寄せて囁く。
憂璃は何か楽しい夢を見ているのか、むにゃむにゃと口を動かし、ふんにゃりと微笑みを浮かべている。
どんな楽しい夢を見ているのだろうか。
襲われた恐怖に支配された夢ではなくて安心したものの、楽しげな憂璃の姿に、自分が夢に出ていたらいいな、と椿は微苦笑する。
すぐさま、憂璃を金で買った自分が、楽しい憂璃の夢に出るなんておこがましいと考えを翻した。
壱岐の話では、憂璃は時々自分を「商品だから」と言葉にすることがあると言っていた。
商品だから勉学も家事も頑張り、少しでも買い取った金額に見合う自分であろうと、日々研鑽している、とも。
椿はそうじゃない、と憂璃を諭そうとした。しかし、彼のアイデンティティを奪ってどうなるのだ、ともうひとりの自分に窘められ、口は開くものの言葉にすることはできなかった。
「憂璃」
椿は憂璃の名をうわ言のように呟きながら、眠る彼の顔やうなじに唇を押し当てる。そして、薄く開いた笑みをかたどる唇に自分のそれを重ね、軽く食んで、舐め、舌を差し込みゆるりと愛撫する。
突然の異物に憂璃は眉を微かにしかめたものの、ふいに呼応するようにぎこちなく可憐な舌が椿の舌にすり寄ってくる。
宥め、くすぐり、扱いて、吸って、互いの口腔の中で淫らな遊戯を繰り返す。
ちゅぷちゅぷと水音を奏で、嚥下しきれずあふれた唾液を口の端から垂れ流す憂璃は、眠りながらも頬を上気させ、甘い香りを静かに立ち上らせる。
(まだ……大丈夫だ)
椿はこの行為に入る前、凛からアルファ用の抑制剤を渡され飲んだ。それが憂璃に触れる条件だったから、すぐに諾と言いその場で服用したのだ。
副作用についても説明を受けた。オメガのフェロモン反応が薄れる代わりに、アルファの勃起を抑制する効果もある、と。
故にオメガのヒート初期状態までなら、多少の酩酊感はあるものの、すぐに襲うまでには至らないだろうとも。
だけどなぜだろう。
憂璃と唾液を交わしてすぐに、椿の下半身は痛いくらいに張り詰め、もどかしい程の渇望に先端から涙を流している。スラックスの中心に染みを作り、それが冷えるのを感じて余計に自身の熱に戸惑う。
憂璃の楚々として凛とした香りを吸い込むたび、上質で度数の高いアルコールを飲んだような心地よさに、気を緩めると意識が浚われそうになる。
こすりすぎてジンジンと痛む舌を憂璃の口腔から離し、陶然とした憂璃を見下ろす。
桜色から薔薇色に染まった頬、啄みすぎて赤く腫れぼったくなった唇は唾液で濡れて艶かしく、上下する胸の飾りは期待に震えて尖っている。
(今ならプロテクターも外してある。剥き出しのうなじに牙を立てるのは容易い)
憂璃のうなじを舌で刷くたびに薄暗い欲望に思考が染められる。
(憂璃が自分を商品だというのなら、俺が憂璃を買えばいい。だけど……)
買い主と買われた商品という立場になってしまったら、三年のあいだに築いた関係が一気に瓦解するだろう。
それに、椿が憂璃を買ったら、きっと憂璃は心を閉ざすに違いない。
もう二度と椿を慕う輝く眼差しは向けられない。
椿は湧き上がる本能を、唇を噛んで耐える。ブツリと立てた牙が唇の薄い皮膚を破り、赤い雫が口の中に流れ込んでくる。
(唾液よりも血。血よりも精液)
頭の中で呟き、血に濡れた唇を再び憂璃の唇に押し当てる。
唾液に混じった赤い液は、トロトロと憂璃の口腔に流し込まれる。
オメガがヒートになると、どういった仕組みなのか、アルファの体液を求める傾向がある。
唾液よりも血液、血液よりも精液が、ヒートの沈静化に強く影響する。
うなじから溢れる香りがまた強くなった。
椿は軽いヒートになりかけている憂璃を沈めるため血液を注ぎ込む。だが、それよりも加速的に憂璃のヒートが早く発露し、椿は甘く涼やかな香りに本能を刺激されそうになった。
「ここが病院で良かったと安心するべきだと思うよ。でなきゃ、玉之浦さんは未成年を陵辱した罪でしょっ引かれても文句は言えないからね」
「……すまない」
「反省をするのは猿でもできるそうですよ」
ふん、と鼻息荒く説教する凛の言葉が耳に痛い。
確かに、ここが病院でなければ、早々に椿は憂璃のうなじに牙を立てて犯していただろう。
凛は点滴の三方活栓に差し込んだシリンジを押し込み、液体を注入しながら口を開く。
「確かに、玉之浦さんの言うように一度オメガがヒートになると、無意識に体からアルファを誘う香りを出すようになるから、強いアルファの匂いをつけるのは、憂璃君を守るのに間違いはない……んですけど。それって、ある意味諸刃の剣でもあるって、ゆめゆめ忘れないように」
「……」
「あと、こういった匂い付けの時は、自宅ではなく、病院で絶対にしてくださいね。でないと、何かあった時に対処できなくなるんで」
「……あぁ」
本当に分かってるのかな、と美貌に呆れた顔を浮かべた凛に、椿の意識はひたすらに憂璃へと向かっていた。つまり、話の半分も耳に届いていないことになる。
「先生、カシラは憂璃さんが心配なんです。ですので、詳しい話は私が伺いますので」
「もう。そうやって玉之浦さんを甘やかす」
「すみません」
そんな医師と親友のやり取りに、壱岐は困ったように笑い、詳細や処置についての話を聞いておこうと心に留めたのだった。
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