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嫩葉の終宵
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「おかーさん、あさだよー」
「ん……」
胸のあたりを揺さぶられて、慧斗は深く沈んでいた意識を浮かべる。うっすらと目を開くと、パジャマを着た紅音が間近にあった。
「おはよう、紅音。早いね」
元々寝起きが良い紅音だが、ここまでテンションは高くなかったはずだ。家とは違う環境に気分が上がってるのだろうか。
「あのね、きのー、おだのおばちゃんがあさ起きたらはたけにいきませんか、っていわれたの」
「畑?」
心地よい布団の感触に眠りに引きずられそうになりながら、慧斗は確か織田が夕食の時にそんなことを言っていたようが気がすると、記憶を漁る。
織田の話ではこの屋敷の裏に大きな畑があり、そこで作った野菜を玲司の『La maison』に定期的に送ってるのだという。『La maison』で出る野菜が好きな紅音は、興味津々なのだろう。
(畑か……。紅音の情操教育にもいいし、参加させてあげよう)
慧斗は体を起こして大きく伸びをする。そのタイミングで「御崎様、起きていらっしゃりますか」と織田の声がノックと共に聞こえた。
スリッパに足を通し慌ててドアに向かい開くと、そこにはきっちりとした織田が微笑んで立っている。
「おはようございます。朝食の準備ができましたので、家族棟にあるリビングにいらしてください」
「おはようございます。わざわざありがとうございます」
「いいえ、お気になさらず」
にこにこと微笑む織田を見送り、それから室内にある洗面所で紅音の洗顔と歯磨きを手伝い、自身も身支度を整えて廊下にでる。紅音は日曜日の朝に放送している戦隊ものがプリントされたTシャツと紺色のハーフパンツ、慧斗は白のTシャツの上から水色のシャツをはおり、ベージュのチノパンというカジュアルな格好。そして、目の前に現れた紅龍の黒のTシャツと黒のスラックスという洗練された姿に思わず心臓がトクリと高鳴った。
「おはよう、慧斗」
「……おはよう」
「ほーろんさんおはよー」
「紅音もおはよう。よく眠れたか?」
「うんっ」
慣れたと思っていても場所が違えば妙な面映さをおぼえ、慧斗はぶっきらぼうに紅龍に挨拶するなか、紅音はてててと紅龍に駆け寄り足に抱きつく。完全に紅龍になついてしまった紅音の背中を見つめ、慧斗は小さくため息をついた。
紅龍と一緒にいるようになってから、随分とため息の回数が増えたように思える。
「紅音、織田さんに畑に行かないかって言われたんだって」
「へえ」
「いってもいい? ほーろんさん」
「いいけど、ちゃんと朝ごはん食べて、水分を取ってからな。それから帽子もかぶっていくこと。約束できるか?」
「やくそくするよー」
慧斗の前で紅龍は紅音を抱きながら会話している。 それは誰が見ても仲の良い親子にしか見えなかった。五年前の慧斗が一瞬だけでも夢見ていた光景。まさか紅龍を蚊帳の外に追い出して生きてきた途端、過去の夢を目の前で見るとは思っていなかった。
出会い、結ばれた夜。紅龍の腕の中で、慧斗はこれから迎えるだろう幸福の情景を夢に見た。
自分と、番と、それからふたりの間の愛の証。
遊園地に、動物園、水族館やテーマパーク。でも近所の公園でも家族ならそれだけでも楽しいだろう。
慧斗はお弁当を作って、子どもは足元で好物を強請り、番はコーヒーを飲みながら微笑ましく見守る。
両親や姉に見切られ、祖母を亡くしたばかりの慧斗の夢は、とてもとても温かくて甘美なものだった。
紅龍の案内で家族棟にあるリビングのドアをを開くと、屋敷の主である寒川薔子とそれから……
「おはよう、慧斗君。あれから体調はどう?」
「凛先生?」
ダイニングテーブルに座って湯呑でお茶を啜っている、玲司の弟で慧斗の担当医師で雇用主だった凛が慧斗に向かって手を振っていたのだ。
ざっくりとしたセーターに細身のジーンズを着てリラックスした凛の姿に、慧斗は目を瞬かせた。
「どうしてここに……」
「休暇をもらえたから、昨日の夜遅くに着いたんだ。立ち話もあれだし、紅音君もお腹が空いたんじゃない?」
「りんせんせー、おはよーございます!」
「はい、おはよう。今日も元気だねぇ」
「げんきだよー」
招かれ慧斗は凛の隣に腰を下ろし、紅龍は薔子の隣に紅音を抱いたまま座る。薔子が織田に食事の準備を頼み、織田が慧斗たちにお茶と紅音用のぬるめの麦茶を置いて部屋を出て行くのを見送り、ずっしりとした湯呑を両手で持ちゆっくりと傾ける。ほどよい温度の香り高い緑茶が喉を通り、じんわりと胃の腑を温めたのか、思わず吐息が漏れた。
「これ、すごく美味しいですね」
「そうよ、桔梗君セレクトですもの」
豪華な薔薇のような雰囲気を持つ薔子が、にこにこしながらお茶を啜っている。紅龍の話では、慧斗もテレビで目にすることがある総理大臣の実妹とのことだ。つまりは、彼女も上位アルファ。だがそういった威圧感はなく、微笑む姿はまるでドラマに出る女優のようだ。
桔梗のことを嬉しそうに話すのを見る限り、彼女と桔梗の関係は良好のようだと感じる。
「事情があって、この別邸には二度と来れないんだけど、季節の折りにこうしてお茶やハーブティーを送ってくれるのよ。玲司の趣味でコーヒーが多かったんだけど、今では日本茶やハーブティーの割合が増えてね。おかげで体が元気で困っちゃうわ」
うふふ、と首を傾げて微笑む薔子と、桔梗の関係は良好なのだと今の会話だけでもわかった。
ゆっくりと織田の作った朝食をいただき、紅音は織田とともに裏庭にある畑へと。どうやら畑とこの一帯の山を中心になって管理している人がいるようで、『La maison』の食材もその人たちが収穫したものを送っているらしい。
心づくしの温かい朝食を食べ終え、紅音と畑に行こうと思っていたその時。
「あ、慧斗君。丁度いいから、簡単にメディカルチェック受けてもらうけど、いいかな」
「お休みなのにいいんですか?」
「うん、別に医療行為って訳じゃないし、少し話をして体調を確認したいだけだから」
紅音は織田がちゃんと準備した上で連れて行くと申し出たため、慧斗は素直にお願いする。紅龍は薔子と話があるようで、終わったら迎えに行くから、あとから一緒に紅音の元に行こうと言われ頷いた。
凛の部屋はクリーム色の壁紙に薄いモスグリーンで緻密な模様が入っており、所々に淡い黄色の花が散っている。濃い茶色の家具はどれもがずっしりと重厚感があるのに圧迫感がないのは、随所で使われているファブリックの色が優しいものだからだろうか。
「お茶入れるからそこのソファに座ってね」
「あ、ありがとうございます」
凛が指をソファに指したのを、慧斗はコクリと首を縦に振って向かう。腰を下ろすと心地よい座り心地に、覚めたはずの眠気が戻ってきそうだ。凛は安堵する慧斗の近くにあるカウンターでお茶を淹れているのか、ふわりと紅茶の良い香りが漂いだした。
お茶を飲みながら当然というか、前に処方された薬を服用しての体調や、今回の旅行に避妊薬を持ってきているかなど尋ねられた。慧斗は否定したい気持ちになりながら、ちゃんと持参していると告げる。
「まあね、慧斗君のフェロモンが安定するのなら、あのアルファとヤっちゃうのもアリなんだけどね」
「やっちゃう?」
「もちろん、セックス」
「なっ」
明け透けな凛の言葉に、赤面で口をパクパク魚のように動かす慧斗へと、凛は「真面目な話」と言葉を続ける。
「きっかけは色々あれど、結局番契約をしたオメガは相手のアルファにいるのが、一番数値が安定するんだよね。薬はどうやっても補助的な役割しかないから」
「でも」
「体と心は別物……って言いたいんだよね」
慧斗はコクリと頷く。ほだされている部分は否定できないけど、やはり紅龍と自分は住む世界が違うというのが二ヶ月という短い時間でも何度も思い知らされた。
紅音の教育にしても、慧斗は自分の財布事情や必要かと考えて与えている。反して紅龍は紅音が欲しがるまま与えていた。
確かに紅龍の収入を考えれば、特別苦になるものではないが、彼のお金をあてにしていると思われるのが嫌だった。
それに慧斗自身は紅龍に対して、彼とこのまま一緒に居続けるべきか、常に考えるようになっていた。
紅龍が嫌いではない、と思う。多少甘やかしてはいるものの、紅音に対しても彼は良い父親になろうとしている。それに慧斗自身も苦痛ではなかったがひとりで子育てをする重圧が楽になったのも感じている。
でも、ふとした時に自分と紅龍の住む場所が違うと、常に違和感がまとわりついていた。
「オメガとしての本能は紅龍を求めているのは理解しているんです。でも、気持ちは五年も放っておいて今更っていうか……気持ちが追いついていないというか」
「あー、うん。それはうちの愚兄も関与してるから、ごめんねとしか……」
「いえっ、玲司さんは俺のことを考えてくれただけなので」
五年という歳月が経ち周囲の人が助けてくれたからこそ、冷静になっている部分もある。それに祖母が亡くなって傷心が癒えていない五年前にプロポーズされても、あんな金を渡すような男が紅龍の傍にいる以上、慧斗の性格では拒絶して終わりだったに違いない。
だからこそ玲司が友人でありながらも、紅龍から自分を隠してくれたことを、咎めるつもりは一切なかった。
「紅龍とは、出会ってすぐに発情しちゃって、嵐の中にいるような気分で番契約を結んじゃったんですよね」
「つまり、本能でしか繋がりがないから、気持ちが追いついてない?」
「多分」
恋をして、距離を少しずつ縮めて、愛を育むというのが普通なのだと思う。だけどあの頃の慧斗は自己防衛として公表していたものの自身のオメガ性を疎んでいたし、色んなマイナス感情のところに紅龍と出会い、あれよあれよというまに番になった。それから紅龍の側近という男に金を投げつけられたせいで、アルファというのが心底嫌になったのだ。短い時間で嵐のように過ぎていった出来事が、慧斗の人間不信な部分を作ったのかもしれない。
実際はそれだけではないが大きな部分を占めているのは否定できなかった。
「まあね。予想もしない所で運命に出会ってそのまま番になって、ほわほわしてたところに他人に本命がいるから出ていけと言われ、消沈していたら子供ができて……だもんね。子供とふたりで生活する基盤がすっかりできあがった頃に番だった男が現れたら、そりゃ僕でも戸惑うと思うよ。正直紅音君の気持ちを考える必要もあるんじゃない、ってのもあるけど、傍観者である僕が言う権利はないから」
凛には臨床実験の契約の際に色々話していた。それは紅音を妊娠してからも。相手は言わなかったけど、運命と出会って番契約を結んだ末に妊娠したことも相談していた。一見氷のように冷たい雰囲気の麗人だが、彼は本当はとても優しく親身になってくれる素敵な人なのだ。
今も兄の友人である紅龍よりも、可愛がっている紅音よりも、同じオメガとしてひとりで頑張ってきた慧斗に心を寄り添ってくれている。
だからこそ自分を客観的に見れる落ち着きが戻るのを感じていた。
「ん……」
胸のあたりを揺さぶられて、慧斗は深く沈んでいた意識を浮かべる。うっすらと目を開くと、パジャマを着た紅音が間近にあった。
「おはよう、紅音。早いね」
元々寝起きが良い紅音だが、ここまでテンションは高くなかったはずだ。家とは違う環境に気分が上がってるのだろうか。
「あのね、きのー、おだのおばちゃんがあさ起きたらはたけにいきませんか、っていわれたの」
「畑?」
心地よい布団の感触に眠りに引きずられそうになりながら、慧斗は確か織田が夕食の時にそんなことを言っていたようが気がすると、記憶を漁る。
織田の話ではこの屋敷の裏に大きな畑があり、そこで作った野菜を玲司の『La maison』に定期的に送ってるのだという。『La maison』で出る野菜が好きな紅音は、興味津々なのだろう。
(畑か……。紅音の情操教育にもいいし、参加させてあげよう)
慧斗は体を起こして大きく伸びをする。そのタイミングで「御崎様、起きていらっしゃりますか」と織田の声がノックと共に聞こえた。
スリッパに足を通し慌ててドアに向かい開くと、そこにはきっちりとした織田が微笑んで立っている。
「おはようございます。朝食の準備ができましたので、家族棟にあるリビングにいらしてください」
「おはようございます。わざわざありがとうございます」
「いいえ、お気になさらず」
にこにこと微笑む織田を見送り、それから室内にある洗面所で紅音の洗顔と歯磨きを手伝い、自身も身支度を整えて廊下にでる。紅音は日曜日の朝に放送している戦隊ものがプリントされたTシャツと紺色のハーフパンツ、慧斗は白のTシャツの上から水色のシャツをはおり、ベージュのチノパンというカジュアルな格好。そして、目の前に現れた紅龍の黒のTシャツと黒のスラックスという洗練された姿に思わず心臓がトクリと高鳴った。
「おはよう、慧斗」
「……おはよう」
「ほーろんさんおはよー」
「紅音もおはよう。よく眠れたか?」
「うんっ」
慣れたと思っていても場所が違えば妙な面映さをおぼえ、慧斗はぶっきらぼうに紅龍に挨拶するなか、紅音はてててと紅龍に駆け寄り足に抱きつく。完全に紅龍になついてしまった紅音の背中を見つめ、慧斗は小さくため息をついた。
紅龍と一緒にいるようになってから、随分とため息の回数が増えたように思える。
「紅音、織田さんに畑に行かないかって言われたんだって」
「へえ」
「いってもいい? ほーろんさん」
「いいけど、ちゃんと朝ごはん食べて、水分を取ってからな。それから帽子もかぶっていくこと。約束できるか?」
「やくそくするよー」
慧斗の前で紅龍は紅音を抱きながら会話している。 それは誰が見ても仲の良い親子にしか見えなかった。五年前の慧斗が一瞬だけでも夢見ていた光景。まさか紅龍を蚊帳の外に追い出して生きてきた途端、過去の夢を目の前で見るとは思っていなかった。
出会い、結ばれた夜。紅龍の腕の中で、慧斗はこれから迎えるだろう幸福の情景を夢に見た。
自分と、番と、それからふたりの間の愛の証。
遊園地に、動物園、水族館やテーマパーク。でも近所の公園でも家族ならそれだけでも楽しいだろう。
慧斗はお弁当を作って、子どもは足元で好物を強請り、番はコーヒーを飲みながら微笑ましく見守る。
両親や姉に見切られ、祖母を亡くしたばかりの慧斗の夢は、とてもとても温かくて甘美なものだった。
紅龍の案内で家族棟にあるリビングのドアをを開くと、屋敷の主である寒川薔子とそれから……
「おはよう、慧斗君。あれから体調はどう?」
「凛先生?」
ダイニングテーブルに座って湯呑でお茶を啜っている、玲司の弟で慧斗の担当医師で雇用主だった凛が慧斗に向かって手を振っていたのだ。
ざっくりとしたセーターに細身のジーンズを着てリラックスした凛の姿に、慧斗は目を瞬かせた。
「どうしてここに……」
「休暇をもらえたから、昨日の夜遅くに着いたんだ。立ち話もあれだし、紅音君もお腹が空いたんじゃない?」
「りんせんせー、おはよーございます!」
「はい、おはよう。今日も元気だねぇ」
「げんきだよー」
招かれ慧斗は凛の隣に腰を下ろし、紅龍は薔子の隣に紅音を抱いたまま座る。薔子が織田に食事の準備を頼み、織田が慧斗たちにお茶と紅音用のぬるめの麦茶を置いて部屋を出て行くのを見送り、ずっしりとした湯呑を両手で持ちゆっくりと傾ける。ほどよい温度の香り高い緑茶が喉を通り、じんわりと胃の腑を温めたのか、思わず吐息が漏れた。
「これ、すごく美味しいですね」
「そうよ、桔梗君セレクトですもの」
豪華な薔薇のような雰囲気を持つ薔子が、にこにこしながらお茶を啜っている。紅龍の話では、慧斗もテレビで目にすることがある総理大臣の実妹とのことだ。つまりは、彼女も上位アルファ。だがそういった威圧感はなく、微笑む姿はまるでドラマに出る女優のようだ。
桔梗のことを嬉しそうに話すのを見る限り、彼女と桔梗の関係は良好のようだと感じる。
「事情があって、この別邸には二度と来れないんだけど、季節の折りにこうしてお茶やハーブティーを送ってくれるのよ。玲司の趣味でコーヒーが多かったんだけど、今では日本茶やハーブティーの割合が増えてね。おかげで体が元気で困っちゃうわ」
うふふ、と首を傾げて微笑む薔子と、桔梗の関係は良好なのだと今の会話だけでもわかった。
ゆっくりと織田の作った朝食をいただき、紅音は織田とともに裏庭にある畑へと。どうやら畑とこの一帯の山を中心になって管理している人がいるようで、『La maison』の食材もその人たちが収穫したものを送っているらしい。
心づくしの温かい朝食を食べ終え、紅音と畑に行こうと思っていたその時。
「あ、慧斗君。丁度いいから、簡単にメディカルチェック受けてもらうけど、いいかな」
「お休みなのにいいんですか?」
「うん、別に医療行為って訳じゃないし、少し話をして体調を確認したいだけだから」
紅音は織田がちゃんと準備した上で連れて行くと申し出たため、慧斗は素直にお願いする。紅龍は薔子と話があるようで、終わったら迎えに行くから、あとから一緒に紅音の元に行こうと言われ頷いた。
凛の部屋はクリーム色の壁紙に薄いモスグリーンで緻密な模様が入っており、所々に淡い黄色の花が散っている。濃い茶色の家具はどれもがずっしりと重厚感があるのに圧迫感がないのは、随所で使われているファブリックの色が優しいものだからだろうか。
「お茶入れるからそこのソファに座ってね」
「あ、ありがとうございます」
凛が指をソファに指したのを、慧斗はコクリと首を縦に振って向かう。腰を下ろすと心地よい座り心地に、覚めたはずの眠気が戻ってきそうだ。凛は安堵する慧斗の近くにあるカウンターでお茶を淹れているのか、ふわりと紅茶の良い香りが漂いだした。
お茶を飲みながら当然というか、前に処方された薬を服用しての体調や、今回の旅行に避妊薬を持ってきているかなど尋ねられた。慧斗は否定したい気持ちになりながら、ちゃんと持参していると告げる。
「まあね、慧斗君のフェロモンが安定するのなら、あのアルファとヤっちゃうのもアリなんだけどね」
「やっちゃう?」
「もちろん、セックス」
「なっ」
明け透けな凛の言葉に、赤面で口をパクパク魚のように動かす慧斗へと、凛は「真面目な話」と言葉を続ける。
「きっかけは色々あれど、結局番契約をしたオメガは相手のアルファにいるのが、一番数値が安定するんだよね。薬はどうやっても補助的な役割しかないから」
「でも」
「体と心は別物……って言いたいんだよね」
慧斗はコクリと頷く。ほだされている部分は否定できないけど、やはり紅龍と自分は住む世界が違うというのが二ヶ月という短い時間でも何度も思い知らされた。
紅音の教育にしても、慧斗は自分の財布事情や必要かと考えて与えている。反して紅龍は紅音が欲しがるまま与えていた。
確かに紅龍の収入を考えれば、特別苦になるものではないが、彼のお金をあてにしていると思われるのが嫌だった。
それに慧斗自身は紅龍に対して、彼とこのまま一緒に居続けるべきか、常に考えるようになっていた。
紅龍が嫌いではない、と思う。多少甘やかしてはいるものの、紅音に対しても彼は良い父親になろうとしている。それに慧斗自身も苦痛ではなかったがひとりで子育てをする重圧が楽になったのも感じている。
でも、ふとした時に自分と紅龍の住む場所が違うと、常に違和感がまとわりついていた。
「オメガとしての本能は紅龍を求めているのは理解しているんです。でも、気持ちは五年も放っておいて今更っていうか……気持ちが追いついていないというか」
「あー、うん。それはうちの愚兄も関与してるから、ごめんねとしか……」
「いえっ、玲司さんは俺のことを考えてくれただけなので」
五年という歳月が経ち周囲の人が助けてくれたからこそ、冷静になっている部分もある。それに祖母が亡くなって傷心が癒えていない五年前にプロポーズされても、あんな金を渡すような男が紅龍の傍にいる以上、慧斗の性格では拒絶して終わりだったに違いない。
だからこそ玲司が友人でありながらも、紅龍から自分を隠してくれたことを、咎めるつもりは一切なかった。
「紅龍とは、出会ってすぐに発情しちゃって、嵐の中にいるような気分で番契約を結んじゃったんですよね」
「つまり、本能でしか繋がりがないから、気持ちが追いついてない?」
「多分」
恋をして、距離を少しずつ縮めて、愛を育むというのが普通なのだと思う。だけどあの頃の慧斗は自己防衛として公表していたものの自身のオメガ性を疎んでいたし、色んなマイナス感情のところに紅龍と出会い、あれよあれよというまに番になった。それから紅龍の側近という男に金を投げつけられたせいで、アルファというのが心底嫌になったのだ。短い時間で嵐のように過ぎていった出来事が、慧斗の人間不信な部分を作ったのかもしれない。
実際はそれだけではないが大きな部分を占めているのは否定できなかった。
「まあね。予想もしない所で運命に出会ってそのまま番になって、ほわほわしてたところに他人に本命がいるから出ていけと言われ、消沈していたら子供ができて……だもんね。子供とふたりで生活する基盤がすっかりできあがった頃に番だった男が現れたら、そりゃ僕でも戸惑うと思うよ。正直紅音君の気持ちを考える必要もあるんじゃない、ってのもあるけど、傍観者である僕が言う権利はないから」
凛には臨床実験の契約の際に色々話していた。それは紅音を妊娠してからも。相手は言わなかったけど、運命と出会って番契約を結んだ末に妊娠したことも相談していた。一見氷のように冷たい雰囲気の麗人だが、彼は本当はとても優しく親身になってくれる素敵な人なのだ。
今も兄の友人である紅龍よりも、可愛がっている紅音よりも、同じオメガとしてひとりで頑張ってきた慧斗に心を寄り添ってくれている。
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