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澪ちゃんのおうち!

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「それでねそれでね、スコーンだと思ったらね、なんとたくあんだったの! でも美味しかったからバンバンジーKO!」
「ふふ、それを言うなら万事オッケーですよ」
「よく理解できたな……」

 いつも通りのんべんだらりと校舎を後にする三人。
 今日も一日の授業が終わったわけだが、取り立てて語るべきこともない。
 ごく普通に勉強して、居眠りして、何人かの不良を花壇に植えたくらいだ。特に語るべき事象がない。

「ねーねー、今日もやっちゃいますっ? ……コレ」
 ぐいっと杯を煽るジェスチャー。オヤジ臭い動作だが、勿論なのが誘っているのは飲酒ではない。
「カフェですか。魅力的ですが、今日は……習い事がありますので。本当に……なのちゃんの誘いを出るのは血涙が出る程辛いのですがぐぬぬ……」
「ってマジで血が出てんぞ!?」
「澪ちゃん、耳からも出てるよぉ!?」

 澪にとって、なのはただの想い人ではない。恋愛感情が天元突破して、もはや崇拝すべき『唯一神』。
 如何なる理由があろうとも、その誘いを断る背信行為を是とすることなどできない。
 だがそれでも、元来生真面目な彼女の性質から、予定を急遽キャンセルする道など選べない。

「はぁ、はぁ……すみません、迎えが来ているので」
 澪がフラフラと近づいていったのは、校門前に横付けされた黒塗りの車。政財界の重鎮、もっと言えば黒い噂が付いて回るような人物が乗り回す、ブラックリムジンだ。

「お、おい? 車間違えてねーか?」
「ううん、間違えてないよ!」
 壊涙の疑問に答えたのは、なのだった。

「澪ちゃんはね、おっきい車に乗れちゃうくらい……お金持ちなんだよ! いいとこのお嬢様!」
「へー、アイツ育ち悪そうなのに見かけによらなあだっ!」

 壊涙の額に、小型の飛翔物体が衝突した。コロコロと床に転がるそれは、小さな石だった。

「すみません、足が滑りました」
 澪が地面の石を踵で踏み飛ばし、絶妙なコントロールで壊涙にクリーンヒットさせたらしい。
 偶然に起こりえることでは、勿論ない。
「てっめぇ……器用なことしやがって。ぶちのめしてや……っておい! 逃げんな!」

 喚く壊涙に見向きもせず、助手席に乗り込む澪。なのへの裏切り(?)からか、心底体調が悪そうだ。
 人の目もあり、弱ってる澪をそれ以上怒鳴り散らすのは気が引けた。

 壊涙はしぶしぶ引き下がり、
「チッ、じゃーな時時雨。地獄に堕ちろ」
「ばいばい澪ちゃん! また明日ねー!」
「さようなら、我が神……じゃなくてなのちゃん。あと山猿」
 いつも通りの挨拶を交わした。

 そして澪が車の扉を開く直前、何の気なしに横のなのへ視線を向けて。
「この後どうする? ゲーセンでも行くか?」
「わーいゲーセン! ゲーセンって何の略?」
「お前ヤバすぎだろ……」
 なのと本日の予定について話し始めた。

「……」

 澪は扉を閉める手を止め、二人を五秒ほどじっと見つめた。壊涙に対しては睨みつけたという方が正しいが。
 そして肺の空気全てを吐き出すような嘆息をして、右手をバッと振り上げた。

 すると。

 ザザザザザッ!

「な、なんだてめえら!?」
 なのと壊涙を、十数人の黒服集団が取り囲んだ。無機質な表情をサングラスで更に冷たい印象にして、同じようなスーツを着ている。
 クローン? 逃○中のハンター?
 
 壊涙は反射的にファイティングポーズを取るが、
「澪ちゃんとこのぼでぃがーど? さんたちだ! お久しぶりです! なのです!」
『……』
 一斉になのへお辞儀する黒服たち。どうやら敵対勢力ではないらしい。

 壊涙は握りしめていた拳を下ろした。
 危ない危ない。なののセリフがあと二秒遅ければ、黒服たちのサングラスは割れ散っていたことだろう。

「んで、アンタら何が目的だよ。挨拶か? アイツと……時時雨と仲良くしてくれ的な? 過保護すぎだろ」
 そんな壊涙の悪態には反応せず、黒服たちは陣形を組んで……なのを四人がかりで持ち上げた。

「な、何してやがる!」
「わ~~~♪ おみこしわっしょい、わっしょしょい~♪」

 壊涙の狼狽を余所に、なのは酷く楽し気だった。苦しゅうない苦しゅうない……そんなどこぞの大河ドラマで覚えたようなセリフをのたまいながら、黒塗りの高級車へと運ばれて。
 そのまま後部座席にぶち込まれてしまった。

「は……? おい!」
 慌てて追いすがろうとする壊涙に、残りの黒服たちが手を広げて立ち塞がる。要人のSP顔負けの統率された陣形に、さしもの紅蓮童子もたじろぎざるをえない。

 その隙を突くかの如く。
「出してください、今すぐ」
 澪の指示で、リムジンが発車してしまった。当然車内にはなのもいる。澪は、壊涙だけを置き去りにしたのだ。

「あの、野郎~~~……!!」

 奇行の理由は、嫌がらせと嫉妬に決まっている。壊涙となのが放課後の時間を二人きりで堪能するのが気に食わなかったのだろう。
 だから、引き剥がすべくなのを拉致した。
 短絡的な犯罪者思考。

 どんどん遠ざかっていく高級車、壊涙の行く末を阻む黒服たち。
 そして……去り際に見えた、澪のにやけ面。
 全てが神経を逆撫でして、壊涙の怒りは、あっさりと沸騰した。

「上等だコラァァアアァァァア!!」
 
 
 +++++

 数十分後。

「はあ、はぁ……クソが……どんだけ走らせるんだよ……!」
「あの、警察ですか? 家の敷地内にストーカーがいるのですが……はい、はい。銃殺して結構です」
「クソアマァァ!!」
「ジョークではないですか。小じわが増えますよ、お猿さん」
「ウキィィイ!!」

 なんと壊涙は、黒塗りの高級車に追いついた。タクシーで追跡した? 否。
 黒服たちの頭上を跳躍して飛び越え、そのまま全力疾走で追走したのだ。
 高速道路を経由したため、一時的には百キロにも至る車を、人間の足で。

 常人の身ではありえない。だが壊涙に不可能はない。
 取り立てて骨格が太いわけでもない、どちらかと言えば細見の女性。
 だというのに、ターミネーターもびっくりの身体能力を誇るのだから。
 さっさと漫画の世界に帰って頂きたい。

「はぁ……折角なのちゃんと二人きり、おうちデートの予定だったのに……。まあ湧いてしまったものは仕方ありません」
「ゴキブリみてえに言うな」
「どうぞ、裏口からお帰りください」
「ふざけんな!!」
 
 睨み合う竜虎に興味を示さず、なのはとてとてと玄関に近づいていく。
 池を携えた、風情ある庭園。形のいい木が美しく配置されているのを見るに、腕のいい庭師を雇っているのだろう。
 そして何より、目の前の勇壮な木造建築。

 近代化の波に逆らうような、和風建築。掲げられた表札には、『時時雨』の文字。
「やっぱおっきいな~……澪ちゃんの別荘!」
「別荘!?」
 壊涙の見立てでは六百坪を超える、超の付く大豪邸。
 それが別荘だというのか?

「違いますよ、なのちゃん。ここは別荘じゃありません」
 流石に違ったらしい。なののおっちょこちょいのせいで、いらぬ衝撃を受けてしまった。

「道場です。狭くて汚い、私が習い事を受けるためだけの場所ですよ」
「えへへ、そうでした!」
「そうでしたじゃねえだろ!?」

 贅沢というか何というか、ここは習い事を受けるためだけに存在する場所らしい。控えめに言って意味不明だ。
 金持ちの道楽恐るべし。

「そうっス、お嬢様のご自宅はこんなもんじゃねーッス。城っすよ城。本能寺の変ッス」
「縁起でもねーこと言うなよ……って、誰だ!?」
「ッス」

 いつのまにか壊涙の真横に立っていたのは、奇妙な出で立ちの女性だった。
 ぽってりとした唇に、緩やかにウェーブを描くストロベリーブロンド。アイメイクにも余念がなく、目元がキラキラしている。
 そんな如何にもギャル風な女性なのだが。

「……メイド?」
「うス。メイドさんッス」

 着用している服は、クラシカルなメイド服。いやミニスカである。ミニスカ黒ニーソ。ギャルとメイドの混合生物キメラがそこにいた。
 
「あー!! エマちゃんだー! エマちゃーん!」
 とてとて愛らしい靴音を響かせながら、ギャルメイドに勢いよく抱き着くなの。
「おとと」
 弾丸のようななのを辛うじてキャッチして、エマと呼ばれたギャルメイドは困ったように苦笑した。

「なのっち、相変わらずお転婆ッスね~。およ? 背、ちっと伸びた?」
「全く伸びてないよ! むしろミリ単位で縮んだかも!」
「小人でも目指してるッスか?」

 親し気にやり取りする二人。頬をつんつんしたり、つんつん返ししたりという壊涙がしたことのないコミュニケーションを披露され、正直嫉妬を覚え始めた。唇を噛み、怒気を燃やして――
「人の家で殺気を出さないでください。バーサーカーですか貴女は」
「っと……わりぃ」
 澪に肩を引かれ、修羅になる寸前で正気を取り戻した。

 壊涙はバツの悪さを感じつつ、澪の横顔を盗み見た。にこやかに微笑んで、追いかけっこをして遊ぶ二人を見つめている。
 
 ――コイツは、嫉妬とかしねえのか?

「嫉妬を覚えるのは私もです」
「!?」
 心の中を読んだかのような言葉に、壊涙は肩を震わせた。
 澪はそんな壊涙を一瞥もせず、独り言のように語りだす。

「ですが、一々目くじらを立てていたら身が持ちませんよ。なのちゃんに好意を寄せる不遜な輩は即断罪しますが……」

 不穏な前置きをして。

「なのちゃんが笑顔を振りまくのを咎める資格は、誰にもありませんから。あの子は……誰にでも優しいんです。誰とでも仲良くしてしまうんです。私にだけ特別な笑顔を向けてくれてる……なんて自惚れるには、なのちゃんを知り過ぎました」
「時時雨……」

 壊涙にも、その言葉の意味はよく分かる。なのと出会ってから、たかだか一週間だが……彼女は出会う人物全員に笑顔を振りまいている。
 初対面の壁を気にせず、仲良くなろうとしている。
 それが例え、自分に剣を向けた田中であろうと。

 悪意に気づかず、無限の善意を振りまく。それが小和水なのという人間だ。
 月並みな言い方をすれば、彼女は皆を平等に愛しているが故に、一人を特別に愛したりはしないのだ。
 
 そんな度量の広さがなのの長所ではあるのだが、なんだかやりきれない。
 壊涙自身も、恋敵の澪も。そんななのの特別になりたいのだから。

 ――コイツは、滅茶苦茶やってるように見えて……今までたくさん、我慢してきたんだろうな。小和水の一番傍にいたのは、紛れもなく時時雨なんだから。
 
 壊涙が共感と親しみにより、澪の評価を一段上げた時。
「捕まえたッス~♪」
「ひゃぁぁ♪ エマちゃん足はやーい!」
 なのの脇に両手を差し込み、高々と抱えるエマの姿があった。そのまま彼女は、下心を一切感じさせない自然さで……なのに頬ずりをした。
 チャーミングなもちもちほっぺに、自分の頬を擦りつけたのだ。

「ふぅ。いい天気ですねー……つい、メイドの服に仕掛けた爆弾を起爆させたくなっちゃいます」
「やめろッッ!!」

 あっさりと自分のメイドを亡き者にしようとする澪を、壊涙が羽交い締めにして止めた。
「離してください! そいつ殺せない!」
「殺させねえよ!?」
 般若の形相で、なおも澪は暴れた。

 想い人を尊重して一歩引いているお淑やかな少女、という幻想は早くも崩れた。やっぱりコイツは独占欲強めのヤンデレストーカーだ。
 一段階上がった澪の評価は、即ランクダウン。地の果てにめり込むのだった。


 そんな騒動を終えて、道場へ足を踏み入れた三人。
 習い事の準備をすべく着替えに行った澪を、座布団の敷かれた畳の客室で待つ二人。

「これどうぞッス~」
「やったー! 大福! 大福の山だ!」
「時時雨グループ傘下の和菓子屋で作ってる高級品ッスよ~」

 メイドが持ってきたのは、文字通り大福の山。こんもりと積まれた山は、米で換算するなら六合はあるだろう。
 なのの際限ない食欲を熟知している故の采配だろう。

 とはいえ流石のなのも、人の家でバカみたいに食べるわけは――
「もぐもぐもぐもぐ……うまーい! おかわり! どら焼きトッピングで!」
「合点承知ッス!」
 あった。この埒外のおバカに、一般的な常識など当てはまるはずもなく。

 ペロリと大福の山を平らげてしまった。
「お前の腹はブラックホールか……」
「ぶらっくほーる? ホールサイズのチョコケーキ? 好き!」
「食欲の化け物か……」
 進路が危ぶまれるなのだが、フードファイターなど向いているのではないだろうか。可愛いし大人気間違いなし……というのは壊涙の主観だが。

「っと、アイツの準備ができたようだぜ」
「ホントだ! 澪ちゃーん! おーい!」
「こっから呼びかけても聞こえねーだろ」
 
 部屋に備え付けられた巨大モニターに映っているのは、リアルタイムの映像。着物に着替えた澪が、優雅な所作で和室へ入る映像だ。
 流石に習い事の邪魔をするのは本意ではないため、こうしてお菓子を摘まみながら澪の勇姿をオンライン観戦する運びになった次第である。

 最初の習い事は、日本伝統の様式に則り、客人に茶を振る舞う和の神髄。
「茶道か」
 茶道である。

 作法がかなり厳格で多岐にわたっており、なのは勿論、ガサツな壊涙にも到底こなせない高難度の習い事。

「澪ちゃん、綺麗……」

 それを澪は、悠々とこなしてみせた。指導役の老女が口を挟む隙が無いほど淡々としていて、流麗な所作。
 水が上から下に流れるかの如き自然さで湯呑に茶を淹れて、相手に提供する。

 ニコリと澪が浮かべた笑顔は、ベテラン女将のようにそつのないものだった。当然お点前も結構なものらしい。
 茶を啜った老女の顔に、演技ではない感動が広がったのが、画面越しにも分かった。

 茶をたてるという行為は、見ていて楽しいものではない。そのはずなのに、
「あれ、もう一時間経っちゃったの?」
「うぉ、マジか」
 なのも壊涙も、時間を忘れて見入ってしまった。
 夢心地だった二人は、澪が指導者に礼を言い、和室を後にしたところでようやく現実感を取り戻した。

「お嬢様は、なのっちに美味しいお茶を飲んでほしいからって茶道を始めたッスよ」
「え~! なの感激! でも飲ませてもらったことないよ?」
「お嬢様は完璧主義ッスから、自分で納得いく腕前になるまでは飲ませられないんだと思うッス。特になのっちには」
「ふにゅ? どういう意味?」
「ま、そのままの純粋ななのっちでいてくれッス」
「んー?」

 澪直属のメイドであるエマは、当然彼女の恋心についても気づいている。というか別に澪は隠していない。
 皮肉にも、当のなのだけが気づいていないのである。

「お、映像切り替わった。次は……」
「お絵かきだね!」
「書道だろ」

 汚れてもいいようにだろうか。今度の澪は、紺色の作務衣に着替えていた。
 そしてそのまま、巨大な筆を手にして――

『轟け!!』

 部活動のスローガンじみた言葉を書き綴った。内容はさておき、実力はやはり折り紙付きだ。

「うぉ……なんか、涙が」
「なのもだよぉ……」

 言ってしまえば、墨汁に浸した筆で紙の上をなぞっただけ。だというのに、澪の一筆には凄味があった。
 文字の美しさ、迫力だけで人の心を揺り動かす、そんな強大な魔力が秘められていた。

「お嬢様はなのっちと将来暮らす時、部屋に飾る掛け軸を自分で手掛けようと思って書道を始められたッス」
「んだその動機……」
「なのと一緒に、暮らす……? 澪ちゃんと暮らすの楽しそう!」
「ッ!!?」

 思いのほか澪との同居に乗り気ななの。失恋の衝撃に打ちのめされかけた壊涙だが、
「ね、壊涙ちゃんも一緒だよ! 仲良しさん皆で、ずっと一緒!」
 なののそんな一言で上機嫌に戻った。現金なものである。

「あ、次はなんだろう?」
「なんか白衣着てっけど……」

 続いて実験室のような場所に現れた澪は、純白の白衣に目元を保護する実験用ゴーグルという物々しい装備をしていた。
 指導者の男性は、ザ・科学者(?)といった爆発白髪ヘアーだ。

 一体何が始まるのか、固唾を呑んで見守っていると。

 ドゴォオオオオオオン!!

『!!??』

 けたたましい爆発音を最後に、映像がプッツリ途切れてしまった。どうやら、カメラが故障してしまったようだ。

「お嬢様は、爆弾作成にも心血を注いでるッス。いざという時なのっちを守れるのは、科学の力かもしれないッスからね。大切な人の為に持てる手段を全て使う……素晴らしい限りッス」
「流石澪ちゃん!」
「お前よく分かってねえだろ?」

 爆発物取締罰則を知らないのだろうか……どことなく闇を感じたので、壊涙はそれ以上深く考えるのをやめた。

「にしてもアイツ、どんだけ習い事入れてるんだ」
 なのがトイレに立った際、ふと浮かんだ疑問を口にした。
「お嬢様はマジで、なのっちラブッスからね~。回り道だろうと徒労だろうと、できること全て、自分の人生全て捧げる気概っぽいッスよ」

 思いのほか丁寧に返ってきたメイドからの返答に、壊涙はしばし考え込む。

 ――そうだよな。いけ好かない奴だけど……アイツの小和水への愛は本物だ。アタシより、ずっと努力してる……凄いな、アイツ。

 澪の想いの深さに、身震いした。妄念ともいうべき執着でなのを愛する澪と、恋敵として競い合うことの無謀さに足が竦む。
 潔く身を引くべきなのだろうか。らしくない弱気が鎌首をもたげた。

「壊涙ちゃんどーしたの? 元気ない? なのの元気分けてあげるね! お膝、ちょこんっ♪」
「……っ」

 帰ってくるなり、壊涙の膝上に腰を下ろすなの。普通よりも高い体温と、立ち昇る甘い香りにノックアウトされてしまいそうだ。
 無邪気に、無自覚に誘惑して。
 
「えへへ~、壊涙ちゃんの胸、ふかふか~」
「ぐっ……」
 豊かに実った壊涙の双丘を枕に、心地よさげに目を細めるなの。恋人のような気安い距離感に、壊涙の胸は張り裂けてしまいそうだ。
 触りたい、頬ずりしたい……抱きしめたい。

 ――ああ、ダメだ。笑っちまうほど、コイツのこと好きだ。

 澪の想いの方が深いかもしれない。積み重ねてきた時間も、努力の量も違うかもしれない。それでも、この気持ちを捨て去ることはできない。
 容易に捨て去るには、育ちすぎてしまったから。

「わー! やっぱり澪ちゃん、剣振ってる時が一番綺麗~!」
「……そうだな」
「なのね、剣振ってる澪ちゃん大好き!」
「……」

 無邪気にはしゃぐなのの頭頂部を見ながら、壊涙の胸は虫歯のように痛んだ。人を好きになるのは、誰かと一人の女性を取り合うのはこんなにも苦しいのか。
 それでも逃げ出すことも、投げ出すこともできないから。
 苦しさが募って、重たい。

「壊涙ちゃん、こっちのお饅頭も美味しいよ! はい、あーん」
「あ……むぐっ」

 だけど、それ以上に甘い。和菓子のように胸を満たす甘さが忘れられなくて、思い焦がれて。人は恋という不毛な熱病に罹るのかもしれない。
 二刀流を振るう澪の凛々しい姿に夢中のなの。そのなのに夢中な壊涙。

 今はまだ、抱きしめる勇気すらもない。
 臆病で初心な赤鬼は、ただ切なさに歯噛みした。


 そうしてモヤモヤとしている内に、澪の習い事は全て終わった。
 澪は最後まで渋っていたが、帰りは送ってくれることになった。走って帰るためのウォーミングアップを済ませていた壊涙としては、少々肩透かしだが。

「……」
「何ですか、人の顔をじろじろ見て」
「あ、わりぃ」

 無意識に澪の顔を見つめていたようだ。無理もない。
 壊涙が今直面している悩みに、目の前の少女はとっくの昔にぶち当たって、それでも真っすぐに立ち向かっているのだ。
 今の壊涙からすれば、その姿勢は酷く眩しくて。自分の遥か先を進まれているような錯覚に陥ってしまう。

 馬が合わない。生理的にムカつく。ボコボコにしたい。
 大嫌いで大嫌いで仕方ない。だが、認めざるを得ない。

 澪は、なのを愛するためには避けて通れない……強敵だと。
 最強最大の恋敵であると。

 史上最大の敵を前に、それでも壊涙は。低く小さく呟いた。
「……上等だ」
 幾多の喧嘩を買った時のように、凶悪な角度に唇を吊り上げて。
 決意を新たに固めなおした。

「壊涙ちゃん、澪ちゃん、帰ろう! 夜ご飯まだかな~、お腹すいた!」
「まだ食うのかよ」
「食べ放題でもてなすべきでしたか。配慮が足りず申し訳ございません」

 黄昏に染まる空の下、壊涙は人知れず拳を握った。
 血が出るほどに強く、強く、熱く。

 ――アタシだって、やれる限りのこと全部やって……小和水と結ばれてやる! お前にも負けねえからな……時時雨!

 
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