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 北条が一時帰国する日の朝早く、ピンクの巨大キャリーバッグとスポーツバッグをひっさげたノン子が、木山に連れられて健吾の部屋へやってきた。

「んま、キレイなお部屋!でも健ちゃんたら、意外に地味なとこに住んでるのねぇ。健ちゃんだったらもっと良い所に住めるでしょうに」
 部屋に一歩入るなり、ノン子は健吾の住まいがが地味だと笑いだす。
 それなりの人気と収入があるくせに、いまだ古びたオネエマンションに住み続けているノン子にだけは言われたくないセリフだ。

「ノン子さん、健吾をお願いします」
 ノン子とは対称的に、殆ど荷物を持たないで出掛ける北条が頭を下げ、隣に立った健吾の頭も、北条の大きな手に押されて一緒に下げられた。
 またもや子ども扱いだとは思ったが、ここのところはすっかりあきらめの境地に達している。
 北条とはあれ以来、キスを交わすことはもちろん、体の関係も持っていない。
 二人で律儀に清文と交わした約束を守り続けているのだが、そのことで焦りを感じることもなかった。

 あの日、清文はこれからの二人についてどうするのかはっきり決めるよう北条に詰め寄った。
 その姿を見て、まるで娘を弄ぶ男に腹を立てる父親のようだ、と思ったことは、口に出して言うと面倒なことになるのがわかっているので、心のうちに秘めておくことにしている。

 北条は、「ボディガードと依頼人という関係は今まで通り変わらず、それ以上の関係にはならない」と、清文の前で言い切っていた。
 けれど、今回の件が解決したら、それからは二人の意思で自由に決めたい、とも宣言している。
 健吾もそれに異論はない。

 そんな曖昧な状況でもあるので、健吾自身は北条の出発に際しもっと情緒不安定になるのでは、と危惧していたのだが、自分でも意外に思う程に動揺はしていなかった。
 北条が荷物のほとんどを健吾の部屋に置いて出かけるというのも、情緒が安定している大きな要因の一つなのだろうと思う。
 もっとも、北条の本拠地はあちらなので、わざわざ荷物を持って出なくても自宅に不自由なくそろっているというだけなのかもしれないが、それでも健吾の部屋にスーツや日用品を置いたままにしていくのは、必ず戻ってくるという意思表示であるような気がして安心できた。

「必ず木山か鈴置と行動しろ。ノン子さんにうまいメシ食わせてもらって、俺が戻るまでにちょっとは太っておけよ?」
 北条が健吾の頬に軽くキスしながら言うのに、「一週間じゃ無理だよ」と笑って返す。
「ちょっと北条さん!」
 二人を見ていたノン子が、健吾の肩を掴んで押しのけ、北条との間に立って「ん!」と顔を突き出した。
「ちゃんと健ちゃんの面倒見ます!だからアタシにもおでかけ前のチュウしてちょうだい!」
 
 心が乙女なノン子は、北条のことがすっかりお気に入りらしい。
 今日も北条に会えるとあってか、バッチリメイクに勝負服らしいひらひらの春物ワンピースを着用している。
 メイクも服もとてもセンスが良いのだが、着てる本人が目を見張るほどの筋肉の持ち主なので、キワモノオネエにしか見えない所が非常に残念だ。
 もっとも、北条という男にとって、外見はその人の人となりを判断することにはあまり関係がないらしく、彼はノン子を完璧に女性として扱っている。
 そんな北条の態度が、より一層ノン子の女心をくすぐっているのだろう。

「ノン子さん、いってきます」
 北条がノン子の肩を抱いて頬にキスしようとすると、「待って!」とノン子がストップをかける。
「待って待って!チュウならやっぱりほっぺじゃなくて、おでこがいいわ!」
 女の子の憧れ、デコチュウよ!と鼻息荒くせまるノン子に、「承知しました、お嬢様」と北条は笑って額に唇を押し当てた。
 ノン子は自分で要求したくせに、北条のキスの威力に腰砕けになってしまい、後ろで事態を見守っていた木山にしがみついて深呼吸している。
「木山、頼んだぞ。なるべく早く戻る」
 ノン子を支える木山の肩を軽く叩くと、北条は玄関へと足を進めた。
 
 健吾が後をついていくと、何かを思い出したかのように、北条がふと振り返った。
「なに?忘れ物?」
 首を傾げる健吾を見下ろすと、「おまえもおでこがよかったか?」と北条が意地悪くニヤリと笑う。
 デコチュウをちょっとだけうらやましく思っていたのが、顔に出てしまっていたらしい。

「そんなことない」とむくれて否定すると、北条は笑って側へやってきた。
 後頭部に手を置かれてぐいっと引き寄せられたかと思ったら、あっという間に唇を重ねられる。
 甘噛みされるように強く、キュッと音を立てるようにして北条の上唇と下唇に舌先を挟まれると、ノン子同様、腰砕けになってしまい、支えるたくましい腕にすがるほかなかった。
「ん……」
 巧みな北条のキスに、いくつもの吐息がこぼれる。
「清文さんには秘密だ」
 最後についばむようなキスを落とすと、北条は健吾の頬をなで、「行ってくる」とそのままドアをくぐって出掛けて行った。
 キスの余韻にひたってぼんやり北条の消えたドアを見送っていたかったが、後ろからやたらに不穏な気配を感じて、健吾ははっと振り向いた。

「ちょっとお、健ちゃん。見せつけてくれるじゃあないの」
 木山の腕に巨大なコアラのようにしがみつきながら、ノン子がじっとりと健吾を見ていた。
 木山はといえば、目が合うやいなや、気まずげに視線をそらしてしまった。
 頬や髪にキス、ぐらいはしょっちゅう見られていたが、唇への濃厚なキスは衝撃的だったのに違いない。
「しかもなによ。美男美男でさ。男同士のクセに、絵になるったらないわ」
 いってきますのキスは嬉しかったが、こんな波紋を広げたままこの場に健吾を置き去りにしていった北条に恨み言のひとつでも言ってやりたい気分だった。
 北条はきっと、こうなることを予測して、今頃笑っているに違いない。

「えーと、ですね。これはその……」
 しどろもどろに言い訳しようとすると、「木山っ!ちょっとアタシにキスしてみなさいよ!」とうろたえる健吾そっちのけで、ノン子が木山につかみかかった。
 木山が思わずのけぞって後退していくのを、ノン子が野太い腕でネクタイを引っ張って引き寄せる。
「なにグズグズしてんの!キスのひとつやふたつ、減るもんじゃあるまいし!いいから早く!」
 健吾が止める間もなく、半ば強引に、ノン子は木山の唇を奪った。
「んーーーー!!!」
 じたばたと暴れる木山が気の毒すぎて、健吾は思わず頭を抱えた。
 北条や木山はノン子を女性と認定しているので、たとえ嫌でも、突き離すことなど考えもしないのだろう。
 抵抗しないのをよいことに、ノン子に思い切りベロチューをされている。

「ねぇ、どうだった?健ちゃん!木山とアタシのキスシーンは、絵になってたかしら?!」
 どうやらそれを確認したかったらしい。
 健吾が微妙な表情で首を横に振るのに、木山がなんとも情けない顔でこちらを見ていた。
 完全にキスされ損だろう。

「なんでよー!こんな美女が仕掛けたキスなのよ?ううん、でも、やっぱり相手によるのかしら?」
 確かにノン子は、男のままだったら十分イケメンの部類に入る整った顔立ちなのだが、女性の姿をしている現在はかなりキワモノの部類に入るといえる。
 せめて格闘家並みの筋肉質の体でなければ、スレンダーな美女に見えたのかもしれないが……。

 木山ががっくりと落とした肩を、健吾はポンポン叩いてなぐさめることしかできなかった。
「ファーストキスだったのに」という呟きは、聞かないであげることにした。
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