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朝凪の協奏曲(コンツェルト)
行方不明
しおりを挟む薫が家に戻ったのは、それから二日後の、午前四時を回った頃だった。
「おまえが二日もヴァイオリンを手に取らずに弟の相手とは、な。兄弟水入らずで楽しんで来たかい?」
リヒャルトが、ニヤリ、と唇の端を持ち上げる。精一杯のからかいのつもりなのだろう。そして、その言葉からしても――、
「……エリオットは戻っていないのか?」
訊く必要もないことだったかも知れない。エリオットと顔を合わせずに済むように、リタの部屋に泊まっていたことも、全く必要のないことだったのだ。
「エリオット? おまえと一緒に出掛けたじゃないか」
「……」
「おいおい、カオル。また喧嘩かい? この間仲直りして、仲良く出掛けたところだろ?」
半ば呆れ顔のリヒャルトの胸中も、よく解った。薫自身、ここにいる間は優しくしてやろう、と心に決めたばかりだったのだから。それなのに……。
何も応えず――応えることが出来ずに、薫はサイドボードからヴァインブラントを取り出して、ゆっくりと揺れる琥珀色の液体を、グラスに注いだ。
「何をしてるんだ、薫?」
エリオットを捜しに行くわけでもなく、酒を呑み始める薫を見て、リヒャルトが訝しむように眉を寄せた。
もちろん、そうなることも解っていたが、
「何、とは?」
薫は訊いた。
「そんな風にのんびりと酒を飲んで――。弟を捜しに行かなくてもいいのか? ここへ戻って来ているかどうか確かめるために立ち寄ったんだろ?」
そんな優しさを見せることが出来たのなら、どんなに良かったか。
「エリオットを車から降ろしたのは二日も前の話さ。何処へ行ったかなんて知らない」
薫が言うと、
「な……っ」
リヒャルトの面が、驚愕に変わった。招かれざる客とはいえ、まだ十七、八歳の子供を放り出し、捜しに行くでもなく酒を飲んでいるのだ。それも当然のことだっただろう。
「おまえは一体、今まで何をしていたんだ!」
と、語気を荒くして、怒鳴りつける。――怒鳴られる価値もない人間だというのに。
「マルゲリータと偶然会って、愛し合って、酒を飲んでいたさ。それだけでも充分疲れてるのに、これからまた捜しに行け、って言うのかい?」
こんな言葉しか返せないのだから。
グラスのヴァインブラントが、ゆらりと、揺れた。まるで、薫自身の心のように。
「こ……この野郎――っ!」
リヒャルトの限界も、そこまでだったようで――。怒りに任せて、薫の横っ面にこぶしが飛んだ。
「くっ!」
頬を穿つ衝撃に、薫は椅子の上から吹き飛ばされた。
グラスが、きらめくような音を立てて砕け散り、床の上に咲き誇る。
リヒャルトのこぶしは、白く、細かく、震えていた。
「……おまえが俺の惚れ込んだヴァイオリニストでなければ、手加減などしてやらなかった」
と、もう一方の手で、震えるこぶしを包み込んだ。そのこぶしはきっと、薫の頬と同じくらい、酷い痛みに苛まれていたのだろう。
唇に滲む血を拭い、薫は自分自身を嘲笑った。
「おまえ……あの子のことが心配じゃないのか? ニューヨークで生まれ育ったとはいえ、子供は子供だ。危険な街はニューヨークだけじゃない。妙な通りにでも紛れ込んだりしたら――」
「俺は彼奴のお守りじゃない!」
きつい胸中を吐き出すように、薫は言った。
「……カオル?」
「俺にどうしろと言うんだ? ずっと面倒を見てやれとでも言うのか? 優しく抱いてやれとでも? ――ハッ! 俺はストレートだ。抱くのも女とヴァイオリンだけだ。……女もヴァイオリンも、どっちも抱き方は同じだ。左手でしっかりと支え、右手で優しく愛撫する……」
「……何を言ってるんだ、カオル? まだ酔っているのか? 弟がおまえを頼ってニューヨークからわざわざ逢いに来たんだ。二、三日相手をしてやるくらい、何でもないことだろう? どうかしてるぜ、おまえは」
――どうかしてる……。
多分、そうなのだろう。自分はどうかしてしまったのに違いない。自分が傷つくことよりも、相手を傷つける方が楽だったのだから。
「クックッ……」
床の上に横たわり、薫は肩を揺らして低く笑った。
「――カオル?」
「クックッ――。アハハハハ――っ!」
本当に、楽、だったのだろうか。
この笑いは、人を傷つけて楽になった笑いであったのだろうか。
「カオルっ! ……一体、何だって言うんだよ。あの子はおまえの何なんだ?」
リヒャルトの表情は、困惑の形に揺れていた。
――何……。
彼は一体、薫の何である、というのだろうか。
「何でもないさ。シャワーを浴びて来る」
笑みも残さずに立ち上がり、薫はバス・ルームへと足を向けた。
「おいっ! 探しに行けよ、カオル――っ。この前の時と違って、あの子はホテルに泊まる金も、ニューヨークに帰る金も持ってないんだろ? どこかで悪い奴に絡まれでもしたら――」
バタン――、とバス・ルームのドアを、乱暴に閉じる。
「おい、カオル! あの子はおまえだけを頼りにここへ来たんだっ。あの子がどうなってもいいのか?」
「……」
「カオル――っ!」
リヒャルトの声は、水音に、消えた。
そして、それは、薫にはどうすることも出来なかった。
肌を刺すような冷たい飛沫も、心より冷たくなることは、決して、なかった。
『トオル義兄さんはいい人だよ。おっとりしてて、不器用で、どこか間が抜けてて――。だから姉さんも……』
――だから、姉さんも……。
――だから、彼女も……。
『ねェ、聞いて、カオル。トオルったらね、姿が見えないと思ったら、何もないところでつまづいて転んでるのよ。少し目を離すと、あっと言う間に道に迷っちゃうし』
『クックッ。兄貴なんか放って置けばいいのさ。どんくさいのは昔っからだ。お陰で弟はこの通り、しっかりしてる』
『クスっ。ホントにそうね。――でも、そういうところが放って置けないのよ』
――そういうところが……。
『アニー、ぼくと結――』
『こーらっ、二人でまた、俺の悪口かい?』
『やだ、聞いてたの、トオル?』
『ああ、全部な。年上の男を捕まえて、何が放っておけない、だか』
『クスクス。――だって、本当のことですもの』
『ムッ。――薫、アグネスの言葉に耳を貸すなよ。こんな小さい話を、こーんなに大きくして言ってるんだからな』
『……』
何でも兄には勝っていると思っていた。成績も、才能も、容姿も……。
とんだピエロだったに、違いない……。
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