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朝凪の協奏曲(コンツェルト)

想い

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 そこには、さっきまでホールでヴァイオリンを奏でていた、薫がいた。
「にーさ……」
「――ったく、どういう積もりだ、エリオット! おまえのお母さんから電話があって、おまえの様子を尋ねられた時は、返す言葉もなかったよ。――ニューヨークへ帰らず、何をしている? 世界で一番古い職業にでもついて、春をひさぐ積もりで――」
「あなたは他人のことまで気にするのかい、カオル・コウサカ?」
 きつい眼差しで、エリオットは言った。
 多分、そんな言い方をする積もりはなかった。薫がもっと優しい言葉をかけてくれて、自分のことを心配してくれていたのなら、きっと素直な言葉を返していただろう。――いや、それはエリオットだけでなく、薫の方も同じことだったかも知れない。エリオットが素直にニューヨークへ帰っていれば、卒業後に遊びに来ることくらい、許してくれていたかも知れない。
 だが、エリオットは薫の言葉に傷ついていたし、薫もまた、過去の傷と、一人でドイツに残った義弟を心配して、五日間の時を費やしていたのだ。
 お互い、瑠璃細工のように、壊れやすい心しか持ち合わせてはいなかった。
 だから、素直になることが出来なかったのだ。
「この街では売春も政府に公認された正式な職業だよ。あなたにそんなことを言われる覚えは――」
「来るんだ」
 薫の方が先にエリオットの手をつかんだのは、多分、この五日間、ずっとエリオットの心配をしていたからだろう。
 そんな心配や優しい言葉を、互いに口に出せれば良かったのかも知れないが……。
 薫に手をひかれるまま、エリオットはベンツの後部座席に乗り込んだ。
 運転席には、リヒャルトがいる。
 車は静かに走り出した。
 こうして、薫が自分を見つけてくれることを期待して、あのホールに薫のヴァイオリンを聴きに行ったのだ、きっと……。
「……にーさんのヴァイオリン、聴いたよ」
 エリオットは言った。
「ああ。リヒャルトから聞いた。リヒャルトがホールにいるおまえを見つけなければ、あのままどうなっていたか――。子供とはいえ、ニューヨークで生まれ育った人間が、知らない男たちにノコノコと付いて行くような真似をするとはな。正式な売春をしたければ、十八歳になってからやれ。それが許可年齢だ」
 厳しい口調だったが、それがエリオットを心配しての言葉だということは、解っていた。だからもう、解らないフリをして、反抗して見せるような真似も出来なかった。
「……。嘘だよ。知らなかったんだ。カフェ・テリアの前で貼り紙を見てたら、その中からあの人たちが出て来て、声をかけられて――。だから、その店の人たちかと思って……」
「帰りのチケット代なら出してやる。さっさとニューヨークへ帰れ」
「にーさん――!」
「もう、金もないんだろう?」
 確かに薫の言う通りである。だから、カフェ・テリアの貼り紙を見ていたのだから。
「……。仕事をするよ。もっとちゃんとした。ドイツで暮らしたいんだ。だから――」
「馬鹿なことを言うな! ガキのくせに何が仕事だ」
「ぼくは子供じゃない!」
「ハッ! ああ、立派な大人だ。呆れるくらいにな」
「――」
 何故、こうなってしまうのだろうか。薫の心配や自分の愚かさは、充分過ぎるほど解っているというのに――。それでも、このままニューヨークに帰る訳には行かない。帰ってしまえば薫は、来年の春にはピアニストのマルゲリータ・ベッツと結婚してしまうのだから……。
「明日の朝の便を取ってやろう。今夜のホテル代も出してやる」
「ぼくは――っ」
 思いの丈をぶちまけようとした時、
「おいおい、二人とも車の中で喧嘩はやめてくれ。気になって仕方がない」
 運転席のリヒャルトが、顰めっ面で振り返った。
「ああ、すまない。このまま空港の近くのホテルへ運んでくれ」
 少しも優しくない薫の言葉に、エリオットは唇を噛み締めた。
 ずっとこの日を楽しみにしていたというのに――。夏休みをバイトで潰してお金を溜めて、雑誌の切り抜きを捨てることも出来ず、やっと、このベルリンへ来ることが出来て……。
 それなのに……。
 一言でいいのだ。一言、最初の言葉が出てくれば、後は、言いたかった言葉が、後に続く。
 車はそんな雰囲気の中、ただ沈黙を乗せて、夜のベルリンを駆け抜けていた。
「夕食は? まだ食べていないんだろう?」
 薫が言った。それは、エリオットが口を開く切っ掛けでも、あった。
「ぼくは……。ぼくは、にーさんと一緒にいたかったから……」
「……え?」
「いつだって、にーさんに逢いたかったんだ……。でも、ずっと我慢して……。夏休みにバイトをして、お金を溜めて……次の休みに……。そう思って我慢してたけど、ニューヨークの雑誌に、にーさんの記事が載ってるのを見たら、我慢できなくなって……。逢いたかったんだ。にーさんは少しも連絡をくれないし……勝手に引っ越すし……」
 言葉は、次々と溢れ出した。


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