幸せの椅子【完結】

竹比古

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Runaway 34

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「彼は……ぼくの弟だ。八年前に別れたっきりの――」
「他人だ!」
 ダン――っ、とテーブルを打つ音が、激しく、渡った。
「ヘル.ヘイエルダール……?」
「弟だと? 八年前に別れた? ――ハッ! マーニは私の弟だ。血は繋がっていなくとも、私が面倒をみて、育てて来たんだ。八年前――海で彼を見つけた時、彼はもう死にかけていた。波の合間に漂い、いつ死んでもおかしくない容体だったんだ。海で溺れた訳じゃない。体が弱って死にかけていたから、どこかの船から捨てられたんだ」
「それは――」
「捨てたものを、今さら返せと言うのか? 私がずっと看病を続けて元気にしたんだ。船の中で、医者はいたが、とても助かるとはいえない容体だった。それを私が付きっきりで看病して、元気にしたんだ。体の弱い彼を、ずっと側で見守って来た。丈夫な体になるまで、私が面倒をみて育てて来たんだ!」
「……」
「弟が出来て……嬉しかったんだ……。もう八年も一緒に暮らして来たんだ……。それを、今さら会わせろだと? 自分の弟だと?」
「ぼくは――」
「マーニは君に会いたがってはいない。君という兄がいたことも知らない」
「え……?」
 知らない――それは、どういう意味だったのだろうか。
「知らない、って……」
「海に捨てられ、長く続いた高熱で、彼は全ての記憶を失っていたんだ。言葉すら持ってはいなかった。もちろん、君が言ったシュイロンという中国名も覚えてはいない。――当然だろう? 生きていることさえ奇跡に近い状態だったんだ。意識を取り戻してからも、何年も寝たり起きたりの生活が続いていた。言葉を覚え始めたのも、私が拾ってから二年も経ってからのことだ。彼は生まれたばかりの赤子と同じ状態だった。――解るか? マーニには、ノルウェーの屋敷と家族だけが全てなんだ。私と、私の両親の側だけが、彼の居場所なんだ。私だけが彼の兄なんだ。もう君のことなど覚えてもいない。――帰ってくれ……」
「……」
「帰れ!」
 心が引き裂けるような叫びだった。
 血の繋がった兄と、血の繋がらない兄――どちらの愛情が勝っているかなど、誰にも、きっと、判りはしない。そんなことなど、人の知る術で測れるものではないのだ。
 その昔、一人の子供の手を、二人の母親に引かせて決めたことがある、という。
 だが、そんなことで本当に割り切れるというのだろうか。
「ぼくだって……水龍を見つけるためだけに生きて来たんだ……。好きで離れ離れになった訳じゃないんだ……」
「……」
「……また来ます。会わせてもらえるまで、何度でも」
 会えさえすれば、水龍は自分の元に戻って来る――まだそう思っていたのだ、その時は……。




 夕刻、エドウィンドが、シャワーを浴びて、ベッド・ルームに入ると、人の立つ気配に気がついたのか、マーニが写真集から顔を上げた。
「……毎日、同じ顔を眺めて楽しいのか?」
 エドウィンドは訊いた。
 マーニは、ポッ、と頬を染め、何とも言えない表情で、コクリ、とうなずく。
「……そんな顔をされたら、その写真集を捨てたくなるな」
「――。うーっ! うーっ!」
 ガバっ、と写真集を抱え込み、マーニは懸命な仕草で訴えた。
 記憶を失くしているというのに、彼は何故、それほどまでに、その写真集を大切にするのだろうか。
 記憶を持っている、というのなら、解る。
 だが、それが兄の写真である、ということも、自分に兄がいた、ということも、覚えてはいないはずなのだ。
 たとえ記憶を失くしていても、彼には解る、というのだろうか。
 心がそれを望んでいる、というのだろうか。
 なら、この八年間、彼に愛情を注いで来た者は、どうすればいいというのだ。
 彼の心が望むものを与えてやれ、と言うのか。
 そんなことなど出来るはずがない。彼はもう、エドウィンドにとって、何物にも代えられない、愛しい弟となっているのだ。
「……冗談だよ。野生に戻るな、野生に。ちゃんとした言葉を教えてやっただろう」
「う……」
「唸るなと言っただろう。――何故、私が君の大切なものを奪えるというんだ……。愛している、マーニ……。だから、もうそれ以上のものは望まないで欲しい……。何も取り上げたくはないんだ、君から……」
「……?」
「もうLAへ来るのはやめよう。来年は、そうだな……ギリシャがいい。生前、お祖父じい様に買っていただいた島がある。とても美しい島だ。きっと、君も気に入る」
「……島?」
「ああ。誰もいない私有島だ。二人で静かに過ごせる。――いいだろう?」
「うんっ」
 今のこの時間が、何故、幸福でないといえるのだ……。


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