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Runaway 13
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「ムリだよ。国龍、動けないじゃないか」
水龍は言った。
いくら婆婆や男たちが油断していようと、動けない国龍と、体の弱い水龍が、逃げ切れるはずもないのだ。
「逃げるのは、おまえだ……」
「え?」
「おまえが逃げるんだ、水龍……」
国龍は、柔らかい眼差しで、水龍を見上げた。
頭を使うことを覚えた、最初の言葉だったかも、知れない。
「……。いやだ。国龍は熱があって、頭がヘンになってるんだ。めったに熱なんか出さないから、よけいに――」
「聞け。――ラルフ……洛杉礬のラルフ・リー……その名前を出せば、美国行きの船に乗せてくれる堂口が、どこかにある……。港で訊けば判るかもしれない……。先に美国に行くんだ、水龍……。オレは、一人ならいつだって逃げ出せる……」
「……ぼくがジャマ?」
同じ卵から産まれた半身を、どうして邪魔だと思うことが出来るだろうか。
「オレ……今、頭にシラミ蛆いてないと思う……。二人がいっぺんに逃げたら、すぐに見つかるけど……オレがここにいれば、あいつら、すぐにおまえを探そうとはしない……。オレは後から行くから……。今日を逃したら、もう逃げられない……」
子供の成長がこれほど早いものであると知る人間が、果たして、何人いただろうか。昨年の秋まで無邪気なだけだった幼子が、数カ月後の夏には、もうこれほどまでに周りを見る眼を持っているのだ。もちろん、早く成長しなければならない状況だったことも確かだろう。周りの人間が、彼らをいつまでも子供でいさせてくれなかったこともあっただろう。それでも、国龍の成長の早さは、本来持っていた能力の覚醒だった、とは言えないだろうか。
「泣くなよ、水龍……」
「国龍だって泣いてるじゃないか……」
「おまえが泣くからだろ」
二人に取っては、これが初めての別れだった。生まれる前からずっと一緒にいて、同じものだけを見て育って来たのだ。
そして、今、初めて別々のものを見ようとしている。
いつかのように、二人はまた、唇を重ねた。
「……ぼくがちゃんと逃げられたら、国龍、安心して逃げられるよね?」
「ああ……。ラルフ・リーだ。忘れるなよ」
「うん……」
或いは、離れるべきではなかったのかも、知れない。何があっても離れてはいけなかったのかも、知れない。
それでも二人には、そうすることしか出来なかったのだ。美国がどれほど遠い場所であるのかも、知らなかった、のだから。
心が引き裂かれるような痛みを、感じていた。
国龍も水龍も、体の半分を失うような思いだった。
涙は、何度拭っても、零れ落ちた。
「離れたく……ない……」
水龍の足も、なかなか動き出そうとはしなかった。
「美国で……いっしょに暮らそう……。こんなところで暮らすのは……もうイヤだ……」
追い立てなくてはならない国龍も、辛かった。
せめて、今夜一晩だけでも、互いの温もりを感じながら眠っていたかったのだ。国龍も、水龍も――。たとえそれが、屈辱に塗れた生活に繋がるものであっても。今日を逃せば、もう逃げる機会はなくなってしまうかも知れない、と解っていても。
「オレ……畑から野菜、盗んだけど……もう、それをゆるしてもらえるくらいのこと……したよな……」
「国龍……」
「だから、神さまもきっと、味方してくれる……。そう思うだろ、水龍?」
「……うん」
「熱出すなよ……」
「うん……」
「じゃあな」
国龍はそれだけを言って、目を暝った。多分、そうしなければ、水龍も部屋から出て行くことが出来なかっただろう。そして、国龍も、水龍を引き留めてしまうかも、知れなかった。
水龍は、なかなか部屋から出て行かなかった。国龍がまた声をかけてくれるかも知れない、引き留めてくれるかも知れない、と思って待っていたのだ。
だが、国龍は目を開かず、水龍もしばらくして、立ち上がった。
何度も国龍の姿を振り返り、それからようやく、部屋を出た。
お互い、喉が張り裂けるほどに、泣き叫んでしまいたい別れだった。
男たちにどれほど殴られても、こんな気分になりはしなかったのだ。
「水……龍……」
その夜、水龍が捕まった、という話は、国龍の耳には届かなかった。
次の日、国龍は、婆婆や男たちから水龍の行方を問い詰められたが、決して口を開くことはしなかった。
婆婆や男たちも、国龍がここにいれば、水龍もすぐに戻って来る、と思っていたのか、殴りつけてまで訊くことはしなかった。もっとも、すでに殴られてボロボロになっている国龍を殴っても、意味がなかったせいもあるだろう。
そして、次の日も、その次の日も、そのまた次の日も、水龍がこの置屋へ戻って来ることは、なかった……。
水龍は言った。
いくら婆婆や男たちが油断していようと、動けない国龍と、体の弱い水龍が、逃げ切れるはずもないのだ。
「逃げるのは、おまえだ……」
「え?」
「おまえが逃げるんだ、水龍……」
国龍は、柔らかい眼差しで、水龍を見上げた。
頭を使うことを覚えた、最初の言葉だったかも、知れない。
「……。いやだ。国龍は熱があって、頭がヘンになってるんだ。めったに熱なんか出さないから、よけいに――」
「聞け。――ラルフ……洛杉礬のラルフ・リー……その名前を出せば、美国行きの船に乗せてくれる堂口が、どこかにある……。港で訊けば判るかもしれない……。先に美国に行くんだ、水龍……。オレは、一人ならいつだって逃げ出せる……」
「……ぼくがジャマ?」
同じ卵から産まれた半身を、どうして邪魔だと思うことが出来るだろうか。
「オレ……今、頭にシラミ蛆いてないと思う……。二人がいっぺんに逃げたら、すぐに見つかるけど……オレがここにいれば、あいつら、すぐにおまえを探そうとはしない……。オレは後から行くから……。今日を逃したら、もう逃げられない……」
子供の成長がこれほど早いものであると知る人間が、果たして、何人いただろうか。昨年の秋まで無邪気なだけだった幼子が、数カ月後の夏には、もうこれほどまでに周りを見る眼を持っているのだ。もちろん、早く成長しなければならない状況だったことも確かだろう。周りの人間が、彼らをいつまでも子供でいさせてくれなかったこともあっただろう。それでも、国龍の成長の早さは、本来持っていた能力の覚醒だった、とは言えないだろうか。
「泣くなよ、水龍……」
「国龍だって泣いてるじゃないか……」
「おまえが泣くからだろ」
二人に取っては、これが初めての別れだった。生まれる前からずっと一緒にいて、同じものだけを見て育って来たのだ。
そして、今、初めて別々のものを見ようとしている。
いつかのように、二人はまた、唇を重ねた。
「……ぼくがちゃんと逃げられたら、国龍、安心して逃げられるよね?」
「ああ……。ラルフ・リーだ。忘れるなよ」
「うん……」
或いは、離れるべきではなかったのかも、知れない。何があっても離れてはいけなかったのかも、知れない。
それでも二人には、そうすることしか出来なかったのだ。美国がどれほど遠い場所であるのかも、知らなかった、のだから。
心が引き裂かれるような痛みを、感じていた。
国龍も水龍も、体の半分を失うような思いだった。
涙は、何度拭っても、零れ落ちた。
「離れたく……ない……」
水龍の足も、なかなか動き出そうとはしなかった。
「美国で……いっしょに暮らそう……。こんなところで暮らすのは……もうイヤだ……」
追い立てなくてはならない国龍も、辛かった。
せめて、今夜一晩だけでも、互いの温もりを感じながら眠っていたかったのだ。国龍も、水龍も――。たとえそれが、屈辱に塗れた生活に繋がるものであっても。今日を逃せば、もう逃げる機会はなくなってしまうかも知れない、と解っていても。
「オレ……畑から野菜、盗んだけど……もう、それをゆるしてもらえるくらいのこと……したよな……」
「国龍……」
「だから、神さまもきっと、味方してくれる……。そう思うだろ、水龍?」
「……うん」
「熱出すなよ……」
「うん……」
「じゃあな」
国龍はそれだけを言って、目を暝った。多分、そうしなければ、水龍も部屋から出て行くことが出来なかっただろう。そして、国龍も、水龍を引き留めてしまうかも、知れなかった。
水龍は、なかなか部屋から出て行かなかった。国龍がまた声をかけてくれるかも知れない、引き留めてくれるかも知れない、と思って待っていたのだ。
だが、国龍は目を開かず、水龍もしばらくして、立ち上がった。
何度も国龍の姿を振り返り、それからようやく、部屋を出た。
お互い、喉が張り裂けるほどに、泣き叫んでしまいたい別れだった。
男たちにどれほど殴られても、こんな気分になりはしなかったのだ。
「水……龍……」
その夜、水龍が捕まった、という話は、国龍の耳には届かなかった。
次の日、国龍は、婆婆や男たちから水龍の行方を問い詰められたが、決して口を開くことはしなかった。
婆婆や男たちも、国龍がここにいれば、水龍もすぐに戻って来る、と思っていたのか、殴りつけてまで訊くことはしなかった。もっとも、すでに殴られてボロボロになっている国龍を殴っても、意味がなかったせいもあるだろう。
そして、次の日も、その次の日も、そのまた次の日も、水龍がこの置屋へ戻って来ることは、なかった……。
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