幸せの椅子【完結】

竹比古

文字の大きさ
上 下
13 / 51

Runaway 13

しおりを挟む
「ムリだよ。国龍、動けないじゃないか」
 水龍は言った。
 いくら婆婆や男たちが油断していようと、動けない国龍と、体の弱い水龍が、逃げ切れるはずもないのだ。
「逃げるのは、おまえだ……」
「え?」
「おまえが逃げるんだ、水龍……」
 国龍は、柔らかい眼差しで、水龍を見上げた。
 頭を使うことを覚えた、最初の言葉だったかも、知れない。
「……。いやだ。国龍は熱があって、頭がヘンになってるんだ。めったに熱なんか出さないから、よけいに――」
「聞け。――ラルフ……洛杉礬ルオシャンジーのラルフ・リー……その名前を出せば、美国行きの船に乗せてくれる堂口が、どこかにある……。港で訊けば判るかもしれない……。先に美国に行くんだ、水龍……。オレは、一人ならいつだって逃げ出せる……」
「……ぼくがジャマ?」
 同じ卵から産まれた半身を、どうして邪魔だと思うことが出来るだろうか。
「オレ……今、頭にシラミ蛆いてないと思う……。二人がいっぺんに逃げたら、すぐに見つかるけど……オレがここにいれば、あいつら、すぐにおまえを探そうとはしない……。オレは後から行くから……。今日を逃したら、もう逃げられない……」
 子供の成長がこれほど早いものであると知る人間が、果たして、何人いただろうか。昨年の秋まで無邪気なだけだった幼子が、数カ月後の夏には、もうこれほどまでに周りを見る眼を持っているのだ。もちろん、早く成長しなければならない状況だったことも確かだろう。周りの人間が、彼らをいつまでも子供でいさせてくれなかったこともあっただろう。それでも、国龍の成長の早さは、本来持っていた能力の覚醒だった、とは言えないだろうか。
「泣くなよ、水龍……」
「国龍だって泣いてるじゃないか……」
「おまえが泣くからだろ」
 二人に取っては、これが初めての別れだった。生まれる前からずっと一緒にいて、同じものだけを見て育って来たのだ。
 そして、今、初めて別々のものを見ようとしている。
 いつかのように、二人はまた、唇を重ねた。
「……ぼくがちゃんと逃げられたら、国龍、安心して逃げられるよね?」
「ああ……。ラルフ・リーだ。忘れるなよ」
「うん……」
 或いは、離れるべきではなかったのかも、知れない。何があっても離れてはいけなかったのかも、知れない。
 それでも二人には、そうすることしか出来なかったのだ。美国がどれほど遠い場所であるのかも、知らなかった、のだから。
 心が引き裂かれるような痛みを、感じていた。
 国龍も水龍も、体の半分を失うような思いだった。
 涙は、何度拭っても、零れ落ちた。
「離れたく……ない……」
 水龍の足も、なかなか動き出そうとはしなかった。
「美国で……いっしょに暮らそう……。こんなところで暮らすのは……もうイヤだ……」
 追い立てなくてはならない国龍も、辛かった。
 せめて、今夜一晩だけでも、互いの温もりを感じながら眠っていたかったのだ。国龍も、水龍も――。たとえそれが、屈辱に塗れた生活に繋がるものであっても。今日を逃せば、もう逃げる機会はなくなってしまうかも知れない、と解っていても。
「オレ……畑から野菜、盗んだけど……もう、それをゆるしてもらえるくらいのこと……したよな……」
「国龍……」
「だから、神さまもきっと、味方してくれる……。そう思うだろ、水龍?」
「……うん」
「熱出すなよ……」
「うん……」
「じゃあな」
 国龍はそれだけを言って、目を暝った。多分、そうしなければ、水龍も部屋から出て行くことが出来なかっただろう。そして、国龍も、水龍を引き留めてしまうかも、知れなかった。
 水龍は、なかなか部屋から出て行かなかった。国龍がまた声をかけてくれるかも知れない、引き留めてくれるかも知れない、と思って待っていたのだ。
 だが、国龍は目を開かず、水龍もしばらくして、立ち上がった。
 何度も国龍の姿を振り返り、それからようやく、部屋を出た。
 お互い、喉が張り裂けるほどに、泣き叫んでしまいたい別れだった。
 男たちにどれほど殴られても、こんな気分になりはしなかったのだ。
「水……龍……」
 その夜、水龍が捕まった、という話は、国龍の耳には届かなかった。
 次の日、国龍は、婆婆や男たちから水龍の行方を問い詰められたが、決して口を開くことはしなかった。
 婆婆や男たちも、国龍がここにいれば、水龍もすぐに戻って来る、と思っていたのか、殴りつけてまで訊くことはしなかった。もっとも、すでに殴られてボロボロになっている国龍を殴っても、意味がなかったせいもあるだろう。
 そして、次の日も、その次の日も、そのまた次の日も、水龍がこの置屋へ戻って来ることは、なかった……。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

《 XX 》 ――性染色体XXの女が絶滅した世界で、唯一の女…― 【本編完結】※人物相関図を追加しました

竹比古
恋愛
 今から一六〇年前、有害宇宙線により発生した新種の癌が人々を襲い、性染色体〈XX〉から成る女は絶滅した。  男だけの世界となった地上で、唯一の女として、自らの出生の謎を探る十六夜司――。  わずか十九歳で日本屈指の大財閥、十六夜グループの総帥となり、幼い頃から主治医として側にいるドクター.刄(レン)と共に、失踪した父、十六夜秀隆の行方を追う。  司は一体、何者なのか。  司の側にいる男、ドクター.刄とは何者なのか。  失踪した十六夜秀隆は何をしていたのか。  柊の口から零れた《イースター》とは何を意味する言葉なのか。  謎ばかりが増え続ける。  そして、全てが明らかになった時……。  ※以前に他サイトで掲載していたものです。  ※一部性描写(必要描写です)があります。苦手な方はご注意ください。  ※表紙画:フリーイラストの加工です。

秦宜禄の妻のこと

N2
歴史・時代
秦宜禄(しんぎろく)という人物をしっていますか? 三国志演義(ものがたりの三国志)にはいっさい登場しません。 正史(歴史の三国志)関羽伝、明帝紀にのみちょろっと顔を出して、どうも場違いのようなエピソードを提供してくれる、あの秦宜禄です。 はなばなしい逸話ではありません。けれど初めて読んだとき「これは三国志の暗い良心だ」と直感しました。いまでも認識は変わりません。 たいへん短いお話しです。三国志のかんたんな流れをご存じだと楽しみやすいでしょう。 関羽、張飛に思い入れのある方にとっては心にざらざらした砂の残るような内容ではありましょうが、こういう夾雑物が歴史のなかに置かれているのを見て、とても穏やかな気持ちになります。 それゆえ大きく弄ることをせず、虚心坦懐に書くべきことを書いたつもりです。むやみに書き替える必要もないほどに、ある意味清冽な出来事だからです。

浪漫的女英雄三国志

はぎわら歓
歴史・時代
女性の身でありながら天下泰平を志す劉備玄徳は、関羽、張飛、趙雲、諸葛亮を得て、宿敵の女王、曹操孟徳と戦う。 184年黄巾の乱がおこり、義勇軍として劉備玄徳は立ち上がる。宦官の孫である曹操孟徳も挙兵し、名を上げる。 二人の英雄は火花を散らしながら、それぞれの国を建国していく。その二国の均衡を保つのが孫権の呉である。 222年に三国が鼎立し、曹操孟徳、劉備玄徳がなくなった後、呉の孫権仲謀の妹、孫仁尚香が三国の行く末を見守る。 玄徳と曹操は女性です。 他は三国志演義と性別は一緒の予定です。

ブエン・ビアッヘ

三坂淳一
ライト文芸
タイトルのブエン・ビアッヘという言葉はスペイン語で『良い旅を!』という決まり文句です。英語なら、ハヴ・ア・ナイス・トリップ、仏語なら、ボン・ヴォアヤージュといった定型的表現です。この物語はアラカンの男とアラフォーの女との奇妙な夫婦偽装の長期旅行を描いています。二人はそれぞれ未婚の男女で、男は女の元上司、女は男の知人の娘という設定にしています。二人はスペインをほぼ一ヶ月にわたり、旅行をしたが、この間、性的な関係は一切無しで、これは読者の期待を裏切っているかも知れない。ただ、恋の芽生えはあり、二人は将来的に結ばれるということを暗示して、物語は終わる。筆者はかつて、スペインを一ヶ月にわたり、旅をした経験があり、この物語は訪れた場所、そこで感じた感興等、可能な限り、忠実に再現したつもりである。長い物語であるが、スペインという国を愛してやまない筆者の思い入れも加味して読破されんことを願う。

可不可 §ボーダーライン・シンドローム§ サイコサスペンス

竹比古
ライト文芸
先生、ぼくたちは幸福だったのに、異常だったのですか? 周りの身勝手な人たちは、不幸そうなのに正常だったのですか? 世の人々から、可ではなく、不可というレッテルを貼られ、まるで鴉(カフカ)を見るように厭な顔をされる精神病患者たち。 USA帰りの青年精神科医と、その秘書が、総合病院の一角たる精神科病棟で、或いは行く先々で、ボーダーラインの向こう側にいる人々と出会う。 可ではなく、不可をつけられた人たちとどう向き合い、接するのか。 何か事情がありそうな少年秘書と、青年精神科医の一話読みきりシリーズ。 大雑把な春名と、小舅のような仁の前に現れる、今日の患者は……。 ※以前、他サイトで掲載していたものです。 ※一部、性描写(必要描写です)があります。苦手な方はお気を付けください。 ※表紙画:フリーイラストの加工です。

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

処理中です...