魔窟降臨伝【完結】

竹比古

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肆拾

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 中国にも、太陽や月に関する神話はある。
 太古、空には十個の太陽が輝いており、その太陽の中には、火鴉かうと呼ばれる鴉が棲んでいたという。
 中国少数民族の伝説では、月の初めと終わりだけ、太陽と月は逢うことを許され、二人一緒に洞窟の中で逢っていたともいう。
 六月三〇日――九龍城砦が現れたその日も、月の終わりであったのだ。
 そして、もうじき八月一日――月の初めの《ルグナサーの祭り》を迎える。
 太陽と月が、神によって、逢うことを許されている一日である。
 昇っては沈むという《再生の車輪》が、一時、神の手によって中断される時だ。
「太陽と月の逢い引きか」
 ベッドの中から、すでに夕暮れとなった空を見上げ、輪は、ぽつり、と呟いた。
 何ともロマンティックな伝説ではあるが、あの日はちょうど、そんな伝説が相応しい一日であったのだ。霧のような細い雨がヴェールを創り、太陽も月も姿を見せず、まるで、どこかの洞窟に隠れて過ごしているかのような、そんな暗い一日であった。
「洞窟……」
 九龍城砦は、かつて、啓徳空港の北西、白鶴山の麓にあり、築城当時は、海を臨む場所にあったという。その山や海に洞窟があった、ということは考えられないだろうか。――いや、考えられるとしても、一世記半経った今、そんなものが残っているとは思えない。
 くすんだ窓の外に映る黄昏は、ねぐらへ帰る鴉の群れを、一枚の絵画のように、切り取っていた。
 東の空が明るくなると共に現れて煩く鳴き、夕暮れと共に塒へ帰る鴉の習性は、鴉が太陽に棲んでいる、とされる所以であったのだろう。
 輪は、赤みがかった瞳を細め、その鴉の群れを、眺めていた。
 子供たちが見ようものなら、瞬時に恍惚となってしまう表情である。
 しかし、子供たちが輪へと視線を向けたのは、輪がベッドの上に体を起こしてからのことであった。
「く……っ」
 という呻きを聞いて、一斉に輪へと視線を向けたのだ。
 輪の面は、銃弾を受けた傷による痛みで、厳しく、痛々しく歪んでいる。そんな表情も美しいのだ、彼は。
「起きちゃダメだよ、輪哥哥にいっ。ナイナイが動いたら死んじゃうって――」
 と、子供たちが、だだだっ、とベッドを取り囲む。
「あのなぁ、おまえら、何回、あのババァに騙されてるんだよ。稼いだ金はごまかされるわ、年はごまかされるわ――。おまえらが自分の年も数えられないのをいいことに、あの婆婆は、まだ七つ八つの子供を『九つになった』って言って、客を取らせてるんだぜ。動いたくらいで死ぬはずないだろ」
「でも……」
「ちょっと出て来るから、寝てる間にネズミに齧られないよう、気をつけろよ。顔や体に傷がついて客が取れなくなったら、もう食ってけないぜ。それに、ネズミに血を見せてやるくらいなら、ぼくに見せた方がいいに決まってるんだからな」
 最後の一言はともかくとして、一応、子供たちに優しい言葉をかけてから、輪は痛む体を引きずるように、ベッドを降りて、服を着替えた。
 この少年、今一つ、子供たちに優しいのか、優しいフリをして牙を剥く機会を狙っているのか、判らない。婆婆の言葉が――商品には手を出すな、というその言葉がなければ、瞬く間に子供たちを襲っているのではないだろうか。そして、子供たちも、輪になら喜んで、その幼い身を差し出すのかも、知れない。
 着替えを済ませて部屋を抜け出し、輪は地下への階段を降り始めていた。
 熱による悪寒と、傷による激痛――あっと言う間に、額に汗が滲み始める。
 顔色は蒼白に、足取りは重く、どうみても、婆婆が言っていた言葉の方が正しい、としか思えない。
「クソォ……ナイナイの奴……。痛み止めと解熱の処置くらいして行ったって、バチは当たらないぜ……」
 そんな処置をして行こうものなら、輪は一秒たりとも、じっとしていなかったであろうが、輪としては、文句の一つも言いたくなるような状況なのである。
 しかし、それがチャイニーズ・マフィアへの怒りに変わらないのは、彼がそんな連中など相手にもしておらず、これからも相手にしてやる積もりがなかったからであろう。
 しかし、彼はその体で一体、何処へ行こうというのだ。


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