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番外編 アール編

アール編 3

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 オックスフォード・J・ラドクリフ病院は、英国国内で最大の教育病院の一つであり、オックスフォード大学とは綿密なかかわりを持ち、主要な医学研究センターとしても機能している。
 その病院を、今日の実習を終えて、学寮コレッジへ戻ろうと後にすると、
「アルバート――」
 不意に背中に声が届き、アールは少し戸惑いながら、声の方を振り返った。
 アルバート・レヴィ・フレイザー――イートンの頃からアールという愛称で呼ばれて来たため、バートやアルバートという呼び方をされると、誰だろう、と思ってしまう。
 そこに立っていたのは、アールが医学部を卒業したら結婚することになっている婚約者、オスカー・ランドールという、オックスフォード大学の学部生だった。この秋に二年生になったばかりの後輩である。とはいえ、パブリック・スクールは別々で、彼は、これも名門であるハロウ校の出身だから、イートン校から上がって来たアールとは、それまでに面識があるでもなく、お互いのことは未だにほとんど知らないままだ。
「ああ、君か。誰かと思った」
 アールは思ったままを口に出し、同じ大学とはいえ、あまり顔を合わせることのない婚約者に、ただ当たり前に言葉を返した。
 ブラウンの巻き毛とソバカスが、まだ十代の未成熟な少年の姿に似合っていて、年よりもさらに幼く見せている。政治家になるよりも、もっと世間ズレしていない職業の方が合っているのではないか、というような気もする。
 だが、話をしてみると、そこはやはりしっかりとしていて――。
学寮コレッジよりも、こっちの方が捕まえやすいかと思ったので……」
 何しろ、実習生の勤務時間などあってないようなもので、日直や当直を含めると、とても規則正しく学寮コレッジへ戻れるような生活ではない。
「ああ、ごめん。忙しくて――。何か予定を忘れてたかな?」
 アールはさっぱり心当たりのないオスカーの来訪に、自分が約束を忘れていたのかと、問いかけた。
 もちろん、婚約者なのだから、約束が無くても訪ねて来ておかしいことはないのだが。そこは親同士が決めた政略結婚でもあり、二人の間にそういう距離があるのも確かだったし、お互いが家のための婚約であることを了承しているのも、事実だった。
「いえ、急ぐことではないんですけど――。ただ、最終学年は海外実習を希望されたと聞いたので、今年中に色々と決めておいた方がいいのかと思って……」
 もう、そんなことを考えなくてはならない時期に来てしまったのだ。
 オスカーの言葉に、アールは今まで他人事のようだった婚約話に、急に現実味を覚えて、たじろいだ。
 彼の方が年下であるはずなのに、彼はその十代の奔放な年で、本当にこんな結婚を受け入れてしまえた、というのだろうか。アールのように、医師として十六夜のメディカル部門に入り、階を支えて行く、という理由があるのならともかく……。
「そっか……。話しながら学寮コレッジに戻ろう。――何を決めておけばいいのかな?」
 年下のオスカーに訊くというのもおかしいが、そういうことを全く考えたことのなかったアールにとって、まさにそう問いかけるしかないことだったのだ。
「日取りや招待客は父や祖父たちが決めるでしょうから、ぼくたちは、ぼくたちの取り決めを……」
「取り決め?」
 アールは、オスカーの言葉に首を傾げた。
「結婚した後で揉めると困るでしょう? ぼくも政界に入った途端のスキャンダルは困りますから」
「……」
 何というか……しっかりしているというか、割り切っているというか……。
「好きな人がいるんですよね、あなたには?」
 オスカーが訊いた。
「え? あ、いや、まあ、何て言うか……」
「フェリックス・G・グレヴィル――。オックスフォードに入学して、すぐに耳にしました。イートンの頃から仲が良くて、ずっと一緒だったと――。去年、従兄弟のエリック・リオン・ソアーと婚約されたみたいですけど、これからもお付き合いをされるのなら――」
「誤解だよ」
 アールは、オスカーの言葉に苦笑を零し、
「確かにフェリーのことは好きだけど、フェリーとエリックは政略結婚じゃなく、愛し合って結婚するんだから、ぼくとフェリーはそんな関係じゃない」
 諦めきれないのも、事実だが……。
「……。そうですか。でも、彼が継ぐ十六夜グループに入るために、政治家にならずに、医師になることにしたのでしょう?」
 そんなことも知っているのだ。
「――で、ぼくはどうすればいいのかな?」
 少しムッとして、アールは訊いた。
「気に障ったのなら、すみません。ただ、知っておかないと、ぼくも対処のしようがないですから――。二人っきりになられる時は、人目につかないように気をつけてください」
「……」
 公認の浮気、ということなのだろうか。
「オスカー――」
 アールは言いかけ、
「――取り敢えず、自転車があるんだ。学寮コレッジまで戻ろう。部屋で話した方が良さそうだ」
 と、言いたい言葉を呑み込んで、気を落ち着かせるための時間を置いた。
「自転車……で通ってるんですか?」
「便利だろ。――何で来たんだ?」
「ブラックキャブ……です」
「なら、後ろに乗れよ。荷台がないから立ったままだけど」
「……」
 病院の職員用駐輪場から自転車をこぎ出し、最初こそふらついたものの、スピードが出るに従って、二輪は安定感を保ちながら、オックスフォードの街を駆け抜けた。
 深まる秋の肌寒さに、手や顔はすぐに冷たくなったが、まだしばらくは手袋が必要な季節でもない。
「……ずっと自転車なんですか?」
 アールの肩をつかむ手をぎこちなく動かしながら、オスカーが訊いた。
「運動をする時間がないからね。これが一番いい」
「――あなたの成績なら、間違いなくファースト・クラスで卒業ファイナル出来るのに、寝る間も体を動かす間もなく勉強ですか?」
「うーん……。まあ、色々と、ね。――今日は質問ばっかりなんだな」
「――。すみません」
「いいけど、別に」
 それから、学寮コレッジに着くまで、会話はしばらく途切れてしまった……。


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