上 下
333 / 443
番外編 アール編

アール編 1

しおりを挟む


 三年間の基礎医学教育を終え、次の臨床医学教育課程に進み、一年が経った。
 医学部では基礎と臨床を合わせて六年間のカリキュラムが組まれ、去年、臨床実習資格総合判定試験に受かったアールは、今、オックスフォード医学部の教育病院であるJ・ラドクリフ病院の診療チームに配属され、回診やカンファレンス、日直、当直はもちろん、学生向けの講義やセミナーに参加し、忙しい毎日を送っていた。
 同じように三年間の学部を終え、そのまま大学院へ進んだ階は、その年に従兄弟のエリックと婚約をし、叔父であり、保護者代わりであるアンドルゥに、十六夜の事業についてあれこれと教え込まれながら、イギリスと日本を往復していた。
 そんな訳でアールも、最終学年での海外実習の希望を出すために――日本の病院で実習を受けるため、当然、日本語の勉強もしていた訳で……階やアンドルゥとの会話は、全て日本語ですることになっている。
「あぁ……。一日が二四時間じゃ足りないよなぁ……」
 と、オックスフォード大学の学寮コレッジ――クライスト・チャーチ・コレッジの階の部屋に着くなり、早速、日本語で愚痴を零す。
 何しろ、アンドルゥからは首席卒業でない限り、十六夜には入れない、と釘を刺されているのだから――。臨床実習をしながら、さらに勉強をし、技術も身につけるのは、医者の家庭で育っていないアールには、時間がいくらあっても足りなかった。その上、日本語まで――いや、これは階に会う口実でもあるのだから、構わないのだが……。
「当直明けなんだから、無理して来なくてもいいのに」
 来るなりソファに横になるアールを見て、気遣うように言ったのは、階である。
 去年、エリックと婚約したとはいえ、こちらも、日本屈指の大財閥、十六夜グループの事業を継ぐ身として、忙しい。それなら大学院などへ進まず、日本に戻って正式に十六夜を継げばよかったのだが、それも……まだ自信がないとあって、しばしの猶予期間を得るために、院への逃げ道に飛び込んだのだ。
 まあ、確かにまだ若く、英国と日本の血を半分ずつ受け継いだその容貌は色素も薄く、華奢で小柄な体躯と共に、思わず抱きしめたくなるほど愛らしい。
「君に会うためなら、無理だってするよ」
 婚約者がある身の階に、アールは臆面のない言葉を持ち出した。――いや、婚約者がいるのはアールも同じで――といっても、家のための婚約で、後継ぎを作るためだけの契約のようなものなのだが……。
 今から一八〇年以上前、Y染色体を持たない女だけが新種の皮膚癌に侵され、地球上から絶滅した。学者たちは、慌ててその癌の原因を探り、それが有害宇宙線と、人間の作り出した突然変異誘発物質によって引き起こされたDNA障害であることが判った。そして、女たちを有害宇宙線の届かない安全な場所に隔離したが、その新種の癌は恐ろしい速さで転移し、遺伝子治療も追いつかないまま、女は地球上から絶滅した。一度浴びた有害宇宙線は、地下や屋内に潜ってからも、その進行スピードを落とさず、女の体を破壊したのだ。まだ一度も外へ出たことのない赤ん坊さえ、母親から受け継いだ異常遺伝子のために、癌を発症して、呆気なく死んだ。
 そして、この世は、染色体〈XY〉の男だけの世界となり、染色体〈XX〉の女は存在しなくなった。
 もちろん、女の姿形をした者は、いる。それは、女が絶滅したから、といって現れた特種な者ではなく、女がいた頃から存在していた性転換した男たちであった。彼らはトルソーと呼ばれ、上流階級では、未だ受け入れられてはいないが、中流階級以下では、そう珍しくもなく受け入れられている。――いや、問題はある。彼らは男としての生殖機能を捨ててしまうため、子供を造ることが出来ないのだ。
 だから、女ではなく、トルソー――胴体だけのマネキン人形――という名で呼ばれている。
 その中で、階はこの地球上に存在する、唯一の〈XX〉であった。――今までは。
 そう。今までは……。
「少し休んでからにする?」
 階の問いに、
「……その日本語の意味は、よく解らない。休憩するということ? それとも寝た方がいい、という意味?」
 曖昧な表現が多い日本語の解釈に、アールは訊いた。
 言葉だけ聞けば『休憩する』という意味だが、話の流れからすると『睡眠を取った方がいい』という意味に聞こえる。
 困ったことに日本語は、話の流れで主語や単語を省いて、どちらとも受け取れる表現を使うことが多いのだ。
 英語なら間違いようがない言葉でも、日本語では話の流れが解っていなくては、その意味さえ判断できない言葉が存在する。
「『寝る』方の休む」
「――君と?」
 再び――今度は、階の心を問うように、アールは訊いた。
「……それじゃあ、休むことにならない」
 真っ赤になって、階は言った。
 そういうところも、昔から変わってはいない。
「ふーん。少しは大人になったんだ」
 一緒に寝ることの意味に赤くなる階を見て、アールは言った。
「……からかってる?」
「まさか。少し欲求不満なだけで――。この使い方、合ってるかな?」
 異国の言葉なら、普段、言えないようなことでも、何故かすんなりと言えてしまう。
「――。もう日本語の勉強なんか必要ないと思う」
 ぷい、と横を向いて、階は言った。
 それだけ堪能に話せるのだから、忙しい中、週末ごとに日本語を勉強しに来るよりも、睡眠を取った方が有意義だ。
「使わないと忘れて行くだろ」
「アンディと話せば?」
 今度は階の攻撃である。アールが――いや、アールに限らず、その若きウォリック伯爵を苦手と思わずに話しが出来る人間など、階を除いてはいないのだから。
「……ぼくが悪かったです」
 早々に降参するしかない。それに、
「話せても、読み書きが出来ないと向こうで困るし」
 日本語は、ひらがなだけでなく、漢字もカタカナも使い分けなくてはならないのだ。アルファベット26文字だけで全てを表わしてしまう英語とは、複雑さが半端ではない。
 そして二人は、会話をノートで交換する、いつもの勉強を始めたのだった……。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】婚約破棄された金髪碧眼の醜女は他国の王子に溺愛される〜平安、おかめ顔、美醜逆転って何ですか!?〜

佐倉えび
恋愛
下膨れの顔立ち、茶髪と茶目が至高という国で、子爵令嬢のレナは金髪碧眼の顎の尖った小顔で醜女と呼ばれていた。そんなレナと婚約していることに不満をもっていた子爵令息のケビンは、下膨れの美少女である義妹のオリヴィアと婚約するため、婚約破棄を企てる。ケビンのことが好きだったわけではないレナは婚約破棄を静かに受け入れたのだが――蔑まれながらも淡々と生きていた令嬢が、他国の王子に溺愛され幸せになるお話――全25話。ハッピーエンド。 ※R15は保険です。小説になろう様でも掲載しています。

転生貴族可愛い弟妹連れて開墾します!~弟妹は俺が育てる!~

桜月雪兎
ファンタジー
祖父に勘当された叔父の襲撃を受け、カイト・ランドール伯爵令息は幼い弟妹と幾人かの使用人たちを連れて領地の奥にある魔の森の隠れ家に逃げ込んだ。 両親は殺され、屋敷と人の住まう領地を乗っ取られてしまった。 しかし、カイトには前世の記憶が残っており、それを活用して魔の森の開墾をすることにした。 幼い弟妹をしっかりと育て、ランドール伯爵家を取り戻すために。

転生発明家は異世界で魔道具師となり自由気ままに暮らす~異世界生活改革浪漫譚~

夜夢
ファンタジー
 数々の発明品を世に生み出し、現代日本で大往生を迎えた主人公は神の計らいで地球とは違う異世界での第二の人生を送る事になった。  しかし、その世界は現代日本では有り得ない位文明が発達しておらず、また凶悪な魔物や犯罪者が蔓延る危険な世界であった。  そんな場所に転生した主人公はあまりの不便さに嘆き悲しみ、自らの蓄えてきた知識をどうにかこの世界でも生かせないかと孤軍奮闘する。  これは現代日本から転生した発明家の異世界改革物語である。

幸子ばあさんの異世界ご飯

雨夜りょう
ファンタジー
「幸子さん、異世界に行ってはくれませんか」 伏見幸子、享年88歳。家族に見守られ天寿を全うしたはずだったのに、目の前の男は突然異世界に行けというではないか。 食文化を発展させてほしいと懇願され、幸子は異世界に行くことを決意する。

俊哉君は無自覚美人。

文月
BL
 自分カッコイイ! って思ってる「そこそこ」イケメンたちのせいで不運にも死んでしまった「残念ハーフ」鈴木俊哉。気が付いたら、異世界に転移していた! ラノベ知識を総動員させて考えた結果、この世界はどうやら美醜が元の世界とはどうも違う様で‥。  とはいえ、自分は異世界人。変に目立って「異世界人だ! 売れば金になる! 捕まえろ! 」は避けたい! 咄嗟に路上で寝てる若者のローブを借りたら‥(借りただけです! 絶対いつか返します! )何故か若者(イケメン)に恋人の振りをお願いされて?  異世界的にはどうやらイケメンではないらしいが元の世界では超絶イケメンとの偽装恋人生活だったはずなのに、いつの間にかがっちり囲い込まれてるチョロい俊哉君のhappylife。  この世界では超美少年なんだけど、元々の自己評価の低さからこの世界でも「イマイチ」枠だと思い込んでる俊哉。独占欲満載のクラシルは、俊哉を手放したくなくってその誤解をあえて解かない。  人間顔じゃなくって心だよね! で、happyな俊哉はその事実にいつ気付くのだろうか? その時俊哉は? クラシルは?  そして、神様念願の王子様の幸せな結婚は叶うのだろうか?   な、『この世界‥』番外編です。  ※ エロもしくは、微エロ表現のある分には、タイトルに☆をつけます。ご注意ください。

お二人共、どうぞお幸せに……もう二度と勘違いはしませんから

結城芙由奈 
恋愛
【もう私は必要ありませんよね?】 私には2人の幼なじみがいる。一人は美しくて親切な伯爵令嬢。もう一人は笑顔が素敵で穏やかな伯爵令息。 その一方、私は貴族とは名ばかりのしがない男爵家出身だった。けれど2人は身分差に関係なく私に優しく接してくれるとても大切な存在であり、私は密かに彼に恋していた。 ある日のこと。病弱だった父が亡くなり、家を手放さなければならない 自体に陥る。幼い弟は父の知り合いに引き取られることになったが、私は住む場所を失ってしまう。 そんな矢先、幼なじみの彼に「一生、面倒をみてあげるから家においで」と声をかけられた。まるで夢のような誘いに、私は喜んで彼の元へ身を寄せることになったのだが―― ※ 他サイトでも投稿中   途中まで鬱展開続きます(注意)

男のオレが無理やり女にされた結果

M
現代文学
自称「神」を名乗るデブ女によって突如、女にされてしまった非モテ童貞男子の童手井(どうてい)は女として生きることの苦悩や葛藤を身をもって学んでいく――。 男だった頃には決して見ることはなかったであろう世界を目の当たりにした童手井(どうてい)が進む未来とは⁉︎ ※本作はムーンライトノベルズにも投稿しています。

サレ妻の冒険〜偽プロフで潜入したアプリでマッチしたのが初恋の先輩だった件〜

ピンク式部
恋愛
今年30歳になるナツ。夫ユウトとの甘い新婚生活はどこへやら、今では互いの気持ちがすれ違う毎日。慎重で内気な性格もあり友達も少なく、帰りの遅い夫を待つ寂しい日々を過ごしている。 そんなある日、ユウトのジャケットのポケットからラブホテルのレシートを見つけたナツは、ユウトを問い詰める。風俗で使用しただけと言い訳するユウトに対して、ユウトのマッチングアプリ利用を疑うナツ。疑惑は膨れあがり、ナツは自分自身がマッチングアプリに潜入して動かぬ証拠をつきつけようと決意する。 しかしはじめて体験するマッチングアプリの世界は魅惑的。そこで偶然にもマッチしたのは、中学時代の初恋の先輩、タカシだった…。 R18の章に※を指定しています。

処理中です...