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番外編 十六夜過去編

十六夜過去編 1

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 ここは治外法権である――誰かがまことしやかに、そう言った。
 東京、十六夜本邸――。
 広大な敷地に建つその屋敷の前に、車が止まった。黒塗りのロールス・ロイスのリムジンである。
 降り立ったのは恰幅の良い紳士で、名を、十六夜秀隆、と言った。遺伝子工学や発生工学の分野では、かなり名の知れた人物である。そして、日本屈指の大財閥、十六夜グループの総帥でも、ある。
「おかえりなさいませ」
 屋敷の執事が後部座席のドアを開き、十六夜秀隆を前に頭を下げる。
「ドクター・刄を呼べ。この子を部屋まで運ばせる」
 十六夜秀隆がそう言うと、執事は少し眉を寄せ、後部座席を覗き込んだ。向かい合わせになるシートの一方に、七つか八つ程の小さな子供が、眠っている。
「――かしこまりました」
 訊きたいことはあっただろうが、執事は何も問わずにそう言って、使用人の一人に、ドクター・刄を呼ぶよう、言いつけた。
 そう待つこともなく、二七、八歳の長身の男が姿を見せる。鍛え抜かれた体躯をした、怜悧な面貌の男である。
「おかえりなさいませ、十六夜翁。――怪我をした子供がいると聞きましたが……」
 ドクター・刄と呼ばれた男は、そう言うと、車の中を覗き込んだ。
 だが――、
「私は、部屋に運ぶように言っただけだ。――何故、言ってもいないことが伝わるのか、不思議なものだ」
 十六夜秀隆は、楽しむように、唇を歪めた。
 もちろん、医者を呼びに行かせたのだから、誰もが当然、その子供が怪我をしているか、病気なのだと思ったのだろう。
「は?」
 刄が首を傾げると、
「部屋だ。用意は出来ている」
「――かしこまりました」
 他にどう言えた、というのだろうか。
 子供を運ばせるだけなら、わざわざ医者である刄を呼ぶ必要もない。――いや、それ以前に、この子供は一体、十六夜の何であるというのだろうか。
 刄が客室のある二階で足を止めると、
「上だ」
 十六夜秀隆は言った。
「……はい」
 客室ではなく、上の階に部屋を持たせる、となると、この子供は十六夜の親族、ということになるのだろうか。
 話は部屋に入ってからになった。
 子供はぐっすりと眠っているようで、車から抱え上げた時も、ベッドに下ろす時も、目を覚ます様子は全くなかった。
「――外出に慣れていないから、機内で疲れないよう、少し薬を飲ませた。もうしばらくすれば目を覚ますだろう」
 十六夜秀隆の言葉には、謎ばかりが含まれていた。外出に慣れていない、ということも、機内、ということも……。疲れるほど長くジェット機に乗るということは、どこか外国で暮らしていたのだろうか――。ふと、そんな疑問が脳裏を過った。
 随分、きれいな子供だった。抜けるような白い肌と、さらさらとした黒い髪、目を閉じてはいるが、それでもその面貌の端麗さは一目で知れた。
「この子供は……」
 刄が訊くと、
「事情があって、他所で育てていた私の子だ」
 ――十六夜秀隆の子供。
 それは、目を見張るに充分な言葉であった。
 十六夜秀隆には、すでに二三歳になる長子の柊がいる。今更、これほど年の離れた弟を連れて来て、揉め事の種にならないと言えるだろうか。しかも、柊が留守にしている間に、屋敷に入れてしまうなど……。
「あとは、おまえに任せる。ずっと寝ていて汗をかいているだろうから、起きたら風呂と着替えだ。食事に間に合うように支度をさせてくれ。――私も時差ぼけで体がきつい。夕食まで部屋で休んでくる」
 そう言うと、十六夜秀隆は、ドアの方へと足を向けた。
 そしてそれは、刄には黙って聞いていられる言葉ではなかった。
「お待ちください、十六夜翁! 私が、この子供の――ご子息の面倒をみる、ということですか?」
 慌てて引き止めて問いかけると、
「そう言ったはずだが」
 当然のような言葉が返って来る。
「ですが、私はただの医者です。子供の面倒などみたこともなければ、子供の扱い方も判りません――。ご子息には世話係をつけられるか、それまでは屋敷の使用人に――」
「それが出来るくらいなら、おまえを呼びはしない」
「は……?」
「ああ、そういえば名前も言っていなかったな。――これは、司だ。十六夜司。今日から、おまえの主人だ」
「は……?」
 もう、他の言葉は出て来なかった。こんな子供の――十六夜秀隆の息子とは言え、七、八歳の子供に仕えろと言われたのだ。
 ――俺は、子守をするために、十六夜秀隆に仕えて来たわけじゃない……。
「これを託せるのはおまえだけだ、ドクター・刄。――すぐに、おまえにも解る」
 その十六夜秀隆の言葉は、刄の胸中を知ってのものであったのだろうか。
 十六夜秀隆は、すでにドアの向こうへと消えていた。
 ――すぐに解る……。
 それはどういう意味を持つ言葉であったのだろうか。十六夜秀隆は、柊ではなく、この子供の方を後継ぎにすると――そういうのだろうか。だから、この子供に仕えられることを光栄に思え、と。
「馬鹿馬鹿しい……!」
 刄は、興味など微塵もない、跡目争いに吐き捨てた。
 いくら、次期総帥を約束された子供であろうと、今はただの子供であり、刄もただのベビー・シッターであることに変わりはない。医者である刄の仕事とはかけ離れている。
「こんなことをするために、生き残ってしまったというのか、俺は……」

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