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番外編 平和の都(イェルシャライム)編
平和の都 2
しおりを挟む「いいですか。絶対に、一人で勝手に歩き回らないでください。アラブ地区で迷子になられたら――」
「うるさいやつだなァ。解ってるって。――手でもつないでてやろうか?」
刄の言葉もそこそこに、司は、フイ、とそっぽを向いて、歩き出した。
この旧市街のアラブ地区には、何百もの店が軒を連ね、人々の喧噪が犇めいている。
宝石、毛皮、皮革製品、真鍮細工、工芸品……日用品や食料品まで、通路を埋め尽くすように並んでいて、見て回るだけでも楽しめる。
好奇心旺盛なのは、もちろん悪いことではないが、司の場合、自分の安全に無頓着過ぎるから、手に負えないのだ。たとえそれが、刄が共にいることで、安心しきっている結果だとしても……。
司が足を止めたのは、イスラエルのナショナル・ストーンである、エイラート・ストーンを並べる宝石店の前であった。
《ソロモン王の石》《賢者の石》《知恵の石》とも呼ばれるこの石は、自然の状態では決して混ざり合うことのない数種の石が、地殻変動などで混ざり合ったもので、『イスラエルの碧い涙』とも呼ばれている。青と緑の混じり合うその姿は、幻想的なほどに、美しい。
「――あなたが宝石など、珍しいですね」
普段、そういった身を飾るものになど興味を示さない司が、熱心に足を止めて見ているのを見て、刄は、『年頃』のせいかと、声をかけた。
だが、司は、
「希が好きなんだってさ。色んな石を集めてる、って言ってた」
返って来た応えは、納得である。
希、とは、この秋に香港財閥の次男で、チャイニーズ・マフィアの次期ドンの後継者候補でもある菁と結婚することになっている、青年である。
「ご結婚祝いなら、こんなところで買われなくても、十六夜翁が贔屓にしておられる宝石商で――」
「見てるだけだよ」
「……」
生憎、ウインドウ・ショッピングの楽しさは、刄にはあまり、解らない。買う目的があって、買いに行くのならうなずけるが、買うつもりもないのに、こうして人混みの中を疲れも知らずに歩き回るなど……。
そうして、何軒かの店先で足を止め、賑やかな通りをのんびりと歩いていると、通りの先から歩いて来た少年と、司の肩がぶつかってしまった。もちろん、この人混みなのだから、そういうことも珍しくはないだろうが。
よそ見をしていた司の方が悪いのか、急ぎ足で人波の間を縫って来た少年の方が悪いのか――そんなことも問題ではない。全てはこの賑わいのせいなのだから。
少年は、ヘブライ語で何か一言呟くと、そのまま刄の脇をすり抜けた。
この国の人口の八割をユダヤ人が占めるとは言え、ここは移住者の街であり、同じユダヤ人でも、風習や考えはそれぞれ違う。
そして、その少年は――。
「ぶつかったことを謝ったのか? それとも、財布をスったことか?」
少年の背中に視線を向け、そう言い放ったのは、司であった。
そして、刄の手も、その少年の腕をつかんでいた。
ここではスリなど常道だが、スラれて気付かない愚鈍な観光客ばかりではない――ということを、この日、少年は初めて知ったかも知れない。
「おまえ、ヘブライ語が……」
「簡単な言葉だけだよ。中近東共通のアラビア語の方が助かるけど」
「――ハッ! 返してやるよ、こんなもん!」
少年は少し戸惑っていたが、ポケットから財布を取り出すと、力一杯、司の胸に押し付けた。
「く――っ!」
「司様――!」
力に押し飛ばされる司を見て、刄は咄嗟に少年を放し、司の体を腕に支えた。
「おまえ……」
少年の表情が、驚愕に変わった。自分の手に触れた柔らかい胸の感触に、刹那、目を見開き――それでも、すぐにハッと我に返り、通りの向こうへと踵を返した。
「待て――っ!」
と、刄は捕まえようとしたが、
「放っておけ」
「しかし――」
「まだ子供じゃないか」
司は言った。
どうやら、自分の姿は見えてないらしい。
「……彼も、あなたには言われたくないかと」
どう見ても、同じ年くらいである。子供に、子供呼ばわりされるのも……。
司は、刄の言葉を睨みつけていたが、
「何か……頭がしびれて、血の気が引く……」
と、朝から体調の悪かった体を、刄の胸に凭せ掛けた。
「司様――」
唇は、薄く色を失くしていた。
手指も冷たく、まるで、貧血のような症状だ。
「タクシーを拾いましょう。大通りまで歩けますか?」
刄が訊くと、
「少し……休んでから……」
と、急速に酷くなる症状を告げる、弱々しい言葉が返って来た。
「抱えて行きます」
「いい……。目立つ」
「……」
進むことも出来ず、休む場所もなく立ち尽くしていると、
「――来いよ。気分が悪いんだろ? そこの教会で休めばいい」
と、不意に後ろから、アラビア語の声が届いた。
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