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番外編 ドクター・刄

ドクター・刄 6

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「始めろ」
 上官の声に、刄は、ハッと我に返って、顔を上げた。
「はっ……」
 今はそんなことを考えている時ではない。たとえ誰の父親であろうと、刄の仕事は、この上官に従うことなのだから――。
 いつも以上に、メスを持つ手に力が入った。
 ふと、世友の言葉が、脳裏を過った。
『おまえが手を貸してくれるなら、話しは早い』
 あの時、世友はそう言ったのだ。それが偶然であるはずもない。
 彼は、この男が拷問にかけられるであろうことを知っていたのだ。そして、その拷問を行うのが、ドクター・刄であることも――。
 なら、その世友の目的は――。決まっている。彼は、この男をひと思いに殺して欲しかったのだ。残酷極まりない拷問にかけず、うっかり動脈を傷つけたことにでもして……。
「――どうしたのだ、ドクター・刄?」
 止まったままのメスを見て、傍らに立つ上官が言った。
 それほど不自然な間が空いてしまったのだろう。
 刄はメスを握り直し、
「いえ――。何でも……ありません」
 と、上官の言葉に従った。
 まず指先を落とすのは、その繊細な部分には神経が集まり、より強い痛みを与えることが出来るからである。もちろん、指を落とされれば、余計な小細工も出来なくなる。その上、命には別状がない。
 手足を斬りおとす処刑もあるが、それではすぐに死んでしまう。
 男は痛みと恐怖に色を失くし、声にならない苦鳴を上げていたが、刄の方を見上げると、
「早く殺せ……! おまえのためだ。おれが傷つくのは体だけだが、おまえはそうではないだろう……?」
 と、憐れむように、口を開いた。
 胸を一掴みされる言葉だった。
 この男は何もかも知っているのだ。刄の生い立ちも、思玉との出会いも――。恐らく、世友から聞いているのだろう。
「殺せ! ドクター・刄! 早く……殺してくれ!」
 自分が楽になりたいがための叫びでは、なかった。
 そして、刄の体は、動かなかった。
「何をしている? 続けろ、ドクター・刄!」
 上官の叱責が追い打ちをかける。
 だが、それでも――。
 それでも……。
 逆らおうと思っていた訳ではない。世友に手を貸し、スパイとして捕らえられた男に、情けをかけた訳でもない。
 ただ、仔犬の体調を心配し、自分も医者になりたい、と言った、思玉の姿が胸を過り、体が全く動かなかったのだ。
『ぼくもお医者さんになりたいな。そうすれば、たくさんの人を助けられる』
 助けられる……。
 たくさんの人を……。
 本来、それが医者の姿であったはずなのだ。病気を癒し、傷を治し、それが医学を学んだものの務めであったはずなのだ。
 それが……。
「早く殺せ!」
「続けろ、ドクター・刄!」
 二人の言葉が、刄の心を追い詰めるように、急き立てる。
 胸の奥が締め付けられ、メスを持つ手が小刻みに震えた。
 伝令が上官の元へ、耳打ちに来たのは、その時だった。
「――国境を越えようとしていた、この男の子供を捕えました」
「――」
 刄は、その伝令の言葉に、目を瞠った。
 この男の子供――思玉が、スパイの息子として捕らえられた、と言ったのだ。
 そして、その言葉は、拷問を受ける男の耳にも、届いていた。
「馬鹿な! あの子はまだ十一歳の子供だ! こんな世界のことなど何も知らない――。何も知らないんだ。俺の命ならくれてやる! 思玉には手を出すな!」
 叫びのような声が上がった。
「生憎、我々は、貴様の命が欲しい訳ではない。貴様が知る仲間の名前と所在の全てが知りたいのだ」
 狡猾な上官の唇が、皮肉げに歪んだ。
「殺せ! 殺してくれ、ドクター・刄! おれが喋る前に、早く――!」
「ほう……。子供の命よりも、仲間が大事か」
「おれがいるから、思玉が人質に取られる! おれがいなくなれば、何も知らない思玉を捕えておく必要もない。――早く殺せ、ドクター・刄!」
 悲壮な面持ちでのその叫びは、親の愛情を知らない刄にも、疑いようもない想いとして届いていた。――いや、思玉を守りたい、というその気持ちが、この男の気持ちと一致した、とでも言えばいいのだろうか。
 あの、素直で優しい、真っ直ぐな子供を――。
 体は、知らない内に、動いていた。
 子供を案じる男の喉を切り裂いたメスは、そのまま傍らにいた上官の喉をも一直線に切り裂き、刄は血飛沫の中を駆け出した。
 前に立つ者には、迷うことなく、メスを翳した。
 医官とはいえ、戦闘訓練も受けた上尉としての階級も、決して名前だけのものではなかった。倒す者がいなくなるまでメスを振り上げ、こぶしと蹴りで道を開いた。
 そして――。


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