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XX Ⅱ 

XX Ⅱ-8

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 バタン――っと激しい勢いで、ドアが開いた。
 湖畔に建つ別荘での出来事である。
「どこへ行ってたのよ、グレアムっ。わたし、森の中で道に迷って大変だったのよ!」
 開いたドアと同じように腹立たしげな顔付きで入って来る青年に、ロレインは目一杯の不満を投げ付けた。
 今は夜――。
「ねェ、聞いてよっ。わたしが森の中で迷ってたら――」
「煩い! 静かにしてろよ」
 グレアムは、ロレインの言葉を、苛立ちを露に怒鳴りつけた。
「――。な、何よ……っ」
 ピリピリとした空気が、部屋を満たす。
 ロレインは怯みながらも、キッとグレアムを睨みつけた。
「……十六夜司に会って来たんだよ」
 グレアムは言った。
「え?」
「あいつは、クリスを殺したと言っていた。クリスのことなんか、ほんの少しも愛してはいなかったんだ……。政略結婚だから――。お互いの意思など関係なく決まっていた結婚だから、だから殺したと言っていた。あいつは、クリスが邪魔で殺したんだ! 結婚が厭なら断ればいいものを、クリスを……クリスを殺して……」
「グレアム……」
「許すものか……。クリスは……クリスは、一番、幸せになる権利のある人だったんだ……。誰よりも幸せに、誰よりも恵まれて暮らす権利を持った人だったんだ……。幸せにならなきゃいけなかったんだ……。それを……」
 小さい頃から、何よりも自慢の兄だった、クリス……。頭が良く、聡明で、オックスフォードもファースト・クラスで卒業ファイナルし、いつも優しく、頼もしかった。ことあるごとに友人たちに自慢して回り、その友人たちが羨ましがるのを見て、いつも満足感に浸っていたのだ。
 ロレインとの結婚を父たるウォリック伯爵に反対され、家を飛び出した時も、クリスだけが味方になってくれた。
 そのクリスを殺した人間……。
「あいつを生かしておくものか……。必ず、クリスの恨みを晴らしてやる……」




「グレアムは相変わらず気が短い」
「僕が行きますよ……」




 枯れ葉を敷きつめた、余りにも美しい湖のほとりに腰を下ろし、司は膝を抱え込むようにして顔を埋めた。そう長い時間ではない。すぐに菁が傍に来て、
「そのままでは体が冷える」
 と、司を背後から抱くようにして、自らのコートの中に包み込む。司の小さく丸めた体など、容易に隠れるほどの大きなコートは、それだけで充分、暖かい。
「……安定期に入ったらしいから、そろそろ一度、日本に戻らないと」
 顔を埋めたままで、司は言った。
「厭なら、私と一緒に香港に来ればいい。一番、安全だ」
「安全?」
 その言葉を鼻で笑い、
「ぼくは安全な所へ行きたい訳じゃない……。少し一人にしてくれないか――」
「駄目だ」
 間髪いれずに、菁が言った。
「何を隠している? 今度は何があったんだ?」
 と、朝から司の様子を気にしていたように、問いかける。いつもより無口でいたことが、十六夜に戻ることを不安に思っている、と感じさせたのかも知れない。子供を宿した体で、まだどんな危険があるかも知れないというのに。
 だが、そんな危険など、何の不安にもなりはしない。司に不安になることがあるとすれば、それは、誰にも解りはしない、不安……。
「……金魚が跳ねるんだ」
 小さな声で、司は言った。
「――司?」
 狂った、とでも思ったのだろうか。訳の解らないことを言う司に、菁が不安そうに首を傾げた。
「解らないだろう……? 時々、お腹の中で、小さな金魚が跳ねているような感じがあるんだ」
 誰にも解ってもらえない不安。
 誰も教えてくれない不安。
 司自身でさえ、見たことも聞いたこともない不安。
 自分の体に起こってから芽生える不安。
「それは……」
「胎動らしい。――自分の体の中に、自分ではないものがいるんだ。生きて、動いて……どうして、こんなことに……」
 体に変化が訪れる度に不安になり、どうしようもない恐怖にとり憑かれる。今はもうあり得ない、出産、という現実を前にして――。
 菁の手が、司の腹部に滑り降りた。司が感じているものを知りたい、というのだろうか。こんな恐怖を――。
「やめ――っ!」
 体を捩じらせ、司は逃げるように体を浮かせた。が、菁が強い力で、それでも優しく、司の体を抱きとめる。そして――、
「静かに、司。誰か来る」
 小声で耳元に囁きかけた。
 ――誰か。
 恐らくそれは、自分たちが見知った者ではないのだろう。
 ハッとして耳をそばだてると、確かに、落ち葉を踏む微かな足音が近づいていた。刄でも、桂でもない、誰かの――。


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