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沙希伶(シャシイリン) ――XX外伝――
沙希伶 ――XX外伝―― 2
しおりを挟む中環の高台、アッパー・アルバート通りに建つ白亜の建物に続く門をくぐると、三月のこの季節には、薄紅や白のつつじが鮮やかに咲き誇り、緑の深い周辺の景色とも合わせて、黒い屋根の瓦の色に、眩しい陽射しをきらめかせていた。
昨年、オックスフォードを卒業し、香港の大財閥、李グループの次男として、それなりの役職に就く李菁は、まだ二二歳という若さでありながら、将来は父の裏の顔である、チャイニーズ・マフィアのドンという地位を受け継ぐ候補でもある。
だが、今日は……。
「そうあからさまに厭な顔をするな」
父、李嘉興のその言葉に、
「嬉しそうな顔で、見合いなんか出来ません」
と、開いた門をくぐる車の中で、むっつりと不機嫌に受け応える。
学生時代は伸ばしていた髪も、今はあごの下で切りそろえ、ラフな格好が許されていた去年までとは違って、高級なスーツに身を包んでいる。
「沙長官の御子息だ。形だけの結婚で構わん。上手くやれ」
「……こんなことなら、十六夜翁に返事をしておくべきでしたよ」
「柊――だったかな?」
「いえ、弟の司の方です」
菁が言うと、李嘉興は目を丸くして、
「まだ小学生だろう?」
「十二歳です。家庭教師なんですから、小学生でも中学生でもありません。見合いをせずに帰っていいのなら、あと十年くらい待ちますよ」
「馬鹿か、おまえは」
「馬鹿で結構です」
そんな話をする内に、車は玄関の車寄せの前でピタリと止まり、二人は邸内へと案内された。
そこには、この香港政府の特首である沙行政長官と、その子息である、菁より少し年上の青年が待っていた。
あとはお決まりの見合コースで、昼食をとりながら、履歴書紹介のような会話が交わされ、デザートを終えてコーヒーが来るころには、あらかたの情報は交換されていた。
――あとどれくらいで帰れるのだろうか。
父、李嘉興に言ったことは、半分、冗談めかしていたものの、こんな見合をさせられて、結婚させられるくらいなら、あの生意気で、厄介で、片時も目を離せない小さな子供が大人になるのを待って、結婚した方が余程マシだ、と思っていたことは間違いない。
十六夜司――。夏に遊びに来る日本有数の大財閥、十六夜グループの次男であるその子供は、何とも不思議で、心惹かれずにはいられない存在なのだ。
もちろん、彼はまだ幼くて、恋愛対象になどなりはしないから、司の父である十六夜秀隆の意味深な言葉にも、軽い冗談で返しておいたのだが……。
そんなことを考えながら、窓の外へと視線を向けると、木立の生す見通しの悪い側の高い壁を、その尖った鉄柵を気にするでもなく、慣れたことのように乗り越えようとする少年の姿が目についた。
もちろん、すぐに見咎められて、捕まることになるのだろうが……。
そう思いながら、事の成り行きを誰にも話さず、窓越しにのんびりと眺めていたのだが、少年は誰にも気付かれなかったのか、それとも菁の目にしか見えていない幽霊なのか、警備の人間の誰一人として捕えられることもなく、菁の視界から消えてしまった。
――邸内に入ったのだろうか。
それなら必ず、誰かに見つかるはずなのだが。
窓から忍び込んだにしても、門からそこまでの間、見つからずに辿りつけるとは思えない。
――本当に幽霊か、白昼夢だったのだろうか。
まさか、と打ち消しながら、菁は再びその姿が見えはしないかと、窓の外を見続けていた。
長い髪を背へと零す、まだ線の細い少年だった。どう多く見積もっても、十八、九――。
考えていると、
「何か見えますか?」
向かいの席の、沙長官が訊いた。
菁は、ハッと視線を戻し、それから少し迷ったが、見たことをありのままに話して聞かせた。
「そうですか……」
沙長官はそう言い、
「あれには関わらないでください。恐らく、着替えでも取りに来たのでしょう。他の者にも、見て見ぬふりをするよう、言ってあります」
と、疲れたように眉間を押さえた。
だから、あの少年は、誰にも見咎められることなく――いや、見て見ぬふりをされているため、邸内に忍び込めたのだ。
「彼は……」
「末子の希伶です。――ああ、ご心配なく。李財閥にご迷惑をかけることはしませんから」
「……」
金持ちの放蕩息子など、よくあることだ。
――何に甘えているんだか……。
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