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XX Ⅰ
XX Ⅰ-29
しおりを挟む「刄です、柊様」
ドア越しに、耳慣れた声が入り込む。あれ以来、顔を合わせることもなかった主治医の声だ。
司はすぐにドアへ向かい、柊が何も言わない内に、ドアを開けた。
顔を合わせ、刄が驚いたように、目を見開く。司がここにいることを知らなかったのだろう。
「司様……」
「香港へ行くぞ、ドク。支度をしろ」
最早、一刻もこの屋敷に留まっている積もりはなかった。
「あの……?」
刄が訳が解らない様子で、首を傾げる。
「香港だ」
説明する時間ももどかしく、その言葉を繰り返した時、刄の手に巻かれた白い包帯が目についた。この間まではなかった傷――そして、司の知らない傷である。
「――その手は、ドク?」
司は訊いた。
「あ……いえ、何でも……」
刄が昧に言い淀む。言えない事情があるのだろう。恐らくそれは、この部屋の主に関係していることに違いない。
「あなたがしたのか、お兄さま? あなたがドクの手を――。ドクがあなたに何をしたと言うんだ! たとえあなたでも、ぼくの部下に手を出すことは許さない――」
司が柊に食って掛かると、
「違います、司様! 柊様は何も――。これは……これは、私が勝手にしたことです」
刄が言った。
「……おまえが勝手に?」
窓際から、低い笑みが広がった。肩を小刻みに震わせ、柊が心底楽しげに笑っている。
司は、手のひらに爪を食い込ませた。また、何かの罠に堕ちたのだ。――いや、何かの罠が待っているのかも、知れない。
「……行こう、ドク。もうここにいる用もない」
刄を促し、部屋を出る。――いや、出ようとした時、
「いえ……。ご一緒出来ません」
刄が言った。
今までどこへ行くのにも同行していたというのに、司と一緒に行けない、と言ったのだ。
「……ドク?」
「申し訳……ございません……」
刄が視線を逸らして、言葉を絞る。
「どういうことだ……? 柊に何か言われているのか? おまえの主人はこのぼくだ! 柊に何を言われようと聞く必要はない」
今までになかったことに困惑しながら、司は強い口調で言葉を打付けた。
刄は黙って視線を伏せている。
「何故……? ぼくに何を隠している……? 何故、何も言わない……?」
「……。申し訳ございませ――」
「もういい!」
頑なに口を噤む刄を押しのけ、司は部屋から飛び出した。
高らかな柊の笑い声が部屋を突き抜け、背中に冷たくのしかかる。
十年間の星霜を引き裂くような笑い声だった。――いや、心を引き裂くような笑い声であったかも、知れない。
ともすれば叫び出しそうになる喉を押さえ、司は長い廊下を駆け出した。
一度、柊の言葉に惑わされ、司の体を開いた刄が、また、柊に何かを言われ、司に何も言えないまま、柊の言いなりになっているのだ。一度だけなら、許せただろう。
だが、二度目は……。
ドンっと誰かに打付かった。
金色の髪が、ふわりと揺れる。
「前も見ないで、何をそんなに慌てているんだ、司?」
クリスが顔を覗き込みながら、しっかりと司を受け止める。多分、彼はこれからもそうして司を受け止めて行くことになるのだろう。それでも――。
「……あなたには関係ない」
司はクリスの脇を擦り抜けた。
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