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XX Ⅰ

XX Ⅰ-18

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 ロールス・ロイスのリムジンが門を潜り、しばらくすると、清涼な日本庭園の奥に、格式ある荘厳な屋敷が現れた。
 東京、十六夜本邸――。
 十六夜秀隆の――今は、十六夜柊が暮らしている屋敷である。
「お帰りなさいませ、司坊ちゃま」
 リムジンのドアを開け、迎えに出て来た老いた執事が畏まる。もう何十年も表情を変えたことなどないのではないか、と思えるような生きた化石だ。
「柊は?」
「先程からお待ちでございます」
「そう」
 司は屋敷の中へと足を向けた。――が、
「あ、坊ちゃま――。ご婚約おめでとうございます」
 執事の声が背中に届いた。その表情は、孫の幸せを見るように綻んでいる。数十年ぶりの破顔かも知れない。
「……情報が早いな」
「はい。クリストファー様より何度もお電話がございましたので。皆、浮足立っております。私共も、司坊ちゃまがこれほど早くご婚約なさるとは思っておりませんでしたので……。心より、お喜び申し上げます」
「……」
「司様、中へ……。柊様がお待ちです」
 止まった足を促すように、刄が言った。
「ああ……」
 二人は屋敷の中へと足を入れた。
 広い廊下の両側に、ズラっと使用人たちが並んでいる。皆、心を弾ませるように、執事と同じ言葉を、司に向けて投げかけた。もちろん、それが、子鹿を崖っぷちに追い詰める言葉だとは知りもせずに。
 司も刄も応えずに、互いに口を利くこともせず、いつもと同じように奥へと向かった。
 当人抜きで出来上がってしまった政略結婚は、滑稽でもあっただろうか。
 司はその滑稽さに笑おうとして、やめた。
「――お兄さま、司です」
 ドアの前に立って、声をかける。
 両開きの扉が、静かに開いた。脇には、伊吹という柊の部下が控えている。
 柊は、中庭を観ることが出来るその部屋の窓際に、いた。大きな背凭れの椅子に腰掛け、部屋に流れる音楽に耳を傾けている。ドアの正面に身を置かない用心深さも、手元の鞭も、普段と何ら、変わりない。
「いつ観てもきれいな庭ですね」
 部屋に入り、司は硝子の向こうを見つめて、声を掛けた。
「いい厭味だ」
 サングラスの奥の目を暝ったままで、柊は言った。その目で庭を見たことがないことだけは、確かだっただろう。
「屋敷中、ぼくの婚約話が飛び交っているようですが」
「ああ。昔から使用人という人種は、その手の噂話を嗅ぎ付けるのが早い」
「……。ただの噂だと判って安心しましたよ。ぼくはてっきり、あなたが噂の元かと思っていましたから」
「クックッ……。残念だったな。ロード.ウォリックの子息から何度も電話があったせいで、その噂が広まっただけだ。私は、使用人が興味津々に訊いてくるから、その電話の相手が、おまえが英国で逢った青年だと応えてやった」
「あなたがそれほど使用人に親切になさるとは知りませんでした」
「フッ。――顔を触らせてくれ、司。確か、おまえの顔を視るのは一年振りだ」
 そう言って、柊は司を呼び寄せた。
 相変わらず、何を考えているのか判らない。
 無言のまま、司は柊の前に足を進めた。側まで来て、柊が差し出す手を導き、自らの頬に触れさせる。
 柊の指が、見えない目の代わりに、司の顔の形を読み取って行く。形のいい眉、長い睫、柔らかい頬、スラっとした鼻、可憐な唇……どれも丹念に、指で、視る。
「今、私がおまえの両眼を指で突けば、おまえも私と同じように、めくらになるだろうな」
「……」
 柊の言葉にも表情を変えず、司はただ黙って、指に愛でられるに任せていた。
「相変わらず、私には違う表情を視せてくれないらしい。小さい頃は、よく私に懐いてくれていたというのに……。笑い顔も、膨れっ面も視せてくれた」
「ぼくは今もまだ子供ですよ、お兄さま。心のままの表情が顔に出る」
「フッ。――座るがいい」
 柊は唇を歪めて、司の顔から手を離した。
「いえ。ぼくはこのままで」
 司はそう言って、椅子に掛けずに、中庭を見渡す硝子の前へと足を向けた。
「話は確か、ロード.ウォリックの子息のことだったな」
「ええ。彼とぼくを会わせることはお父さまの意思だった、と聞きましたが……。ぼくも少し思い出したんですよ」
「ん? 何を、だ?」
「いつか、そんな話を聞いたような……。ぼくがまだ小さい頃……あまりよくは覚えていませんが、車の中で……。そう。長いトンネルの中でした」
 その言葉に、硝子に映る柊の表情が、わずかに、変わった。
「――トンネル?」
「ええ。長いトンネルで……。余り長いので、ぼくは途中で眠たくなって。気がついたら、美しい野山の中に建つ屋敷の前にいました」
 司は淡々とした口調で、記憶の中にあるその場所のことを口にした。もちろん、実際に着いた場所は十六夜の屋敷であり、トンネルが続いていた場所など知りはしない。
「……お父様が、おまえを《イースター》に連れて行っていたとは、な」
 柊が薄く、瞳を、細める。
「《イースター》? それは十六夜の事業で、絶滅した動植物を遺伝子から蘇らせるプロジェクトのことでしょう?」
「ああ。その通りだ」
「ですが、今、あなたはそのプロジェクトのことではなく、特定の場所を《イースター》と――」
「ああ。あそこも《イースター》だ。――その様子では、《イースター》には行ったものの、肝心な部分は見ていないようだな」
「……」
 柊の言葉に、司は、ギュッと指を結んだ。
「まあ、せっかくだ。おまえの結婚祝いにでも連れて行ってやろう。――いや、結婚はしないのだったかな?」
 無気質なサングラスが、嘲笑うように、濃度を変える。
 結婚すれば教えてやる、と言っているのだ。
 だが、司が結婚したところで、その後、柊が本当に司を《イースター》へ連れて行くとは、思えない。結婚祝いなど、平気で別の物にすり替えてしまうだろう。
「ぼくはこれで失礼します。あまり長く話をしては、お兄さまの体に障りますから」
 否とも応とも言わず、司はドアへと翻った。
 ドアの前に控えていた刄が、それに合わせてドアを開き、司に続いて部屋を出る。――いや、出ようとした時――、
「ドクター.刄、君に少し話がある。部屋に残りたまえ」
 柊が言った。静かな口調でも、有無を言わせぬ口調だった。
「は……? 私に、ですか?」
 戸惑いのままに刄が訊くと、
「医者としての患者への質問以外、君には私に問いかける権限はない。話があるのはこの私だ」
 サングラスの反射が、鋭く、変わった。
 これこそが、彼の本来の使用人に対する態度である。
 刄が指示を仰ぐように、傍らの司を垣間見る。
「ぼくは先に部屋に戻っている。後で来るといい、ドク」
 司は肩を竦めて、部屋を出た。
 パタン、とドアが閉じた。



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