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失恋話 Ⅳ
しおりを挟むいつになったら本題に入るのだろう、と、ぼくは時計を気にしていたが、ビルはそんなことなどお構いなしで、話を続ける。
「おれは、一向に車の側から離れないガキに、いい加減、腹が立って来てさ。車のことを褒めてもらった、っていっても、そんなガキに褒められたって嬉しくもないだろう? だから、
『年はいくつなんだ? 家に帰らなきゃ両親が心配するだろう』
って訊いてやったんだ。もちろん、心配してくれるような良い両親がいるなんて思っていなかったさ。応えられないことを訊いてやれば、そのガキもきっと帰るだろう、と思ったんだ。そうしたら、そのガキも寂しそうな顔をして、それでも一応、笑って、やっと車の側から立ち上がったんだ。その時、初めて靴が見えたよ。サイズの合っていない汚い靴なんだ。きっとどこかで拾って来た靴なんだよ。だからおれは、そのガキはおれに金をねだるつもりで、車の側で待っていたんだ、って思ったんだ。
『ギブ・ミー・ニッケル(5¢ちょうだい)』 ってさ。よくいるだろ? でも、そのガキは金をねだらずに、
『五つ』
とだけ応えたんだ。だけど、立ててる指は四本で。どうやら、この間、五つになったばかりらしくて、指の本数を間違えているんだ。そのガキはまた頭を掻いて、恥ずかしそうに笑って、すぐに五本目の指を立てたよ。本当に馬鹿なガキなんだ。数もロクに数えられないんだぜ。だから、おれは言ってやったよ。
『おまえがこの車を買うには、少なくとも後一万年はかかるな』
って――。普通なら、小さいガキにそんなことなんか言わないだろ? 言っても、冗談めかして言うだけだ。――でも、おれは言ったよ。そうでも言わなけりゃ解らない阿呆だったんだ」
このままいつまで付き合わされるんだろう、と思いながら、ぼくはもう時計を見ることもせず、彼女との約束の時間まで、ビルの話に付き合うことにした。
「おれがそう言ったら、そのガキはどうしたと思う? また照れるように笑ったんだ。人の厭味なんて、全く堪えていないんだよ。だから、おれもそれ以上付き合ってる気もしなくて、車に乗ることにしたんだ。でも、運転席のドアのところにそのガキがいてさ。
『危ないから退いてろ』
って言って、そのガキを脇へ下がらせたんだ。ちょっと押して下がらせただけなんだぜ。――いや、面倒臭くて、少し力が入っていたかも知れないけど――。そのガキが、コテン、と転んだんだ。呆気ないほど、簡単に――。押した時に判ったんだけど、惨めなくらいに痩せてるんだよ。ロクなものを食べていないんだ。悪いことをしたな、って思ったよ。そのガキが自分から車の側を離れるまで待っててやれば良かった、って。そう思ったけど、それ以上に、そんな小さい子供を突き飛ばしたことに焦って――他人の目を気にしていたんだ。そのガキが泣き出さなくて良かった、とか、すぐ近くに人がいなくて良かった、とか思って、ホッとしたんだ。それで、人が来ない内に、そのガキに手を貸して起こしてやって。そうしたら、
『ころんじゃった』
って、まるで自分の失敗みたいに、恥ずかしそうに言うんだ。おれが突き飛ばしたせいで転んだ、っていうのにさ。おれ……自分が恥ずかしかったよ。だから、
『家の人が心配しないのなら、何か食べてから帰るかい?』
って訊いてやったんだ。――いや、それもいつも通りの貧困者への施しのつもりだったかも知れない。それに、そのガキは気づいていなかったけど、ヒジから血が出ていたんだ。転んだ時に怪我をしたんだよ。でも、そのガキは泣いていなくてさ。痛いとも言わないんだ。おれは心の中で、こいつは正真正銘の馬鹿だから神経も通ってないんだな、って思ったけど、そのガキを不憫に思っているおれもいて、そのガキが、コクン、とうなずいたから、何か食べさせてやることにしたんだ。でも、その汚いガキを連れてレストランに入る気がしなくてさ。ホットドック・スタンドで、ホットドックとジュースを買ってやったんだ。もちろん、ヒジの傷もハンカチを濡らしてきれいにしてやった。ドラッグ・ストアで絆創膏を買って、その傷口に貼ってやったんだ。――そのガキが家に帰って、おれに怪我をさせられた、って言ったら厭だろ? 本当は、そんなことを親に言い付けるようなガキじゃないんだけど、おれは貧乏人はみんな小賢しいと思っていたからさ。そいつが、そんなことを考える脳のない馬鹿なガキでも、親に言い付けられないように、って文句のつけようがないくらい親切にしてやったんだ。そして……その子がホットドックを食べている間において帰った。もちろん、
『もう帰るから、後は一人で大丈夫だね?』
と訊いてやったさ。そのガキも、
『うん』
とうなずいた。だから家に帰ったんだ。それで――」
そこまで言って、ビルは涙を堪えるように、唇を結んだ。
ぼくにも、彼が泣くまいとしていることが判ったので、少し一人にしてやろう、と思って、冷蔵庫に氷を取りに行った。
カラン、カラン、と氷を入れる音を立てると、背中の方から、ズズっ、と鼻を啜り上げる音が聞こえて来た。
ビルの方もストレートでは体に悪いだろう、と思ったけど、無理に水割りに変えさせようとは思わなかった。今の彼には酒が必要なのだ。――といっても、肝心の失恋の話は、まだ聞いていないけど。
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