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キメラ - 翅

神の終焉 Ⅰ

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「まあ、事故ですって」
「怖いわねぇ。ダンプに撥ねられたらしいわ。まだ若い子らしいんだけど」
「見たわよ。金髪の華奢な女の子――いえ、髪が短かかったから、男の子かも知れないけど、何を慌てていたのか、急に車道に飛び出して……」
「ドラッグとかしてたんじゃないの?」
「かも知れないわね、最近の子は。大人しそうな顔して陰でやってるから」
「死んじゃったの?」
「救急車で運ばれて行ったけど、きっと無理ね。もの凄い勢いで地面に叩き付けられていたもの」
「やだ、怖い」
「そりゃもう凄かったわよ。そんな瞬間を見るなんて、今日は眠れないかも知れないわ」
「早く忘れた方がいいわよ」
「そうね……」




 目を開いて顔を上げると、そこには恐怖の形相で凍りつくゲルトルーデの姿があった。腹を抱え、呻きと共に涎を垂らし、今また狂気を瞳に焼き付けている。
 ――もしかして。
 もう卵が孵化し、ゲルトルーデの臓物を糧にし始めたと言うのだろうか。あの産卵から、こんなにも早く。
「何かが……動……」
 握っていたメスは床に落ち、血の海に浮かんでいるようにも見えた。
「あああああ……っ! いやあああ――!」
 涙を流して叫びを上げると、ゲルトルーデは再びメスを拾い上げた。そして、自分の腹部に向けて、突き刺した。
「――!」
 それは、制止するのも憚られる様で、エディは腰をするように後ずさると、ドアに向けて駆け出した。
 自らの体が、他の生き物に生きながら食い荒らされる――それは、世にも悍ましい狂気であったに違いない。
「誰か! 誰か、早く来て! 彼女が――ゲルトルーデが死んでしまう! 早くしないと――。パパかエルヴィラを呼んで来て!」
 ドアを叩き、エディは今、《ゆりかご》の中で起こっている危機を外へと告げた。
 だが、《ゆりかご》と廊下の間には、まだ監視室という空間があり、そのエディの叫びが外に届いているのかどうかは不明だった。それでも、何度も何度もドアを叩いて、助けを呼んだ。
 また、ゲルトルーデも、腹の中のモノを殺したいのか、取り出したいのか、激しくメスを突き立てている。
「ダメだ! 待って――。落ち着いて!」
 エディは、メスを持つゲルトルーデの元へと再び駆け寄り、自傷する手を握り締めた。
「あああああ――!」
「お願い! パパを信じて! きっともうすぐ来るから!」
「いやあああ――! 殺して! 私も殺して――っ!」
「大丈夫だから。本当にもうすぐ――」
 カチリ、と高い音がしたのは、その言葉が言い終わらない内だった。
「エディ!」
 血まみれの二人に目を瞠りながら、オペ衣を来た椎名が飛び込んで来た。
「大丈夫か!」
 ゲルトルーデの手にメスがあることに気付いたのだろう。
「ぼくはちょっと怪我したくらい。でも、彼女が――。早くしないと!」
「解った。よくやった」
 椎名はそう言ってエディの頭に手を置くと、
「さあ、メスを放して」
 と、ゲルトルーデの手から、血塗られた凶器を引き剥がした。
「お願い……。殺して……。怖い……」
「駄目だ。生きて償わなくてはならないことがあるはずだ。すぐにオペ室の準備も出来る」
「お願……」
「彼らも――《chimera-翅》も、《Hydra-5》も、毎日何をされるのか不安で、それでも死ぬことも教えてもらえず、生きて来た。その思いを知る人間がいなくなったら、またここで同じことが繰り返される」
「……」
「さあ、外にストレッチャーがある。――手伝ってくれ、エディ」
「うん、パパ」


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