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十五夜 穆王八駿(ぼくおうはっしゅん)の因
十五夜 穆王八駿の因 28
しおりを挟む何やら、覇王花が口の中でぶつぶつと唱え始めると、ビンの中で出口を塞いでいたビー玉が微かに震え、呪を解かれるように、軽く浮いた。
――やった!
すぐさま外に飛び出そうとしたデューイの行動を止めるように、ビンの口を覇王花が塞ぎ、
「ええな、約束の接吻やで?」
と、恐ろしい形相で(デューイにはそう見えた)、念を押した。
「は、はい……」
背に腹は代えられない。
デューイはコクリとうなずくと、さっきの勢いの一〇分の一くらいの勢いのなさで、ビンの外へと飛び出した。
全く、とんでもない構造のビンである。
日本人のアイデアと、手先の器用さには、ほとほと泣かされてしまう。
灰の姿で漂いながら、デューイはがっくりと肩を落とした。
「ほな、人型になってもらおか」
舌なめずりするような声色で、覇王花が言った。
「え……?」
そんなものに、デューイはなれない。
形だけなら、人型になれる、とはいったが、それは練習をした未来のことで、今はまだ練習中。
もちろん、やってのけた人間――魔物を目の前で見たのだから、嘘ではないのだが。
「あ、あの、最初のキスは目を瞑ってから……」
こんな子供だましに誰がノってくれるというのだろうか……。
「いややわあっ、うち、目ぇ開けたままやったぁ? 恥ずかしいぃ。そんなん、当たり前やんかぁ」
――ノってくれた!
案外、可愛らしい女性なのかもしれない、この覇王花という女帝。
そう。人は見た目で判断してはいけない、と思い知ったばかりではないか。
女帝と呼ばれ、黄帝の知人として、あの黄帝が息子を行かせるくらいの人物なのだから、きっと、素晴らしい人格者に違いない。
「なんかドキドキするわぁ」
少女のように頬を染めて、覇王花が分厚い唇を突き出した。
――これはこれで可愛い、これはこれで可愛い、これはこれで可愛い……。
何かのお祓いでもするように、心の中でぶつぶつと呟き、デューイは覚悟を決めて灰を唇の前に集合させた。
いざ、その唇に、灰の体を重ね合わせる――と、刹那、吹き抜けた一陣の風に、桜の花びらが一斉に散った。
それは正しく桜吹雪としか呼びようのない、見事で、美しい散り際だった。
薄紅に染まる小さな無数の花びらが、空間を自らの色に染め変える。
恐らく、この世で最も美しい、ひと時――。
つい、その美しさに魅せられて、目の前の覇王花のことを忘れていたのだが……。
振り返ると、覇王花の分厚い唇には、さっき舞った桜の花びらが、折り重なるようにして張り付いていた。それを心地よさそうに受け止めている覇王花の顔ときたら……。
――見なかったことにしよう。
そっと、覇王花の唇についた花びらを剥がし、デューイはそのまま逃げ――出そうとしたのだが――、
「小鳥が啄ばむような、ろまんちっくな接吻やなぁ……」
覇王花がうっとりとした眼差しで、瞼を上げた。
どうやら、唇に貼りついた桜の花びらを、デューイのキスだと思ったらしい。
それはそれでラッキーなのだが、デューイとキスをした、という既成事実が出来てしまうのも、なんだか……。
――舜に誤解されたらどうしよう。
ここは美国ではなく、キスが挨拶ではない中国本土のラオス国境近くの山なのである。
やはり、キスは特別なものだろう。
いや、今はそんなことよりも――。
「間に合うかな……」
デューイは、あっと言う間に花を落とした桜を見上げ、すぐにその身を翻した。
「ちょっと! まだこれからやのに、どこ行くんやな!」
「すみません! 急がないと大変なことになるので――」
何故、その桜のことがこんなに気になるのかは判らなかったが、きっと、そこには大切な何かが意味を持って存在しているに違いない。
ただの人間であった頃には判らなかったが、時々、ふと思い、感じるもの――死に切れない一族の身になってから感じる、普通ではないモノ。
舜がこの樹を助けたい、と思っているような気がするのも、きっとデューイの思い違いではなかっただろう。
白アリが這い出し、瞬く間に花弁を散らした桜の木を前に、デューイは鳥肌の立つ体を抑えつけた。――いや、実際に鳥肌立っていたかどうかは別として。
「い、行くしかないよな……」
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