上 下
362 / 533
十五夜 穆王八駿(ぼくおうはっしゅん)の因

十五夜 穆王八駿の因 3

しおりを挟む


 そこには、絳雪ではなく、一人の青年が立っていた。
 いや、舜の方もいつの間にか東屋の外に出てしまっている。
 太陽も月もないが、うすい靄がかかった白い空は、明け方のような色に染まっていた。
 心の中で、「朝陽、苦手なんだけどなァ」と呟いたが、肌が焼ける感じはしなかった。
「やっと来てくれたのか」
 青年は言った。
「は?」
 と、返すしかないではないか、そんなことを言われても。
「絳雪に伝えてくれ。たくさんの子供が欲しい、と」
「はあっ? 何でオレが――」
 またもや眉を寄せて、そう返すと、いきなり青年が抱きついて来て、
「絳雪――!」
「うわっ! やめろって! 相手が違うだろ、相手が! オレは絳雪じゃない!」
 ジタバタともがくが、あちこちベタベタと撫でまわされる。
 ――本気で殴ってやろうか。
 もちろん、そんなことをしてしまっては、相手は間違いなくあの世逝きになってしまうので、この場は押し返すにとどめて、何とかその場からあたふたと逃げ出す。
 これなら、まだ敵として攻撃を仕掛けて来てくれた方が、殴り返せるだけマシである。
「――たく、何だってんだよっ」
 撫でまわされた体の気持ち悪さに鳥肌立てながら、舜はさらに悪態づいた。
「せっかく、今日はアブナイ変態がいないのに」
 一応、デューイがいないことには気付いているらしい――と、思いきや、
「あれ?」
 と、首を傾げ、
「アブナイ変態……って、誰のことだっけ?」
 ……これは、冗談と受け取っていいのか――、よもや本気で言っている訳では……。いや、記憶がない、と見るべきなのだろうか。
「――っていうか、オレ、何でこんな処にいるんだ?」
 またもや、振り出しの疑問に戻ってしまった。
 もしかして、考えたくはないが、何か日常の大切な部分が記憶から欠けてしまっているのだろうか……。
 しばらく途方に暮れながら足を進めると、また――、
「やったあ! 待ってたんだ、君を!」
 と、先ほどの青年と似た風情の若者が、靄の向こうから姿を見せた。
「またかっ!」
 数歩退き、
「近づくなよ! オレに触ったら、殴るぞ!」
 舜は訳のわからない展開に、ただただ警戒しながら、訝った。
 さっき、娘たちに取り合いをされたことにしても、こうして若者たちに歓迎(?)されることにしても、誰か一人くらい説明してくれてもいいではないか。
「行かないでくれ、僕の子供を残したいんだあ――!」
 立ち去る舜の背中に向けて、青年はそんな言葉を叫んでいる。
 ――アブナイ……。
 ――充分、アブナイ。
 あまり関わらないでおいた方がいいかも知れない。
 とっととその若者からも逃げ出すと、舜は靄の中を突き進んだ。そして、充分に離れたと思えるところで足を止め、肩で軽く息をつく。
 きらきらと何かが輝いている。
「――ん? 何だろ、これ?」
 見れば、それは舜自身の体に付いていたもので、走ったことで体から離れ、チラチラと舞い、周囲を輝かせているらしかった。
 舜は、指先で袖に付着した黄金色の輝きを撫で取ってみた。
 ごく軽い、やさしい手触りの黄粉である。
「んー……。毒かなァ?」
 取り敢えず、得体の知れないものなのだから、舐めたりしない方がいいだろう。払い落すと周囲に舞い散り、自分でも吸い込んでしまう恐れがあるかもしれない。
 正体が解らない今は放っておくとして、さしあたっての問題は、靄が濃過ぎて周囲の様子が何も見えない、ということである。
 そんな中――。
「あの……」
 消え入りそうな小さな声が、白い手と共に耳に届いた。
 聞き覚えのある声である。
 それは――。


しおりを挟む

処理中です...