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十三夜 聖なる叡智(ハギア・ソフィア)

十三夜 聖なる叡智 23

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 ――気付くって、何を?
 舜は黄帝の言葉に顔を上げ、視線を巡らせ、耳を澄ませた。
 黄帝の結界が張られている。――いや、それは戦い始めてすぐに張られたもので、舜もその時に気付いていた。恐らく、炎帝の炎で建造物に被害を及ばせないためのものだろう。――いや、黄帝がそんなことを気遣うだろうか。あの、大陸を沈めても心を痛めない青年が、本気で建造物一つを気遣ったりするだろうか……。
 風もないのに、床の片隅で、何かが動いた。
 目には、見えない。ただ、何かが移動したように感じたのだ。
 だが、何が――。
「まさか――」
 そう言ったのは、索冥だった。自身の霊気を這わせるようにして気配を辿り、そのモノの存在を感じ取る。
 さらさらと、音とも呼べない微かな流れが、床に転がる苺ジャムの小瓶に入り込む。
 舜の心臓が詰め込まれていた、あのビンである。
 零れた砂が、テープの逆送りを見るように、ビンの中に入り込む。――いや、砂ではない。あまりにも細かく、微細で、一粒一粒は不可視なほどに捕えられない。極限まで繊細に焼かれたその灰は、もはや人の亡き骸などではなく、人外の――同族の血のみで作られた、別のモノと化していた。恐らく、人間であった脆い肉体を失ったことで、一族の強き力だけを留めることが出来たのだろう。
 微細で、音すら立てることのないその灰は、ジャムのビンの八分目までを埋めると、やっと形状を保てることに安心して、一息ついているように感じられた。
 もしかすると、黄帝の張った結界は、この灰が外に吹き飛ばされないようにするためのものであったのかも知れない。この灰を守るためだけの……。
「クックッ……」
 喉を鳴らして笑ったのは、伏羲であった。
「なるほど。私の八卦も、父上の予言も、どちらも当たりという訳か」
 この地で生命が失われると出た、伏羲の八卦。
 そして、至宝の誕生を告げる黄帝の予言――。
「いや、予言というには語弊がある」
 納得できないように伏羲は言い、それに被せるように、今度は索冥が、
「そうでもないだろ。チビが――舜が己の血を彼に与えなければ、彼は八卦の通りに死んでいた。そして、舜がそれを知っていたとは思えない」
 あの時、炎帝に吹き飛ばされようとするデューイの灰を護り、炎帝の攻撃をまともに背に受けて血を流した時、灰に浸み込んだ舜の血が、デューイに生命を吹き込んだのだ。もう人間ではない、デューイの灰に。
 だからこそデューイは、そんな姿になっても、生命として存在している。
 これはまさに、デューイの命を懸けた、存在を問う予言であったのだ。
 舜にとって、かけがえのない共存相手となるための――。
「デューイ……なのか?」
 少し前まで、自分の心臓の入っていたビンを拾い、舜はその中の灰に問いかけた。
 灰は少し照れくさそうに頬を染め――いや、どこが頬で、どこが染まっているのかは判らないが――そんな雰囲気を感じさせる温もりで、さら、っと少し横に流れた。
 どうやら本当に、そのビンの中にいるのは、デューイらしい。
 もしかすると、直接その灰に触れたら、話をすることが出来るのだろうか。デューイが舜の木乃伊のモザイクに触れて、舜の声が届いたように。
「……」
 人差し指を灰に挿し込み、舜は、その声を聞こうと、耳を澄ました。
 すると――。
「え……?」
 舜は、その感触に、戸惑った。
 さらさらとした、とても細かく心地の良い灰である。少し暖かく、少し息を吹きかけただけで、千々に飛び散ってしまいそうな。
 だが、それだけではない。指の毛細血管がむず痒くなるような、何とも言えない感触がある。そしてそれは、舜には以前に一度、経験したことのある感触であった。
 あの時、炎帝の館で、《朱珠しゅたまの実》を作る『彼ら』の中に、指を浸けた時に――。
「まさか……」
 ――血を吸っている。
「どうやら、やっと気が付いたようですね」
 見透かすように、黄帝が言った。
 彼らは――デューイと黄帝は、これを成すために、あの無謀な死を目論んでいたのだ。
「デューイさんは君の共存相手――《朱珠の実》を作る者になりたい、と言ったのです。私に、私の《朱珠の実》があるように、君の共存相手として――。いつまでも互いを必要とし合える、その存在に」


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